第9話 氷花の森

 緑豊かな自然が広がる平地の先。ルヴァカーン山脈の麓に近い場所に、氷花の森はあった。

 一年中雪の降るこの森では枯れた樹木に薄い氷が連なって花のように咲き、枝に似せて伸びたその氷が空を完全に覆ってしまっている。降り注ぐ陽の光は氷の葉を幾つも通り抜けて、白い森を七色の光で淡く照らしていた。

 凍った樹木に咲く氷の花。

 地面から水晶のように突き出した氷の柱。

 凍えた空気の中、七色の光を浴びてきらきらと舞う光の粒子。

 幻想的で目を奪うほど美しく白い森は、けれど命あるものが生きていける場所ではなかった。



 相棒の飛竜を森の入り口に残して、アレスは愛用の剣を握ったまま森の中を進んでいた。行く手を阻む氷の草木を剣で砕いて進む度に、ガラスの割れる音に似た氷の悲鳴が森全体に響き渡っていく。まだ森へ入って間もないのに気温はぐっと下がり、纏わりつく冷気がアレスからどんどん熱を奪っていった。

 吐く息は白く、剣を握っている手も動かしていなければ指先がすぐにかじかんでいく。大の男がこの有様なのだ。力強い命すら弱めてしまう氷花の森は、飛竜の僅かな命の残り火などあっという間にかき消してしまうだろう。


 想像以上に過酷な森の状況を再確認して、アレスが諦めに近い溜息を吐いた。飛竜がいなくなったのは昨夜からだ。もしも氷花の森へ来ているのなら、およそ一日経った今では生存は厳しいだろう。そう納得しかけたアレスの耳に、かすかな音が届いた。


『……』


 しんとした森の中でも、その音はよく耳を澄ませないと聞こえない。神経を耳に集中し意識を研ぎ澄ませると、『声』は確かにアレスの探している飛竜のものだった。

 ひどく微弱な飛竜の『声』は死期の近付いた匂いがしたが、それでも最期の力を振り絞って必死にアレスを呼んでいる。誰にも見られずに死を迎えようと森へ来たのなら、こんなにもはっきりアレスを呼ぶことはないだろう。やはり何かが起こっていたのだと理解して、アレスは『声』のする方へと急ぎ足で進んでいった。


 凍った草花を剣で砕いて進む度に、飛竜の『声』が近くなる。飛竜がアレスを呼んだことで正確な位置が分かり、近道になりそうな場所の氷を砕いて強引に進むと、やがて薄い氷の花が幾つも集まって出来た氷の壁の前に辿り着いた。透き通る氷花の壁の向こうに、飛竜の深緑が歪んで映っている。


「見つけた!」

 

 思わず叫び、アレスが行く手を阻む幻想的な氷花の壁に躊躇いもなく剣を突き刺した。砕ききれなかった氷花が反撃でもするかのようにアレスの腕を深く傷付け、白い雪の上に目を奪うほどの鮮やかな赤が落ちていく。


「ちっ」


 鮮やかな赤に染まる氷花。その向こう、探していた飛竜の近くにも同じ色を確認し、アレスがはっと身を固くした。

 まっさらな雪の上に蹲る飛竜の下に、アレスのものとは違う大量の血痕が赤い染みを作っていた。


 飛竜の周りには砕けた氷の破片が散らばっており、それは薄く差し込む陽光を受けてきらきらと光を反射している。雪と氷に閉ざされた森でも陽の光が届く場所があるのかと見上げたアレスの瞳に、上空を覆い隠していたはずの氷の枝葉が無残に砕け散っているのが見えた。


「お前、落ちたのか!」


 近付くアレスの気配を感じて、蹲ったままだった飛竜がゆっくりと首を動かした。飛竜の体に目立った傷はなかったが、広げたままになった右翼には一晩分の雪が降り積もっており、小さな雪山のようになっている。

