第14話 温かな場所

 深い紺色のリボンに結ばれた、肩までのさらりとした銀髪が夜風に揺れる。暗い空に浮かぶ三日月の明かりは頼りなく、クラウディスの髪を控えめに照らしていた。

 天界の王族のみが許された色彩は、月光の下で一番美しく輝く。自分と同じ銀髪をしたレティシアを思い、クラウディスがふっと感情のない笑みを浮かべた。


 腰のあたりまで長く伸びた、クラウディスと同じ銀色の髪。同じ青い瞳。体を流れる、同じ血液。そのすべてが愛おしく、同時に壊してしまいたいほど憎らしい。

 たったひとりの妹であり、たったひとりこの世で結晶石を宿す女。


「レティシア」


 意味なく名を呼んで、そっと瞼を閉じる。その背後で部屋の隅の暗がりが揺れ、闇が溶け出すようにローフェンが現れた。


「クラウディス様。あの衛兵が下界へ降りたようですが、追いますか?」


 問われ、そう言えば魔法をかけ損ねた者がいたことを思い出す。閉じた瞼をゆっくりと開いて、クラウディスが無関心に頭を振った。


「構わぬ。あれは魔物にもなれず、人にも戻れぬ出来損ないだ。放っておいてもいずれ死ぬ」

「畏まりました。……それから、お探しの本をお持ちしました」


 一旦間を置いてクラウディスが振り向くのを待ってから、ローフェンが一冊の本をテーブルの上に置いた。何のタイトルも書いていない黒いだけの本には、何かを剥ぎ取った跡がある。本の横にローフェンが置いた金色の錠を見て、クラウディスの唇が満足げに弧を描いた。


「よくやった」


 本を手に取ってぱらぱらとページを開くクラウディスの指が、ちょうど半分ほど捲った所でぴたりと止まった。そこに求めていた記述を見つけ、にやりと笑う。


「いにしえの神界王バルザックの悪行が、ここにきて私の役に立つとはな」


 堪えきれずに声を漏らして笑うクラウディスの青い瞳が捉えたものは、『羽落としの剣』と言う不吉な文字の羅列を古びたページに刻んでいた。



 ***



 アレスに連れられて村へ戻ったレティシアを待っていたのは、泣き腫らした大きな目を再び潤ませながら駆け寄ってきたロゼッタだった。後から出て来たガッシュに促されて家に入ると、レティシアの怪我の具合を一目見たメレシャが慌てて水を汲みにキッチンへと走っていった。


「本当に……すみません」


 メレシャとロゼッタに再度傷の手当てをしてもらい、体の包帯も綺麗に巻き直してもらったレティシアが、申し訳なさそうに深々と頭を下げて謝罪した。


「謝ることはない。レティシア殿が無事で何よりじゃ。アレスもよくやったの」


 手当てを終えて部屋を出たメレシャがキッチンでお茶の用意を始めると、アレスが自分の隣で心配そうにレティシアを見ていたロゼッタの肩に手を置いて優しく言った。


「すまないが、メレシャの手伝いをして来てくれないか?」

「……うん、わかった」


 本当ならもう少しレティシアのそばにいたかったが、アレスに優しく言われると断ることもできず、後ろ髪を引かれる思いでロゼッタは寝室から出ていった。さりげなくロゼッタの退室を促したアレスの意図を感じ取って、ベッドに腰を下ろしていたレティシアが二人の視線から意識的に目を逸らして俯いた。


 襲われた理由をきちんと説明しなくてはいけないと分かっていても、いざ口を開くと優しいクラウディスの顔が思い出されて言葉が詰まる。それでも助けてくれた二人には知る権利があると、レティシアが両手をきゅっと握りしめて覚悟を決めた。


