第10話 出会い
平穏は打ち砕かれた。
呪われし結晶石をめぐり、一万年前の争いが再び繰り返されようとしている。
廻り出した歯車は止まる術を知らず、運命に導かれし者たちを呼び覚ますであろう。
狂った歯車に翻弄され、かの者たちがお前の元へ訪れる。
時は近い。
長き一万年の眠りから目覚める時が来た。
聖なる猛火で邪悪なる者を滅ぼす時は今なのだ。
***
落ち着きのない飛竜たちの声にアレスが目を覚ました。
ベッドから起き上がって窓の外を見てみると、真っ暗な空に折れそうなほどの細い三日月が浮かんでいる。その儚い三日月を遮って飛ぶ影は数頭の飛竜たちだ。アレスに届く彼らの『声』に緊迫した様子は感じられず、特に心配する必要はないだろうと判断したアレスが肩の力を抜いて息を吐いた。
飛竜たちはおそらく、レティシアの存在を感じて興奮しているだけだ。そう思うと同時に、傷だらけのレティシアの姿が脳裏に浮かぶ。
華奢な体を容赦なく傷付けた攻撃魔法、そこには躊躇いなど微塵もなかった。儚げでか弱い印象のレティシアに対して、これほどまでに冷酷に攻撃を仕掛けたのは一体誰なのか。想像もできなかったが、アレスの胸の奥にはかすかな憤りが生まれていた。
状況からしてガッシュが言うように何らかの異変が起きていると考えるのが妥当だが、レティシアが目覚めないことにはあれこれ考えてもそれは憶測にしか過ぎない。忍び寄る不穏な影を感じてはいたものの敢えて深くは考えずに、アレスはもう一度寝なおそうと見上げていた空から視線を地上へと戻した。
その視界に、ふと白い影がよぎる。
風に舞う綿毛のように覚束ない足取りで、眠っていたはずのレティシアが村の奥へ歩いて行くのが見えた。周りの様子を窺うように彷徨っていたレティシアの白い影は、ちらちらと揺れながら完全に夜の闇に消えていく。
「あいつ……何を」
そう思った瞬間、体は既に動いていた。眠っているロゼッタを起こさないよう静かに扉を開けると、ひやりとした夜気が肌を静かに撫でていく。
レティシアが消えた先、リュッカを見下ろせる小高い丘を目指して、アレスもまた夜の闇に消えていった。
***
しんとした夜に包まれた村を照らすには、今夜の月では役不足だ。
村の端にある小高い丘の上まで辿り着いたレティシアは、そこから村全体を見渡そうとして、諦めたようにふうっと大きく息を吐いた。頼りない三日月の光は、今しがた出てきた家の影すら照らし出すことができない。辛うじて明かりの届く天界の姿が夜空に濃い影として浮かび上がっているのを見て、レティシアが苦しげに眉根を寄せた。
変わり果てた天界とクラウディスから逃れようと必死で唱えた転送魔法は、レティシアを中途半端に下界へと落とした。覚えているのは眼下に見えた白く美しい氷の森。どこかもわからない空中に転送されたレティシアが意識を失う寸前にできたことと言えば、自身に防御魔法を張って落下の衝撃を和らげることくらいだった。
次に目を覚ますと知らない家のベッドの中にいた。傷の手当をされていることからも敵意はないと思いたかったが、優しかった兄でさえ豹変したのだ。何が起こるかわからない状況と、加えて天界から出たことのないレティシアが見知らぬ土地に対して多少なりとも警戒するのは当然である。
ここがどんな場所なのかだけでも把握しておこうと夜の村に出たレティシアは、夜空を飛ぶ飛竜を見て自分が龍神界アークドゥールにいることを知ったのだった。
「……飛竜」
夜空を悠然と飛ぶ飛竜の姿にかすかな憧憬を抱き、一緒に飛んでみたいと純粋に思ったレティシアの背中から、ばさりと二枚の白い翼が現れ出た。その場で数回羽ばたくと、小さな光の粉が闇に弾け飛んで消える。
緩やかな風の流れに長い銀髪が揺れ、大きく開いた翼がレティシアの体をゆっくりと空中へ持ち上げていく。体の状態を確認しながら自分の身長くらいの高さまで上昇したところで、突然レティシアの翼の動きが止まった。
「……っ!」
羽ばたいたことで背中の傷口が開いたのだ。鋭い痛みに息を止めたレティシアの背中から、光が弾けるように二枚の翼が消失する。途端浮力を失い、がくんと傾いた体がそこから一気に落下した。
「危ない!」
聞いたことのない男の声が耳に届くのとほぼ同時に、レティシアの体が固い地面とは違う力強い腕に抱き止められていた。軽い衝撃に息を詰まらせ、一瞬だけ遠のいた意識を引き戻すかのように、先程の男の声が今度は耳のすぐ側でした。
「大丈夫か?」
びくりと体を震わせた拍子に、瞼が開く。レティシアのすぐ目の前に、深緑の瞳をした少し近寄りがたい雰囲気の男がいた。どこかで見たことがあるような気がして、奇妙な既視感にレティシアがアレスを凝視する。
「お前の怪我ではまだ飛べない。あまり無理はするな」
淡々とした口調で言われ、はっと我に返ったレティシアが慌てて視線を逸らして俯いた。
兄以外の男性とこんなにも近くにいることがなかったためか、アレスに抱きかかえられた体がみるみるうちに熱を持つ。密着している体もそうだが、食い入るように見つめてしまった深緑の瞳を思い出すと、レティシアの頬が意思とは関係なくほのかに紅潮した。
妙に緊張した体を縮ませてぎゅっと目を閉じると、レティシアは出来るだけ平常心を装いながらか細い声を絞り出した。
「……すみません」
「別に怒っている訳じゃない」
