第3話 兄の帰還

 はるか昔、誰も手にすることが叶わないとされていた月の結晶石を手に入れた男がいた。

 自身の命を薄く引き伸ばし、気の遠くなるような長い時間をかけてそれを手にしたのは、魔界ヘルズゲートの王ヴァレス。彼はその石を用いて世界支配を目論み、当時絶対的な力を誇っていた神界リヴァイアへと戦いを挑んだ。

 熾烈な戦いは何年にも及び、多くの国や人が犠牲となった。その戦いに終止符を打ったのは一人の女性と、一匹の龍であった。


 銀色の髪と純白の翼を持つ彼女は、神界リヴァイアの姫ラスティーン。女性でありながら己が信念を貫く意志は誰よりも強く、聖獣と言われる龍の頂点に立つ神龍イルヴァールをも従えていたという。

 劣勢であった戦いを神界の勝利と言う結果で終止符を打ち、魔界王は月の結晶石を残して国ごと滅ぼされた。


 月の魔力が凝縮された結晶石は砕くだけでも力を暴走させる。そのためラスティーンは自身の体内へと石を封印することを決意し、このような悲劇が二度と起こらぬよう、結晶石は以後神界の王族の姫によって代々封印の楔を保ったまま受け継がれていった。


 女性は子を産み、結晶石は外の世界に出ることなく引き継がれていく。そうやって月の結晶石は、神界人によって永遠に守られることとなった。


 その後、神界は二つに分かれる。

 結晶石を守る役目を負った天界ラスティーンと、地上に降り龍を崇める龍神界アークドゥールが誕生した。


 一万年前のこの戦いを、後の人々は「月下大戦」と呼んだ。



 ***



 クラウディスが帰って来ると言う話をマリエルとしてから、既に二週間が経っていた。

 数日前に自室のバルコニーから見下ろした庭園の噴水側は緑一色だったのに、今ではぽつぽつとレイメルの薄い青が淡い色彩を落としている。花が咲く頃には帰って来るだろうと期待していたレティシアだったが、クラウディス帰還の知らせはまだ届かなかった。


「……お兄様」


 バルコニーに立ち、ぼんやりと空を眺めていたレティシアが、無意識に自身の胸元へ手を当てて深く息を吸い込んだ。少しだけ鼓動が早く脈打っている。理由は分からなかったが、何か漠然とした不安がレティシアの胸を黒く染めている。それは汚れた池の底に溜まる澱みのようで、正体を掴もうと手を伸ばしても指の間からすり抜けていく実体のない感覚だった。

 不安を感じる何かは確かにそこにあるのに、それが何なのかが分からない。


「魔界跡ヘルズゲート……結晶石を作った王の、国」


 自分の中に封印されている結晶石は、レティシアの代でその封印が解ける。その時期に僅かな生命反応を示したヘルズゲートは、何かしらの意味を持つのだろうか。

 レティシアの代で封印は解けるが、それがいつ起こるのかは誰にも分からない。もしも今回の調査でヘルズゲートに何かが起こっていたとしたら、レティシアは天界の姫として結晶石を誰の手からも守らなくてはならない。自分の使命を再確認し、レティシアは胸に置いていた手をぎゅっと強く握りしめた。




 城の三階には主に王族の私室があり、レティシアの部屋もこの階にあった。キッチンやメイドの使う部屋は別の階にあったが、レティシアの結界内での生活が始まると共に例外としてマリエルの私室と小さめのキッチン、そして簡易図書室が用意された。

 ほぼプライベートな空間である三階には全体に薄い結界が張られており、レティシアの自室に至っては複雑に絡み合う結界魔法がクラウディスの手によって重ねがけされている。この結界を通り抜けるためには勿論クラウディスの許可が要り、その証として深い青紫の石でできた魔法具の首飾りが渡された。

 レティシアとマリエル以外は常備することを禁じられており、実質自由にレティシアの部屋を訪れる事が出来るのは二人と、魔法を施したクラウディス以外に誰もいない。そんな場所であるから城の三階はいつも閑散としており、キッチンでマリエルがお茶の用意をする音だけが、誰もいない廊下に響き渡っていた。


 クラウディスが帰ってこない日々が続き、レティシアの顔にも翳りが出始めていた。表面上は取り繕っているものの、その笑顔が無理をして作られたものだと言うことをマリエルは長い付き合いの中から学んでいる。