 右翼の下に血痕が広がっていることから負傷箇所を翼の内側と推測し、アレスは降り積もった雪を慌てて払い落とした。その横で、飛竜が息を吐くように小さく鳴いた。鼻先をアレスの顔に摺り寄せて、間近で目と目を合わせたかと思うと――そのまま役目を終えたかのようにどさりと雪の上に倒れ込んだ。その衝撃で既に凍り付いていた飛竜の体の一部が粉々に砕け、白い雪煙に混ざって空へ舞い上がっていく。


「……っ」


 もともと祝福の谷にいた飛竜だ。残された時間はなかったと分かっていても、目の前で死んでいく飛竜を見るのはいつでも辛い。端から凍って崩れていく飛竜の体は、未だ辛うじて熱の残る胴体も、明日の朝には完全に凍り付いてしまうだろう。崩れ、雪に混ざり、そうして森の一部となって消えていく飛竜を思い、アレスが静かに目を閉じた。


「……ゆっくり眠れ」


 ひどく優しい声音で呟いて、別れを惜しむように飛竜の胴体を撫でていたアレスの手が、ぴたりと止まった。深緑の瞳に映った飛竜の右翼。胴体は雪の上に倒れていても、右翼だけは丸みを帯びたまま、まるで何かを抱きかかえているかのように中に不自然な空洞ができている。僅かに空いた隙間から、美しい銀色の髪が見えた。

 驚いて飛竜の右翼を持ち上げたアレスが、その下に隠されていたものを目にしてはっと息を呑んだ。


 触れるだけで脆く壊れそうな、硝子細工を思わせる女の姿がそこにあった。

 雪と同じくらいに白い肌。

 星の輝きに似た長く真っ直ぐな銀髪。

 力なく体に覆い被さった二枚の白い翼。

 華奢な体は全身傷だらけで、至る所にできた傷の幾つかは未だに血を滲ませている。その傷口に氷の欠片を見て、アレスはこの女が氷の木々を破って落ちてきたのだと理解した。そして飛竜は残り少ない命を、女を救う為に使った。なぜそうしたのかは分からなかったが、飛竜は女をアレスに託して死んだのだ。


「とんでもないものを拾ったな」


 そっと女の体を抱き上げる。生きているのかどうかさえ疑わしかったが、冷たい雪の上から温かな腕の中へ居場所を変えて女の瞼がかすかに動いた。目を開けることはなかったが胸が上下していることから呼吸も確認して、アレスは安心したようにほっと息を吐く。

 女を抱きかかえたまま立ち上がり、森を出ようと踵を返したところで、アレスはふと足を止めた。無言で振り返った先、半分崩れ落ちた飛竜を目に焼き付けて静かに瞼を閉じる。心の中で別れの言葉を呟くと、伏せていた瞼を開いてアレスは再び歩き出した。

 雪を踏む音が遠ざかっていく。背後でどさりと飛竜の体が崩れ落ちる音が響いても、アレスはもう振り返ることはなかった。



 ***



「天界ラスティーンの姫君じゃな」


 温かいベッドに横たわるレティシアを見つめたまま、ガッシュが少し重苦しい口調で呟いた。


「一体誰がこんな惨いことを……」


 細い腕や首筋など目に見える肌のほとんどを包帯で巻かれたレティシアの姿は、見ているだけでも痛々しい。少しだけ血色の戻った頬にもガーゼが貼られており、それを見たアレスは傷が残らなければいいと思いながらガッシュの言葉を聞いていた。


「お主が見つけた時は既に倒れていたと聞いておるが、他に変わったことはなかったか?」

「特に何も。飛竜がこいつを守っていたくらいだ」

「ふむ。……飛竜にはレティシア殿が天界の姫だと言うことが、分かっていたのかもしれんな」

「レティシア?」

「ああ、お主は初めてだったの。さっきも言ったが、このお方は天界の姫レティシア殿じゃ。わしは昔、レティシア殿がまだ小さかった頃に一度会っていての。当時も愛らしい姫だったが、美しく成長なされたのう」


 昔を懐かしむようにレティシアを見つめていたガッシュだったが、やがて包帯を巻いたレティシアの腕をベッドの中へ戻してやると、アレスを連れて隣の部屋へと移動した。二人が寝室から居間へ戻ると、メレシャと一緒に一息ついていたロゼッタがぱたぱたとアレスの元へ駆け寄ってきた。


