第6話 侵蝕

 体調を崩していた者たちが起き上がると同時に、城内に暗く不気味な空気が漂うようになった。騎士もメイドも魔導士も、皆同じように体を震わせ、ニタニタと薄笑いを浮かべている。

 ローフェンでさえ同じ症状を見せ始め、愕然としたマリエルが次に頼ったのは勿論クラウディスだったが、その日を境に彼の姿を目にすることはなかった。城内にいないわけではないのだが、なぜか会えない日々が続き、その間も不穏な空気は城内をゆっくりと侵食していった。


 城の様子が異常なのは見て明らかだが、クラウディスがこの状況を知らないはずはない。彼が事態を把握しているのであれば、必ず解決策を講じるはずだとマリエルはそう信じて、レティシアには余計な心配をさせないよう、城内の様子を知らせないようにしていた。


「マリエル、お願いがあるんだけど」


 何も知らないレティシアが、今日もマリエルに柔らかく微笑む。その顔を見るだけでマリエルの心はほぐれ、同時にこの笑顔を守らなくてはと強く思い始めていた。


「庭園のレイメル……たぶん最後の一輪なの。それをお兄様に渡して欲しいんだけど、いいかしら? 今の時間はまだ執務室にいると思うから」

「レティシア様から渡された方が宜しいんじゃないですか?」

「そうしたいのは山々なんだけど、最近夜も部屋に戻っていないみたいで……。また頑張りすぎてるんじゃないかと思って、レイメルの香りで少し心を癒してほしいの。私は執務室には行けないから……お願いできるかしら」

「そういう事なら……わかりました。すぐに行って参ります」


 太陽は既に沈み、今はまだ明るい空もすぐに薄闇に覆われるだろう。レティシアの部屋を後にしたマリエルは、暗くなる前に用事を済ませようと、急ぎ足で庭園へと向かった。

 途中で暗がりに立ち尽くす人影が喋りかけてきたが、マリエルはそれを無視して先を急いだ。レティシアの部屋がある三階を降りると、不気味な空気はより濃く蓄積されている。その不気味な空間から逃れるように庭園へ駆け込むと、マリエルは噴水のそばで一輪だけ儚げに咲いていたレイメルの花を少し乱暴に摘み取った。


 夜が近付くにつれ、城内の不穏な空気はより濃くなっていく気がした。どことなく息苦しくて落ち着かない。漂う空気も、人も、皆がおかしい。今夜こそ執務室でクラウディスに会えたら、城内の異常な様子について話してみようと心に決めて、マリエルは花瓶に挿したレイメルを手に二階へと上がっていった。



 ***



 夕闇に包まれていた空が、完全に黒く染まった。部屋の明かりに反射して窓ガラスに映った自分を見つめたまま、クラウディスは自身の銀髪を細い指先で弄んでいた。

 肩より少し長い髪は紺色のリボンで結ばれており、それはレティシアが昔クラウディスに贈ったものだ。そのリボンの端をつまんで解くと、くせのない髪がさらさらと頬を撫でる。


「……」


 無言で髪をかき上げて、窓ガラスに映る自分の青い瞳を凝視したまま、クラウディスがふっと笑みをこぼした。それと同時に執務室の扉がノックされ、ローフェンが若い衛兵をひとり連れて入って来る。


「連れて参りました」


 今はもう体を小刻みに震わせる事もないローフェンを見て、クラウディスが満足げに頷いた。


「だいぶ馴染んだようだな」


 返事の代わりに浅く頭を下げたローフェンの後ろでは、状況を把握できない衛兵が困惑した面持ちで立ち尽くしていた。

 普段は主に城内外を警備する彼が執務室に入ることは滅多にない。王から直々に呼び出しがかかったとローフェンに言われるがまま来たものの、今になってもその理由が分からずに少し緊張した様子で二人を見つめている。