「龍神界アークドゥールの族長、ガッシュ様」

「あぁ、儂に敬称は必要ない。こやつとて昔から呼び捨てじゃしな」


 場の雰囲気を和ませようと、ガッシュが笑みをこぼしながら隣に立つアレスを肘で軽く突いてみせる。


「そもそも本来ならお主がレティシア殿に対して敬称をつけるべきなんじゃぞ、アレス」

「……そう言うのは苦手だ」


 ぼそっと呟いたアレスが一瞬窺うようにレティシアを見て、そして居心地悪そうに視線を逸らした。場の空気の変化に救われた気がして、レティシアの表情が僅かに緩む。深く息を吸い込んで姿勢を正すと、レティシアが改めて目の前に立つ二人をまっすぐに見つめた。


「同じ神界人の末裔として、お伝えしなくてはいけないことがあります。……天界王クラウディスが宿命に背き、月の結晶石による世界支配を画策しています。私は何とか逃げ延びることが出来ましたが、天界はもう彼の手に落ちているかと……」


 何となく想像はしていたものの改めて言葉にされると事態の重みが更に増し、少しの間ガッシュとアレスは言葉を無くして立ち尽くしてしまった。


「一万年前からずっと人目に触れることなく封じられてきた結晶石……その封印が私の代で解ける。兄は……クラウディスはどんな手を使っても結晶石を手に入れようとするでしょう」


 伏せた瞼の裏側に、エミリオの姿が浮かんだ。次にマリエルの懐かしい笑顔がよみがえり、レティシアの胸が鋭く痛む。

 きっともう、マリエルも無事ではないのだろう。そう思うと目頭がじわりと熱くなり、こぼれそうになった涙を瞬きで必死に奥へ押し戻した。


「あのクラウディス殿が……にわかには信じ難い話じゃ。……しかし、レティシア殿を傷付けたのも事実。何がクラウディス殿を変えたのかは分からんが、現状儂らが出来ることはひとつじゃ」


 一旦言葉を切ったガッシュが、レティシアから視線をアレスに向ける。


「儂ら龍神界の民は、レティシア殿を全力でお守りするのじゃ。幸いにもレティシア殿が城の結界から出られぬ身であることを知るのは、下界では儂ら龍神界の民だけ。結晶石から離れたとはいえ、二つは同じ祖先をもつ者同士じゃからの」

「そうなのか?」

「他の国では天界で安全に暮らしているという漠然とした情報だけが流れておる。レティシア殿には龍神界を訪問した際に不慮の事故に遭い、責任を感じたお主が魔法都市へ怪我の治療へお連れした……と言うことにしておこうかの」

「それじゃまるで俺が怪我させたみたいじゃないか」


 不服そうな顔でアレスがガッシュを睨み付ける。その視線を軽く流して満面の笑みを浮かべると、ガッシュは力任せにアレスの背中をべしんっと叩いた。


「男のくせに細かいことを気にする奴じゃ。レティシア殿が結界内から出られないことを知っているのは儂らだけじゃ。下界にいるレティシア殿が大怪我をしている理由が必要じゃろう?」

「龍神界を訪問したレティシアが、初めての下界にはしゃぎすぎて魔法を爆発させた」

「何じゃその幼稚な理由は。真実味が足りんわ」


 二人のやり取りを見ていたレティシアが、堪えきれずに小さく笑った。初めて見たレティシアの笑顔に、アレスが一瞬惚けたように言葉を詰まらせる。


「あ……ごめんなさい。何だか……二人がとても温かくて」


 そう言って再度微笑んだレティシアの瞳から、ぽろりと一粒の涙がこぼれ落ちる。予期せぬ涙に一番戸惑ったのはレティシア自身で、慌てて頬を拭ったものの、一旦堰を切った涙は後から後から溢れ出しては白い頬を滑り落ちていった。


「なぜかしら……ごめんなさい。すぐ止めますから……」


 他愛のない言い合いがひどく家族らしくて、レティシアはそれを羨ましいと思った。以前はレティシアにも当たり前にあった光景。そしてもう二度と戻らない光景でもあった。


「レティシア殿……。儂らはいつでもレティシア殿の味方じゃ。レティシア殿は決してひとりではない」


 優しく告げるガッシュに、レティシアはただ黙って頷くしか出来なかった。

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