第1章 運命のはじまり
第2話 深窓の姫君
月の結晶石。
それは長い時間をかけて、月の魔力を結晶化したもの。
手のひらに乗るくらいの小さな石に結晶化された月の魔力は、それを手にするだけで圧倒的な力を振るうことができると言われている。願えば国さえ瞬時に消し去ってしまえるほどの恐ろしい石は、その秘めたる力の強大さゆえに、いつの世も多くの者たちに求められてきた。
結晶石を欲する思いが強ければ強いほど、内に秘めた力はより濃く、強く結晶化する。月の魔力と共に絡め取られた思いの強さ。誰にも譲れない、たったひとつの願い。それが月の魔力を結晶化させる鍵である。そのため月の結晶石は、作った本人にしか扱えないとされていた。
それでも石を持つだけで自身の体力、魔力のみならず生命力に至るまで、ありとあらゆる能力を爆発的に上昇させることが可能である。神秘なる月の恩恵は善悪関係なく、それを手にした者に等しく降り注ぐのだ。
しかし月の魔力を結晶化する為に必要な時間は、人の寿命では到底追いつけない。それゆえに、罪深き者たちは自身の命を薄く引き伸ばし、時の流れに逆らおうとしてまで小さな結晶を欲した。
月の結晶石。
それを手にする事は、世界を手に入れるも同じであると言う。己の欲望の為に作り出された結晶石は、時に世界を巻き込む戦いの元凶となった。
***
ごとん、と鈍い音を立てて、レティシアの膝の上から一冊の本が床に滑り落ちた。穏やかな微睡みに落ちていこうとしていた意識が、その音でゆっくりと現実に引き戻される。白い肌にかすかな影を落とす睫毛を震わせ、開かれた瞼の奥から一点の曇りもない宝石を思わせる青い瞳が現れた。
ぼんやりとした視界に、薄いレースのカーテンがそよ風を受けて柔らかく揺れている。バルコニーへ続くガラスの扉は開け放たれ、気持ちの良い午後の日差しが部屋の中へ差し込んでいた。
足元に落ちた本を拾い上げてそれをテーブルに置くと、レティシアは椅子に座ったまま両腕を上げて強張っていた体の筋肉を
「レティシア様。お茶をお持ち致しました」
「もうそんな時間……どうぞ、マリエル」
思っていたより随分眠っていたのかと、少し慌てた様子で椅子から立ち上がったレティシアと、ティーセットを乗せたワゴンを引いて部屋へ入ってきたマリエルの視線が重なり合った。別に悪いことなどしていないのだが、何となく気まずさを感じたレティシアが不自然にマリエルから視線を逸らす。
「あら、レティシア様。……随分眠ってらっしゃいましたね?」
「えっ!」
見て分かるほど肩を震わせたレティシアに、マリエルがくすくすと声を漏らして笑った。
「レティシア様のことなら何でも分かりますよ。何年一緒にいると思っているんですか」
運んできたティーセットを部屋のテーブルへ手際よく準備する様子を眺めながら、レティシアは短い溜息をひとつこぼして、諦めに似た笑みを浮かべた。
「マリエルには敵わないわ」
「さあどうぞ。今日は眠気覚ましに丁度いいルダーのお茶ですよ」
花柄のカップに注がれた薄い琥珀色のお茶は、マリエルの言う通り爽やかな香りがした。添えられた焼き菓子を一つ頬張ると、レティシアの顔がふわりと綻ぶ。その様子を見て、マリエルもつられたように微笑んだ。
「マリエルも一緒に飲みましょう? ひとりで飲むのは味気ないもの」
「ではお言葉に甘えて」
そう言ってワゴンからもう一客カップを用意したマリエルが、少しも動じる様子なくレティシアの向かいの椅子に腰かけた。
仕えるべき主人とメイドが同じテーブルを囲むなど本来ならあり得ない光景だが、レティシアとマリエルの場合は少し特殊な関係で、それを咎める者もこの城には誰もいない。
他のメイドと比べてマリエルは幾分砕けた話し方もするし、お茶の時間にはこうして毎回レティシアと一緒にお茶を飲む。とは言ってもレティシアが声をかけるまでは絶対に自分からテーブルにはつかないため、形式張った受け答えをする事で、一応の主従関係を保っているという感じだ。
暖かな午後の日差しが差し込む部屋で他愛ない会話とお茶を楽しむ二人の姿は、仲の良い姉妹のようにも見えた。
マリエルは十五歳の頃から、メイドとして城で働いていた。最初は先輩のメイドと一緒に王妃レイフィルシアの付き人として働いていたが、そこで幼いレティシアと出会い、彼女が五歳になった時に専属のメイドとして格上げされた。マリエルが十七の時である。
メイドの中では一番若いマリエルがレティシア専属として抜擢される事は異例ではあったが、レティシアがマリエルに懐いていたことと、王妃レイフィルシアが直々にエルストス王へ頼み込んだことが決め手となった。