「あのお姉ちゃんは?」

「今はまだ眠っている。お前も手伝ってくれて助かった。ありがとう」


 そう言って頭を撫でてやると、ロゼッタが嬉しそうに笑った。


「夕飯に呼んだのに、これくらいしか用意できなくてごめんなさいね」


 テーブルの上に焼き立てのパンとサラダ、そして干し肉のスープを並べながら、メレシャが申し訳なさそうにアレスを見て苦笑した。


「いや……俺の方こそ、すまなかった。どうしていいか分からなくてガッシュを頼ってしまった」

「お主はわしに限らず、もっと他人を頼ってもよいのじゃよ。昔から甘え下手なところがあるからの」


 ガッシュの言葉に何か言い返そうとしたアレスを遮って、ロゼッタの腹の虫が大きく鳴いた。途端真っ赤になってアレスの後ろに隠れたロゼッタに、ガッシュが優しい微笑みを向けて自分の腹をさすって見せる。


「こりゃいかん。腹が減りすぎて倒れそうじゃ。そろそろ夕飯にしようかの」


 先にテーブルに着いたガッシュに手招きされて、ロゼッタがアレスの後ろからおずおずと顔を出した。それでもまだ戸惑うロゼッタに苦笑し、アレスは恥ずかしがる妹の背に手を添えて一緒にテーブルに着いてやる。それを見計らって、メレシャがロゼッタの前にスープを置いた。 


「はいどうぞ。たくさん食べてね」


 テーブルに並べられた料理は素朴なものだったが、心がふわりと温かくなるような優しい味がした。




 食事を終えると、ロゼッタはメレシャと一緒に後片付けの手伝いに動いていた。アレスはと言うとガッシュと一緒に食後のお茶を飲みながら、ぼんやりと寝室の方を見つめている。

 何かあってはいけないと扉は開いたままにしてあるが、明かりを消した寝室の中は暗く、ここからではベッドに眠るレティシアの姿は見えなかった。


「レティシア殿の傷を見て、お主は何か気付いたか?」


 問われて記憶を呼び戻したアレスの脳裏に、氷花の森で見つけたレティシアの姿が浮かび上がる。落下の衝撃で砕けた氷の破片によって切り裂かれた傷もあったが、大半は何かの爆発に巻き込まれたような負傷の仕方だった。剣などの武器で付けられた傷ではなく、レティシアの体にはかすかな魔力の帯が残留していた。


「……攻撃魔法で傷付けられたようだった」

「そうじゃ。その力はとてつもなく強大で、かすかに不穏な影さえ感じるものじゃ。わしらは魔法について詳しく分からんが、おそらくレティシア殿の受けた傷は治癒魔法でしか完治せぬ。わしらの薬で体の傷は癒せるはずじゃが、内側に染み込んだ何らかの攻撃魔法はゆっくりとレティシア殿の体を蝕んでゆくじゃろう。……魔法都市アーヴァンへお連れした方がよいかもしれぬな」

「ひとつ疑問なんだが」


 一旦言葉を切って、アレスがガッシュを見つめた。アレスが何を言おうとしているのかを悟り、ガッシュも無言で頷いて先を促す。


「天界の姫ってことは、あいつが結晶石の宿主だよな。しかも、確か封印が解ける代の宿主だろう? 天界の結界内で安全に暮らしているはずじゃなかったのか?」

「そのはずじゃが……」


 アレスから視線を寝室へ向けたガッシュが、重い口を開いて認めたくない現実を言葉にする。


「天界で、何かが起こったのかもしれぬ」


 静かに落とされた言葉は、それを発した本人の胸にさえ暗い影を落としていく。血に濡れたレティシアを取り巻く黒い影を想像して、アレスが不吉な予感を振り払うように強く瞼を閉じた。


「天界と龍神界、再び力を合わせる時が来たのかの。……一万年前の月下大戦の時のように」


 そう言ったものの、ガッシュは自身の言葉を認めまいと、緩く首を横に振った。

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