簡潔に言われ、レティシアが更に委縮する。その様子に気付きもせず、アレスがレティシアを両腕に抱えたまま家へ戻ろうと踵を返して歩き出した。
「あの……一人で歩けます」
遠慮がちに言ったレティシアをちらりと見ただけで足を止めないアレスが、僅かに目を細めて首を横に振った。レティシアの背中に回した腕が、滲み出した血で濡れ始めている。
「怪我の状態くらいわかっている。無理はするなと言ったはずだ。これ以上、天界の姫を傷付ける訳にもいかないからな」
「どうして私のことを……。まさか、兄の……っ!?」
素性を知られ警戒をあらわにしたレティシアが、途端にアレスの腕の中から逃れようと暴れ始めた。痛む体を必死になって捩るレティシアを、逆にアレスは腕から落とさないように更に力を込めてしっかりと抱き直す。
「おいっ、暴れるな!」
「嫌です! 天界には戻りません。これを使うことがどのような結果を生むのか、あなたにも分かるはずです。どうしても連れて行いくというのなら、私にも覚悟が……」
そこで言葉を切ったレティシアが、素早く呪文を唱え始めた。聞いたこともない音の羅列に、レティシアの体が淡い光に包まれる。ふわりと舞った銀髪がアレスの頬をくすぐって巻き上がった。
レティシアを中心にして地面に形成されていく光の魔法陣は、当然レティシアを抱きかかえたままのアレスも巻き込んで、見る間に辺りを白い光で埋め尽くした。魔法陣の中にだけ激しい風が渦を巻き始め、それは鋭い刃となってアレスはもとよりレティシアをも容赦なく傷付けていく。
至近距離で攻撃魔法を放たれてはたまらないと、風の刃で頬を浅く裂かれたアレスが苛立たし気に語気を強めた。
「レティシアっ!」
怒鳴るように名を呼ばれ、レティシアがびくんと体を震わせた。呪文が途切れ、霧散する魔法陣と共に渦を巻いていた風と光も消失する。頬の切り傷と乱れた髪に攻撃魔法の名残を残したまま、アレスが睨むように鋭い視線をレティシアへと落とした。
「天界の姫ってのは自己犠牲が趣味なのか? 何があったのかは知らないが、もっと命を大事にしたらどうだ」
「……あなたは……私を、連れ戻しに来たのではないのですか?」
「お前こそ、ここをどこだと思ってる。飛竜を見ただろう?」
逆に問われて、レティシアがゆっくりと唇を動かした。
「龍神界、アークドゥール」
「そうだ。ここは天界に最も縁の深い国アークドゥールの村のひとつリュッカだ。お前のことなら誰でも知っている」
「……あなたは?」
「俺はアレス。ただの竜使いだ」
そう言って再び視線をレティシアから前に戻すと、アレスはさっきよりも少しだけ歩幅を広げて急ぎ足で村へと戻っていった。
***
家の前に着くと、アレスは自分とガッシュの家を暫くの間見比べて、意を決したように自分の家の扉を開けた。家の中は暗く、ロゼッタが起きている気配もない。とりあえずレティシアを椅子に座らせてから、アレスは迷うことなく手に取ったランプに火を灯した。
優しいオレンジ色の灯りに照らされて、レティシアの困惑した表情が浮かび上がる。自分が眠っていた家とは別の場所に連れて来られ、レティシアが見て分かるほど挙動不審に視線を彷徨わせた。そんな彼女に同調したのか、アレスもなぜか意図的に視線を合わせようとはしない。
「あの……」
「背中の傷が開いているだろう?」
アレスが自分の腕を拭いているのを見て、レティシアが申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。汚してしまって……」
「いいから服を脱げ」
「えっ!」
平常心を装って言葉を発したアレスとは反対に、見る間に顔を真っ赤にさせたレティシアが両腕を胸の前に合わせて椅子から飛び上がった。
アレスはアレスで必死に動揺を押し殺していたのだが、レティシアの様子を目の当たりにするとなけなしの平常心もあっけなく崩れてしまう。僅かに頬が紅潮したような気がして慌てて右手で顔を覆うと、レティシアから逃げるように視線を足元へと落とした。
「傷の手当てをするだけだ。別に何もしない!」
「あのっ……でも、それはちょっと……。私、このままで平気ですから!」
「目の前で血を流され続けても困る! 別に何もしない!」
同じ言葉を二度繰り返したことにも気付かないまま、アレスが思わず声を荒げて救急道具の入った箱をどんっとテーブルの上に荒々しく置いた。その音にびくりと震えたレティシアだったが、出会ったばかりの男に肌を晒す勇気などなく、一歩も引かない様子でアレスを拒否するように睨み付ける。
「だったら私、自分で手当てします!」
「手が届かないだろうが!」
売り言葉に買い言葉を繰り返す二人の声はいつしか大きくなり、アレスに至ってはロゼッタが寝ていることも忘れるくらいに動揺して声を張り上げていた。その結果、寝室の扉が開いてロゼッタが起きて来たことは言うまでもない。
「お兄ちゃん……?」
「ロゼッタ」
目をこすりながら起きて来たロゼッタを見て、しまったと思う反面どこか安堵したような表情も浮かべたアレスが、力尽きたように深く長い溜息をついた。
「……助かった」
小さく呟かれた声は、夜の闇に弱々しく消えていった。
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