第13話 死の救済

「……実は、昨夜」


 言いかけて、アレスがぴたりと口を噤んだ。飛竜たちがアレスに何かを伝えようと、一斉に騒ぎ出している。実際に鳴き声を上げる飛竜も出始め、異変を感じ取ったガッシュも何事かと立ち上がって窓を開けた。それとほぼ同時に家の扉が荒々しく開かれ、外からロゼッタが泣きながら飛び込んできた。


「お兄ちゃんっ!」


 アレスに抱き着いたロゼッタは息を切らしながら、それでも助けを求めようと恐怖に震える唇を必死になって動かした。


「お、お姉ちゃんがっ……お姉ちゃんが、変な怪物にっ」


 自分が走って来た方角を指差したロゼッタが、赤黒くぶよぶよとした気味の悪い魔物の姿を思い出して小さな体を大きく震わせた。


「はやっ……助けてっ!」

「ガッシュ! ロゼッタを頼む!」


 そう言うなりアレスはガッシュの返事も待たずに、勢いよく外へと飛び出していった。



 ***



 レティシアの背が淡く光り、ふわりと二枚の翼が現れ出た。

 傷だらけの体では長く走ることもできず、愚策ではあったがレティシアは翼を広げて空へと一気に上昇した。背中の傷は昨夜ロゼッタによって応急処置が施されていたものの、無理をすればいつまた傷口が開くか分からない。長く飛ぶことはできないが、その代わり魔物との距離を十分に取ったレティシアが、上空で結界魔法の呪文を唱えようと指を絡ませた。

 その足元で魔物がぶよぶよとした体を瞬時に細長く変形させ、腕に似せた部分を上空のレティシアめがけて勢いよく突き伸ばしてきた。届くはずのない距離が一気に縮まり、太く鋭い五本の指がレティシアの体を掠めていく。


「きゃあっ!」


 右の脇腹を掠められただけだったが衝撃は思ったよりも強く、レティシアの体が遠く後ろへと突き飛ばされた。飛ばされた先で落下するであろうことを予測した魔物の腕が地面を這い、レティシアの真下で大きくその手のひらを広げる。手のひらから伸びた細長い幾つもの触手が空を見上げ、生贄を欲するように今か今かと待ち構えている様子を目にして、レティシアの背筋がさあっと凍った。


 腹部の痛みを堪え、魔物の手から逃れようと翼を広げる。その時、体に激痛が走った。背中の傷が開いたのだ。

 翼の付け根にある傷が再びぱっくりと割れ、飛び散った鮮血が白い羽根をまだらに汚していく。もはや飛ぶこともできず、魔物の狙い通り石のように落下したレティシアの目から一粒の涙がこぼれ落ちた。


 兄に背くこと自体が愚かだったのか。一度堰を切った涙が止まらない。

 背中から鮮血の糸を引きながら落下するレティシアを捕えようと、赤黒い何本もの触手がざあっと空へ伸ばされた。


 ――刹那。


 ごうっと音を立てて、レティシアと触手との間に紅蓮の炎が割って入った。

 突風にも似た衝撃でレティシアの体がぐるりと回転し、魔物の触手から大きく軌道を変えて遠ざかる。


 突然の猛火に邪魔をされ獲物を取り逃がした魔物が、方向を変えたレティシアを追って再び地面を這い出した。そのすぐ前に、竜巻のような炎が吐き落とされる。

 どうあっても邪魔をしようとするものを見上げた魔物の頭上に、太陽を背に黒い影となった巨大な飛竜の姿があった。飛竜の吐いた炎で足止めされた魔物が、それでも諦めきれずにレティシアへと手を伸ばした。


 風に翻弄されるがまま、空中を回転するレティシアの体。何が起こったのか分からずにいたレティシアが目を開いたその視界を、間近に迫った魔物の大きな手のひらが覆い尽くした。

 見開いた青い瞳に、血液の中を漂う内蔵だらけの体内が映った。透明な皮の向こうで、エミリオの眼球とレティシアの目が合ったその瞬間。


「手を伸ばせ!」


 アレスの声がレティシアの耳に届いた。逆らうことのできない強い声音に、レティシアがぱっと手を伸ばす。

 顔も向けず、どこに向かって手を伸ばしたのかも分からなかったが、この場所から逃げられるのなら何にでも縋りたい気分だった。


 背中の激痛に堪えながら必死に伸ばした手の指先が何かに触れたかと思うと、レティシアの体が強い力にくんっと引き寄せられた。風の中を通り過ぎ、一瞬のうちに赤黒い世界から抜け出したレティシアの瞳が晴れた青空を捉える。そこに流れる自分の銀髪と重なり合って、きらきらと陽に透ける明るい茶色の髪。