「エミリオと言ったか。わざわざ足を運んでもらってすまない」


 不意に声をかけられ、エミリオが姿勢を正す。返事をしようと口を開いたが、クラウディスが言葉を被せて先を続けた。


「衛兵の中で、まだ病に罹っていない者を呼んだが、残りはお前だけか?」

「はい。自分だけです」

「そうか」

「クラウディス様は病の原因を突き止められたのだ。皆の様子がおかしいのもそのせいだと」


 いつの間にか背後に移動していたローフェンに驚いて振り返ったエミリオだったが、彼が発した言葉を理解すると、表情をかすかな喜びに変えて目を輝かせた。


「本当ですか!」

「病に罹らぬよう、お前に処置を施したいのだが……良いか?」

「……っ! 宜しいのですか? ありがとうございます!」


 エミリオの声が若干高くなり、ほっと安心したように顔が綻ぶ。その様子を静かに見ていたクラウディスが、視線を彼の背後に佇んでいるローフェンに向けた。


「ローフェン」


 名を呼ぶそれを合図にして、ローフェンがエミリオの体を背後からがっちりと拘束した。高齢であるはずのローフェンの力は想像以上に強く、普段から鍛えている若いエミリオの力でもそれを解くことは容易ではない。


「ローフェンっ様!? 何を……っ」

「騒ぐでない。大丈夫だ。すぐにクラウディス様が我らと同じにしてくれる」


 何が起こっているのか理解できないまま、エミリオの体だけが本能的に逃げようと激しくもがいていた。しかしローフェンの腕の力は少しも緩まず、その間にもクラウディスがゆっくりと近付いてくる。見開かれた瞳に映るクラウディスは黒い瘴気を纏い、一歩近付く度にそれは濃く色を変えて、まるで生きているかのようにゆらりと鎌首をもたげた。


「ク……クラウディス様っ。それは……!」

「恐れる必要はない」


 感情のない笑みを口元に浮かべて、クラウディスがすうっと右手を差し出した。その動きに合わせて体に纏わりついていた瘴気がずるりと滑り落ち、蛇のように床を這いながらエミリオの足に絡みついた。


「……っ……やめて下さいっ! クラウディス様……なぜこんなものをっ!」


 実体を持たない影の、床を這う不快な音。エミリオの耳元では、ローフェンがかすかに声を漏らして笑っている。


「は、放してください! ……っ……だ。……嫌だっ!」


 足に絡みついたそれはずるずると体を這い上がり、やがて薄く開いたままのエミリオの口から体内へと滑り込んでいく。


「やめっ……がぁ!」


 恐怖に満ちたエミリオの悲痛な叫びが執務室に響き渡った瞬間、それに重なるようにして扉の向こうから何かが落ちて割れる音がした。


「誰だ!」


 エミリオの拘束を解いて素早く扉を開いたローフェンだったが、その瞳が怪しい人影を捉えることはなかった。

 夜の闇がしんとした廊下の奥にまで広がっており、注意深く左右を確認しても動く者の気配はない。気のせいかと扉を閉めかけたローフェンの足元で、かしゃんっと陶器の擦れる音がした。

 割れた花瓶が、絨毯にじわりと染みを作っている。


「クラウディス様!」


 はっとして振り返ったローフェンの背中に、どんっと重い衝撃が走った。ぐらりとよろけたローフェンの横をすり抜けて、エミリオが転がりながら廊下を走って逃げていく。


「待て!」

「構わぬ」


 後を追おうとした体を短い言葉で制止され、急停止したローフェンの足が砕け散った花瓶の残骸を踏んだ。破片に紛れて置き捨てられたレイメルを拾い上げ、そっと顔を近付けて香りを嗅いだクラウディスが、濃い闇に包まれた廊下の先を凝視しながら手の中の花を握り潰した。


「――レティシア」


 そう言って口角を上げたクラウディスは恐ろしいほどに美しく、そして禍々しい笑みを浮かべていた。

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