第5話 束の間の休息
「本当に、クラウディス様には驚かされますね」
バルコニーからぼんやりと外を眺めていたレティシアの背後で、マリエルがベッドのシーツを取り換えながら言葉を続けた。
「目覚めてから三日も経たないうちにベッドから起き上がるなんて……。昨日は体を慣らすためにと、ローフェン様相手に白魔法の手合わせをしてましたよ」
「あまりに元気すぎると、かえって心配になるわ」
「それはそうですが……クラウディス様が頑張りすぎるのは、記憶を取り戻そうとしているからかもしれません」
「……そう、ね」
言葉少なに頷いて、レティシアが視線を空から眼下の庭園へと移動させた。レイメルは満開の時期をとうに過ぎ、まばらに咲き残った花が風に切なく揺れている。
無事に意識を取り戻し目覚めたクラウディスは、マリエルが言うように二日目の夜には自力で立って歩けるまでに回復した。しかし怪我の後遺症か、国や人の名前が思い出せないと言った軽い記憶障害が起こっていた。ヘルズゲートでの記憶も抜け落ちており、そこで何があったのかは未だ分からないままである。
真相を知りたいのは山々だったが、こう言うものは焦っても仕方がない。レティシアは自分を納得させ、ただ時の流れがクラウディスの心を癒してくれることを願った。
「でも私はレティシア様の方が心配ですよ」
「私?」
「ええ。もう調子は良いんですか?」
クラウディスが目覚めると共に気を失ったレティシアは、ほぼ丸一日深い眠りに落ちていた。目を覚ました時に見たマリエルの心底不安げな表情を思い出して、レティシアが申し訳なさそうに瞼を伏せる。
「本当にごめんなさい、マリエル。もう大丈夫。もう、マリエルにあんな顔させないから」
「今の言葉、マリエルはしっかり頭に刻みましたからね」
そう言って陽気に笑うマリエルにつられて、レティシアも小さく声を漏らして笑った。
「そうそう、心配ついでにもうひとつ。最近城内で体調を崩す者が増えております。何が原因か分かりませんが、レティシア様も十分お気をつけ下さいね。おそらくはクラウディス様の看病疲れが出てきたものだと思うのですが……用心に越した事はありませんから」
「ええ、分かったわ。マリエルの方こそ気を付けてね」
「ありがとうございます。それでは私は一旦下がりますね。何かありましたらベルでお呼び下さい」
ガラスのベルをテーブルに置いて、マリエルが一礼してから退室する。静かになった部屋にひとり残され、手持ち無沙汰になったレティシアが何気なく視線を落とした先に、庭園を歩くクラウディスの姿があった。
ゆっくりと庭園を散策するクラウディスが、やがてその歩みを噴水のそばで咲くレイメルの前で止めてしゃがみ込んだ。記憶を一部なくしているとは言え自分の好きな花は覚えていたのだと、レティシアの胸がじんわりと温かくなる。
「本当に……良かった」
一時はどうなるかと思ったが、ここ数日のクラウディスの様子から過剰な心配はもう不要だろう。そう思うと、安堵の溜息と共に声がこぼれた。と同時に庭園にいたクラウディスが振り返り、三階のバルコニーにいたレティシアへと真っ直ぐに視線を向ける。目が合った次の瞬間には、もうクラウディスは転移魔法でレティシアの部屋の中にいた。
「レティシア」
さっきまで庭園にいたはずの兄に背後から声をかけられ、レティシアが反射的に体を大きく震わせて振り返った。
「もう、お兄様ったら! 急に現れないで下さい!」
文字通り飛び上がって驚いたレティシアを見て、クラウディスが堪えきれずに声を押し殺して笑う。反対に唇を尖らせたレティシアは非難めいた眼差しでクラウディスを睨み付けていたが、可憐な顔がかすかに紅潮するだけでまったく怖くない。その様子もまた可笑しく、今度こそクラウディスが声を出して笑った。
「笑いすぎです!」
「ああ、すまない。お前があんまり驚くから……」
「驚かせたのはお兄様でしょう? いつからそんなに意地悪になったんですか」
「悪い、悪い。自分の力がどれくらい戻ったのか試したくてね」