「しっかり掴まってろ!」


 そう叫んだアレスが飛竜の手綱を右手で器用に操り、もう片方の手でレティシアの背中をしっかりと支えた。


「アレス!」


 背中を支えられ、アレスの胸に頬を寄せる形になったレティシアの胸が不本意にどくんと鳴った。それでも激しく揺れる飛竜の背から落ちないように、躊躇いがちに伸ばした手でアレスの服をぎゅっと掴む。その儚い力を感じて、アレスがレティシアを支える腕に力を込めた。


 一旦距離を置いた飛竜を、アレスは再び魔物の方へと降下させた。視界に留まらないよう、飛竜を大きく旋回させて魔物を翻弄する。近付いたかと思えばすり抜ける飛竜の俊敏な動きに、眼下の魔物は焦り苛立っているように見えた。

 巨体からは想像もできないほど飛竜は細やかに動き、その度にレティシアの体は宙に浮く。何が起こっているのか確認することすらできず、レティシアはただ振り落とされないようにアレスにしがみ付くしかできなかった。


「やれ」


 一瞬、風が途切れた。かと思うと、アレスの低い声がする。レティシアがはっと目を開くのと、飛竜の体が大きく揺れたのはほとんど同時だった。

 アレスの合図を得て、飛竜が返事をするように一声鳴いた。そしてその大きく開いた口から、紅蓮の炎を魔物めがけて吐き落とした。


「シャアアアッ!!」


 飛竜の鳴き声か、吐き出された炎の音か。そのどちらともつかない大きな音を間近に聞いて、レティシアが思わず体を震わせる。


 肉の焼ける音と、鼻を覆いたくなるような悪臭が辺りに漂い始め、空気さえも褐色に染まっていく。耳を劈く絶叫に恐る恐る目を向けたレティシアの視界に、猛火で焼け焦げた体をぐにゃぐにゃと動かしながら地面をのた打ち回る魔物の姿が映った。

 じゅうっと音を立ててどろどろに溶けていく体の亀裂から、体液にまみれたエミリオの頭部が転がり落ちる。残った片目がぎょろりと動いて、上空のレティシアを見つめた。


「レ……ア、様。……助……テ」


 救いを求める瞳でレティシアを見つめ、エミリオだったものが小く呟いた。はっとして視線を落としたレティシアがエミリオを見つけるよりも先に、アレスが飛竜の高度をぐんっと上げる。救いを求めたエミリオの姿は魔物の赤黒い体に隠れ、二人の視線が重なったのはほんの一瞬しかなかった。


「聖獣の炎には、手も足も出ないらしいな。大人しく地中へ帰るがいい」

「駄目! アレス、やめて!」


 突然腕にしがみ付かれ、手綱ごと持っていかれたアレスがぎょっと目を剥いた。慌てて手綱を引き戻し、大きく左に逸れてしまった飛竜の軌道を元の位置に戻す。

 訳が分からないと非難めいた視線を向けた先で、緩く頭を振ったレティシアが縋るようにアレスを見上げていた。


「彼は私の仲間なの。お願い、殺さないで」


 懇願する青い瞳から視線を逸らし、アレスが眼下でうねる魔物へと目を向けた。

 今にも弾けそうに薄い皮の向こう、体液に満たされたその中を漂う内蔵や体の一部は未だ生きているかのように動いている。その様を苦々しい思いで見下ろしていたアレスが、眉間に皺を寄せたまま深い溜息を吐いた。


「仲間思いのつもりだろうが、こくすぎるな」

「……え?」


 アレスの冷静な深緑色の瞳が、レティシアの困惑に揺れる青い瞳と重なり合う。


「あいつを救ってやりたいのなら、殺すべきだ」

「でもっ!」

「あの姿で生きろと言うのか?」


 的を射たアレスの言葉に、レティシアがはっと目を見開いた。

 魔物と一体化した体は、二度と元には戻らない。仲間を殺したくないと言う純粋な思いは、今のエミリオにとって一番残酷な言葉でしかなかった。

 救いを求めたエミリオの瞳を思い出し、彼が求めるものに気付いたレティシアが、苦しげに目を伏せて唇をきゅっと噛み締めた。


「お前はどうして欲しい?」


 静かに問われ、アレスの服をぎゅっと掴んだレティシアがゆっくりと顔を上げ、眼下へと目を向けた。視界の端に、苦しみもがく魔物の姿が映る。赤黒い体をぐにゃりと曲げてのた打ち回る魔物。

