第4話 永劫封印

 クラウディスが帰還して二日が経った今も、未だ予断を許さない状態が続いていた。

 時々瞼を開くものの意識は常に混濁しており、言葉を交わすことはほとんどない。魔導士たちによる治癒魔法の詠唱は夜通し交代で行われ、そこにレティシアも加わることで不安定ではあるが少しずつ回復の兆しを見せ始めていた。


 ヘルズゲートから帰還したのは、クラウディスだけだった。同行した騎士達の安否は不明だが、クラウディスの状態から見ても生存は絶望的だろう。あえてそれを口に出すことはなかったが、誰もが希望を見出せずに暗く沈んだ表情を浮かべている。そんな中、僅かであっても回復しているクラウディスの存在は、状況を知る者にとって大きな心の拠り所となっていった。


「クラウディス様の所へ行かれるのは構いませんが、レティシア様が倒れてしまっては元も子もありませんからね」


 昼食もそこそこに席を立とうとしたレティシアを一瞥して、マリエルが少しだけ表情を硬くして静かに忠告した。

 

「厳しいことを言うようですが、レティシア様自身も大事なお体ですから……どうか無理されませんよう」


 マリエルの言いたいことを十分に理解して、レティシアが叱られた子供のようにしゅんと項垂れた。

 本来なら、こうも頻繁にレティシアが自室を出ることは好ましくない。それはレティシアが一番よく分かっていたが、今の状況が過去の辛い記憶と似ていて、どうしてもクラウディスのそばに付いていたいと願ってしまう。


「お父様やお母様の時を思い出してしまって……。分かっているつもりだったけれど……駄目ね」


 エルストスとレイフィルシアが亡くなる時も、レティシアは特例として付き添うことを許された。そして今回も、クラウディスに付き添うレティシアを咎める者は誰もいなかった。それが余計に、レティシアの心を不安にさせる。

 無意識に最悪の事態を想像した自分を戒めて、レティシアが緩く首を振った。


「そんな顔をなさっては、クラウディス様が心配されますよ。大丈夫です。あの方がレティシア様を置いていくはずがありません。だからレティシア様も、心を強く持って信じて待ちましょう」

「マリエル。……ありがとう」

「お茶を飲んだら、少し休んで下さいね。目の下にクマのある姫様なんて見た事ないですからね」

「えっ!」


 飲みかけていたお茶を思わずこぼしそうになったレティシアが、慌てた様子で自分の目元を覆い隠した。手のひらで覆いきれない白い頬が、面白いくらいに赤くなっていく。


「そうそう、その調子です。暗い顔では、せっかくの美人も台無しですよ」


 暗い空気を吹き飛ばすマリエルの声音に、レティシアの顔も自然と緩んでくる。久しぶりに声を出して笑った気がして、レティシアは心の奥がふっと軽くなっていくのを心地よく感じていた。




 マリエルの言うことを大人しく聞いて午後から休憩を取ったレティシアが、うたた寝から目を覚ましたのは一時間後の事だった。短い時間ではあったが、体は随分と軽くなっている。このままクラウディスの私室へ行こうかとも思ったが、マリエルから言われた言葉もあって、レティシアの足は自然と三階の図書室に向かっていた。


 レティシアは天界の姫だ。結晶石の最後の宿主として、いざと言う時にやらなくてはならないことが他にある。

 クラウディスが心配でたまらないのは妹としてのレティシアであって、結晶石の宿主であるレティシアは王族として動かなければならない。兄を思う気持ちを胸の奥に今は押し殺して、この時間レティシアは天界の姫と言う仮面を被った。


 図書室の扉を開けて中に入ると、レティシアは真っ直ぐに二列目の棚へと進んだ。十年間通い続けた場所だけに、どの棚に何の種類の本が収められているのかは容易に分かる。

 人差し指で本の背表紙をなぞりながら、記憶を手繰り寄せていたレティシアの手が止まった。引き抜かれた本には、既にレティシアによって栞が挟まれている。


 数ある白魔法の本の中でレティシアが手にしたのは、それよりも高度な技術を要する上位白魔法が記されたものだった。栞のページを開くと、レティシアはそこに記されていた文字を声に出して読んでみた。


「永劫封印の、白魔法。……人体封印とも呼ぶ。他の方法では解決に導けない場合にのみ、発動することを許される上位白魔法。人体をいしずえとした強力な結界魔法のため、発動には各国の承認が必要である。また魔法自体が難解、そして人体そのものを核にするため、この魔法は最高位の白魔導士にのみ口伝くでんによって語り継がれている」


 読み終わると同時に、レティシアの背筋がひやりと凍る。

 もしもクラウディスが亡くなるようなことになれば、レティシアは封印の解ける結晶石を一人で守り続けていかなければならない。クラウディスのように特別白魔法に秀でている訳でもなく、レティシアはただ結晶石の器として存在しているに過ぎない。自分の宿命を再確認して、レティシアが自嘲的な笑みを浮かべた。