やっと笑うのを止めてレティシアの隣に立ったクラウディスが、バルコニーからよく晴れた青空を仰ぎ見た。深く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出して、心地よいそよ風にそっと瞼を閉じる。レティシアも同じように瞳を閉じて、暫くの間クラウディスと静かにそよ風や鳥の声に耳を傾けていた。
穏やかな陽光の下に佇む兄妹の姿は、誰もが見惚れるほどあまりに美しかった。
「お兄様。あまり急がないで下さいね。体も、記憶も」
「ありがとう、レティシア。でも、早く思い出したいんだ。……置いてきてしまった、彼らのためにも」
信頼していた騎士たちを失い、たったひとり生き残った自分の力不足を痛感し、クラウディスが苦し気に眉を寄せる。そんなクラウディスに、レティシアはもう何も言うことが出来なかった。
「さてと、休憩は終わりだ」
沈みそうになった空気を変えるようにわざと口調を明るくして、クラウディスが大きく腕を上げて体を伸ばす。
「もうですか?」
「まだ体が慣れていなくてね。白魔法もさっきのように簡単なものなら大丈夫だが、攻撃重視になると不安定になる。この後ローフェンと約束しているんだ」
そう言って部屋から出て行こうとしたクラウディスが、扉の前で立ち止まったかと思うとくるりとレティシアの方を振り返った。
「そんな顔をするな。また様子を見に来るから」
どんな顔をして見送っていたのだろうと、レティシアは急に恥ずかしくなって両手で顔を覆い隠した。指の隙間から見えたクラウディスは、また少し意地の悪い笑みを浮かべながら部屋の扉を閉めていった。
***
城の一階では、マリエルが目まぐるしく働いていた。
エントランスのモップがけや階段の手すり磨きと言った掃除から始まり、食器洗いや昼食の下ごしらえなどの家事もこなしていく。長年勤めているおかげで手際は非常に良く、すべての作業をそつなく片付けていたマリエルだったが、昼が近づく頃になるとさすがに疲労の色が見え始めた。
普段なら一階部分の掃除は別のメイドの仕事だが、今は多くの者が体調を崩し寝込んでいるため、急きょマリエルも駆り出されたのだ。
一通りの仕事を終え、厨房でひとり軽い休憩を取っていると、寝込んでいるはずのメイドがふらりとした足取りでやってきた。
「あら、カリーナ。あなた、もう大丈夫なの? あまり顔色は良くないみたいだけど」
マリエルの問いかけに返事をせず、カリーナはただ黙って立ち尽くしている。じっとこちらを凝視したまま、小刻みに震えるように頷いていた。
「……カリーナ?」
「だい、じょ……うぶ。私、もう……平気だ、から」
喉の奥で声を詰まらせながら喋る同僚を心配そうに見ていたマリエルだったが、その瞳がカリーナの不気味な笑みを捉えた瞬間ぞくりと背筋が凍った。なぜだか分からなかったが、本能的に一瞬だけカリーナに恐怖を覚えてしまい、マリエルが慌てて椅子から立ち上がる。
「そ、そう。なら、ここは任せるわ。私はレティシア様の所へ戻るから、あとは宜しくお願いするわね」
今まで見たこともない異様な笑みを浮かべたカリーナから目を逸らし、マリエルが返事も聞かないまま逃げるように厨房を後にした。その背後では、カリーナが何かぶつぶつと呟いていたが、何を言っているのかまでは分からなかった。
足早に廊下を歩いていると、さっきまでそこにいなかったメイドや騎士たちが、あちらこちらで何をするでもなく立ち尽くしている姿を目にした。皆さっきのカリーナと同様に小刻みに震えながら、顔にはうっすらと気味の悪い笑みを浮かべている。すれ違った時に声をかけられた気がしたが、マリエルは立ち止まることなく小走りで階段を駆け上がっていった。
「一体何なの……」
二階に上がった所で、ちょうどクラウディスの執務室からローフェンが出てくるのが見えた。その姿に安心したマリエルが、ほっと息をついてローフェンに駆け寄る。
「ローフェン様。ちょうどよかった。少し皆の様子がおかしいのですが……何か」
不自然に言葉を切ったマリエルの体が、見て分かるほど大きく震えた。
「……ローフェン様」
「だい、じ、ない。……何も」
そう言ってマリエルに向き直ったローフェンは、体を小刻みに揺らしながら――にたり、と不気味な笑みを浮かべていた。
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