 そんな彼女を少しでも元気付けられたらと、今日はレティシアの好きなエルフィダの花から作られた甘めのお茶を用意した。香りも少し甘ったるいが、今のレティシアには丁度いい。鼻腔をくすぐる甘い香りを楽しみながらマリエルがワゴンを押してキッチンを出た瞬間、場の空気がピリッと僅かに揺れた。


「……?」


 何事かと辺りの様子を窺いながら慎重に歩を進め、階下へ続く階段の側へ近づいた時、再び空気がピリッと揺れた。同時に階段の方で男の呻く声がする。そうっと覗き見ると、階段の下に城の衛兵が片膝を付いて蹲ってた。侵入者ではなかったことに胸を撫で下ろしつつ、マリエルが慌てた様子で衛兵の元へ駆け下りていく。


「ちょっとあなた、大丈夫?」

「すみま……せん。僕は何も……。ここの結界の作用です」


 まだ若い衛兵は途切れ途切れにそう言うと、肩を大きく上下に揺らしながら深い呼吸を繰り返した。


「あなたには少しきつかったようね。そもそも一体何の用があってここまで……」


 彼の体を支えようと手を伸ばしたマリエルは、向けられた衛兵の緊迫した眼差しに一瞬だけびくんと体を震わせた。


「急ぎレティシア様へお伝え願います! クラウディス様がご帰還されました!」

「まぁ! クラウディス様が……」


 マリエルが喜びをあらわにしたのも束の間、衛兵が彼女の言葉を強い語気で遮った。


「ヘルズゲートで魔物の襲撃に遭い、――危篤状態とのことです!」



 ***



 城の入り口は騒然としていた。多くの騎士や衛兵、宮廷魔導士たちがメイドらに指示を出したり、呪文を繰り返す焦燥した声が響き渡っていた。騒ぎの中心は魔導士たちが陣取っていて様子は窺い知れなかったが、白い床にじわりと広がる鮮血が事態の深刻さを物語っている。


「お兄様!」


 悲鳴に近い声を上げて駆け寄ってきたレティシアに、周りを囲んでいた騎士たちが道を開ける。レティシアが到着しても魔導士たちの呪文は途切れることなく、代わりに彼らを指揮していたローフェンが足早に近づいてきた。


「レティシア様。クラウディス様の意識は未だ戻りませんが、鼓動は微弱ながら確認できております。今は魔導士たちの治癒魔法で繋ぎ止めておりますが、このまま意識が戻らぬとなると……」

「私も手伝います!」


 ローフェンが言わんとすることを察し、彼を遮ることでその続きを拒否したレティシアが、唇を固く結んだままクラウディスのそばへ膝をついた。

 近くに寄ると、濃い血臭が鼻腔に突き刺さる。想像していたよりもはるかに濃い血の臭いに息を詰まらせたレティシアだったが、意を決して固く結んだ唇を開くと、そっと両手をクラウディスの胸元へかざしたまま呪文を唱え始めた。


 呪文に合わせて、クラウディスにかざした手が淡い光に包まれる。こぼれ落ちた光の粒子はクラウディスの体に触れると同時に吸い込まれ、目に見える傷はすべて元通りに治っていく。けれど失われた血が戻ることはなく、クラウディスの顔は依然として青白いままだった。


「お兄様。……どうか、戻って……」


 願いを込めるように、レティシアが力なく投げ出されていたクラウディスの手を強く握りしめた。血に濡れたクラウディスの手は驚くほど冷たく、包み込んだレティシアの手のひらが指先まで一気に凍る。

 瞬時に全身の熱を奪われ、軽い眩暈を感じたレティシアが思わず手を放そうとしたその下で、今まで意識がなかったとは思えないほど突然にクラウディスが青の双眸をかっと見開いた。


「お兄様!」

「……レ……ティ……。レ、……シア」

「はい! ここにいます。お兄様」


 引き戻しかけたレティシアの手を強く掴んで、自身の体を起こしながら顔を近付けたクラウディスが、何か言おうと乾いた唇を震わせる。その様子に慌てて耳を寄せたレティシアに、クラウディスのただならぬ緊迫した声が届いた。


「……結晶石を……っ!」


 それだけ言うとまるで憑き物が落ちたように、再び意識を手放したクラウディスの体が床の上に崩れ落ちた。

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