 ……エミリオだったもの。



「彼を……――救って」



 小さく、けれどはっきりと呟いたレティシアに、無言で頷いたアレスが飛竜の手綱を引いた。合図を待ちわびていた飛竜が一声鳴いて、魔物に狙いを定めたまま大きく口を開いた。飛竜の僅かな振動にその時を感じたレティシアが、縋るようにアレスの腕に強くしがみ付く。


「目を閉じていろ」


 アレスの言葉に優しい色を感じて、レティシアは言われるがままに瞳を閉じる。背中を支えていたアレスの手にぎゅっと力が入った瞬間、飛竜の声と共に二人の体が大きく揺れた。


「グワアアアッ!!」


 さっきとは比べ物にならないくらいの大きな炎の塊を吐いた飛竜の下で、叫ぶ間もなく魔物が猛火に包まれる。ルファの花を一緒に焼き尽くし、地面をのたうち回る魔物の触手が、炎から逃れるように空へと伸ばされた。その先端がぼろりと焦げて崩れ去っていく。


 地面を転がり苦しむ音と、焼け焦げていく音が完全に消えてなくなるまで、アレスはレティシアの背中をぎゅっと強く抱きしめていた。 



 ***



 残り火が黒焦げの地面をまだ燃やしていた。

 魔物の体は跡形もなく燃やし尽くされ、ルファの花畑も面影をすっかり無くして黒い大地へと変貌していた。焦げた臭いの立ち込める花畑だった場所へ立ち尽くしたまま、レティシアは自分の身を案じて来てくれたエミリオを思ってそっと瞼と閉じる。


 話したことは数えるほどしかない。クラウディスがヘルズゲートから帰還したことを告げにに来たのが彼だ。

 レティシアが直接礼を言った時の、はにかんだ顔が思い出される。



 ――どうして。



 心に問いかけてみる。

 結晶石を守るために天界から逃げて来たことがいけなかったのか。

 結晶石とは、人の命を犠牲にしてまで守るべきものなのか。

 自分の中にあるちっぽけな石のために他人が犠牲になるくらいなら、いっそこの身を永劫封印した方が……もう誰も傷付かずに済むのではないのだろうか。


「私は、間違っていたのでしょうか」


 まだ黒煙の上る地面を見つめたまま、レティシアが誰に問うわけでもなく呟いた。


「お前の思いは正しかった。間違っているのは、あいつを魔物に変えた奴だ」


 後ろで静かに返された言葉を聞きながら、レティシアが脳裏にクラウディスの姿を思い描いた。記憶に残るクラウディスの面影は遠い過去に追いやられ、レティシアは兄と言う存在を完全に失った気がした。


「彼を魔物に変え、私の中の結晶石を用いて世界を支配しようとしているのは、天界王クラウディス。……私の、兄です」


 きっぱりと言い切った言葉の語尾が少し震えていたことに気付きながらも、アレスはただ静かにレティシアの背中を見つめていた。


「でも、こんなことをする人ではなかった。とても優しい人だったのに……」


 背中に翼をしまい、レティシアは声を殺して泣いた。肩を震わせ、嗚咽を漏らして泣くその後ろ姿はすっかり鮮血に染まっている。


「話は後だ。村へ戻るぞ」


 レティシアの背にかけられた言葉は無愛想なものだった。有無を言わさず横抱きにされ、レティシアがわずかに目を瞠る。


「お前は少し……目を閉じていろ」


 背中の傷にできるだけ触れないように回されたアレスの腕。レティシアの気持ちを慮って、黒焦げの花畑を見ないようにと配慮する。その少しだけわかりづらいアレスの優しさに、レティシアは今だけは甘えて縋り付いていたかった。


「アレス。……ありがとうございます」


 濡れた睫毛を震わせてそう言ったレティシアの頬を、一筋の涙が滑り落ちていった。

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