「これが、私の運命だもの。……わかっているわ」


 誰に告げる訳でもなく声を落とし、本を閉じる。

 レティシア一人では、封印の解けた結晶石を守り続けられる自信がない。先祖である神界の姫ラスティーンのように自身に再び結晶石を封印できればいいのだが、かつての神界人たちが振るった魔法は今の天界人の比ではない。たとえ封印の方法が残っていたとしても、それを発動できるだけの力がレティシアたちにはなかった。


 残された道は、自ずと決まる。結晶石の封印が解ける前に、レティシア自身がその身を核とした結晶石の永劫封印となるのだ。勿論それは最終手段だが、今のクラウディスの状態が続けばその可能性はぐっと上がるだろう。

 本を閉じたまま微動だにせず、レティシアはただ静かに自分の運命を受け入れようとしていた。



 ***



 魔導士たちが夜通し必死に唱えた回復魔法の甲斐もあってか、帰還から七日が経つ頃にはクラウディスの容体もだいぶ落ち着きを取り戻してきた。血色も戻り、呼吸も規則正しく繰り返されている。意識は未だ戻らなかったが、あとは本人の精神と体力次第だ。魔導士たちは主な役目をメイドに任せ、回復魔法は昼にのみ行われることとなった。


 陽が沈む前に様子を見にレティシアが訪れた時も、部屋には誰もいなかった。魔導士たちは回復魔法を終えた後で退室しており、メイドは水を汲み替えに部屋を出ようとしたところでレティシアと入れ違いになった。

 久しぶりに室内には二人だけだ。レティシアはベッド脇の椅子に腰かけると、そっとクラウディスの右手を握りしめた。


「お兄様」


 呼びかける声に返事はないが、握りしめた手から確かな熱が伝わってくる。


「大丈夫。お兄様なら、きっと戻って来られます」


 水を替えに行ったまま戻らないメイドは、レティシアが訪れたことで気を利かせてくれたのだろう。部屋の外には騎士が見張りについており、何かあればすぐに対応できるはずだ。そう思ってレティシアは暫くの間、メイドが作ってくれた二人きりの時間に甘えることにした。



 途中でマリエルが様子を見に来た時、レティシアは椅子に座ったまま上体をベッドに預けてクラウディスと一緒に眠っていた。あらかじめ予想していた光景だったのか、マリエルは用意してきたショールをレティシアの肩にかけると、そのまま静かに部屋を後にする。


「何かあったらすぐに知らせて欲しいのだけど、お願いできますか?」

「わかりました」

「ありがとう。後でお茶と、何かつまむものを用意して来ますね」


 部屋の外で待機している騎士たちへの気配りも忘れず、マリエルは彼らの疲れが取れるようなお茶を用意しにキッチンへと歩いていった。



 ***



 ――暗く、不快な闇の中にいた。

 自分の姿さえ見えない漆黒に、レティシアの心が本能的に恐怖する。闇の中から囁くように届く数多の声は悲哀に満ち、憎悪にまみれながら、レティシアにねっとりと絡みついてきた。身動きの取れない体は、成す術もなく闇に落ちていく。飲み込まれる恐怖に怯え見開いた青の瞳に、闇の中でただひとつ灯る赤い光が映った。


「……どうして」


 光の中に蹲る影が、嗚咽交じりに呟いた。


「どうしてこんなことに……」


 影は女の体を抱いていた。

 長い銀髪は血に濡れ、白い腕は力なくだらりと垂れている。影は動かない体を抱きしめて、魂を呼び戻すかのように何度も名前を呼んでいた。


「――レティシアっ!」


 名を呼ばれ、レティシアの胸がどくんと鳴った。動かないレティシアの体を抱きしめた影が、そのままゆっくりとこちらを振り返る。凝視するレティシアの青い瞳に映った姿は、兄の面影がまるでない全身血まみれのクラウディスだった。



 ***



「……っ!」


 声を詰まらせながら、レティシアは弾かれたように飛び起きた。何か悪い夢を見た気がしたが、それがどんなものだったのかはもう思い出せない。ただ異様に早鐘を打つ鼓動が、その夢の恐怖を物語っていた。

 陽はすっかり沈み、部屋の中は薄暗い闇に包まれていた。その暗さにも僅かに怯え、少し慌てた様子でベッドから体を起こしたレティシアの視界の端に、一瞬だけ闇に輝く真紅が映りこんだ。反射的に顔を向けた先――そこにはベッドから上半身を起こし、レティシアをじいっと見つめるクラウディスの姿があった。


「……お兄様」


 真紅に輝いて見えたクラウディスの瞳は青いままで、重なり合った視線は逸らされることなく、それはレティシアが動くまで終わらないように思えた。待ち望んだクラウディスの目覚めだと言うのに、レティシアの体はなぜか金縛りにでもあったかのように強張っている。唇ひとつ動かすことが出来ず、漏れた声は音を持たずに落ちていく。


「……――レティシア」


 呼ばれた名が、夢の残骸と重なった。


「……っ」


 レティシアが言葉を発するよりも先に部屋の扉が開かれた。様子を見に来たマリエルによってクラウディスの視線は逸らされ、それを合図にレティシアは張り詰めた緊張の糸が切れたように意識を失った。

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