レティシアは月の結晶石を宿す姫だ。しかもその封印はレティシアの代で解かれる。世界の魔力そのものに影響を及ぼす月の力は純粋がゆえに危険を孕み、
幼い我が子の背負う宿命を愁い、叶えられる願いならば叶えてやりたいと思うのは切ない親心だ。そうして彼女に仕えるようになったマリエルは、レティシアが十歳になり城の結界内での生活が始まると、出来るだけレティシアが過ごしやすいようにと努めてきた。
限られた区域内の生活では、行ける場所も会える人も限られている。まだ幼かったレティシアが心の拠り所として、マリエルに肉親に似た愛情を求めるのは時間の問題だった。
「もう十年経つわね」
ぽつりと言葉をこぼしたレティシアが、曖昧な笑みを浮かべたままバルコニーの外を眺めていた。澄み渡った青空を、白い鳥が自由気ままに飛んでいく。同じ白い羽があるはずなのに、レティシアはここから飛び立てない。
羨望の眼差しをバルコニーの向こう側へと投げかけるレティシアを見つめながら、マリエルが努めて明るい声音でお茶のお代わりを促した。
「十年経っても、私の中ではまだまだ手のかかる小さな姫君ですよ」
「あら? 私もう二十歳よ。出会った頃のマリエルの年齢を追い越したわ」
「そのマリエルは、もう三十二ですよ」
一瞬見つめ合い、そしてどちらからともなく笑い出す。先程の少し重い空気は、可憐な乙女の笑い声によって部屋の外へと弾かれていった。
「お茶の時間が終わったら白魔法のお勉強ですよ。ローフェン様から、直接訓練室に来るよう言伝されましたが、今日は何をなさるんですか?」
「防御と攻撃を併用した結界魔法の練習よ。これね、お兄様が魔法都市に修行に行った時、考えた魔法なんですって。本来はもっと規模も大きい魔法なのだけど、私でも扱いやすいように考案してくれたらしいの。身を守るにはこれくらいがちょうどいいって」
クラウディスのことを話す時、レティシアはいつも生き生きとしていた。
今ではもう肉親は彼しかいない。レティシアにとって心の支えとなっているのは兄クラウディスと、メイドのマリエル二人だけだ。
元来体があまり丈夫ではなかった王妃レイフィルシアは、レティシアが十二歳の時に亡くなっている。エルストス王もその三年後に後を追うように亡くなり、クラウディスは二十一歳という若さで王位を継承した。
頼る者のいない若き王としての苦労は、想像するに難くない。しかしどんなに辛かろうとも笑みを絶やさず、常に国を第一に考えるクラウディスは国民にとって理想の王だ。レティシアにとっても自慢の兄だったが、抱え込んでいるであろう心労を減らす手伝いすらできない自分が情けなくもあった。
「そのクラウディス様が、もうすぐ帰還されるそうですよ」
突然の報告に、レティシアの顔が一瞬固まった。次の瞬間にはもう弾けんばかりの笑顔を纏って、椅子から勢いよく立ち上がる。その拍子に、ガタンっと椅子が大きく揺れた。
「本当? いつ?」
「詳しい日程は分かりませんが、数日中には……と」
マリエルの言葉を聞きながらバルコニーへ走り出たレティシアは、眼下に広がる中庭の庭園から青い空へと視線を移し、同じ空の下にいるであろう兄を思い心弾ませる。
クラウディスが魔界跡ヘルズゲートへ調査へ旅立ってから二ヵ月ほどが経っていた。
今は生きている者さえいない滅びた国。一万年前の月下大戦の折、神国リヴァイアによって滅ぼされ、現在はその跡地のみが残るヘルズゲートは緩やかに死に逝く運命にあった。
それが突然、僅かな生命反応をみせたのだ。事態に一抹の不安を覚えたクラウディスは選りすぐりの騎士を連れて、少数精鋭で調査に向かったのである。
「あの魔界跡ヘルズゲート……と言うのが気になりますが」
「……そうね。何かと不吉な場所だもの。――でも」
くるりと振り返って、レティシアがにこりと微笑んだ。降り注ぐ陽光に照らされて、彼女の銀髪が眩くきらきらと光を弾く。
「きっと大丈夫。お兄様は強いもの。何があっても、必ず無事に帰って来るわ」
「そうですね。あの世界最強の白魔導士メルドール様にも白魔法の腕を見込まれた方ですし、私たちは余計な心配せずに……レティシア様は、そのクラウディス様が考案した魔法をしっかり勉強なさって下さいね」
「任せて! お兄様が帰る頃には、ちゃんと習得してみせるから」
そう言って、再度空へ視線を戻したレティシアの瞳に、白い鳥が映る。
自由に飛べる鳥を羨ましく思ったが、飛べないレティシアにはレティシアなりの役目がある。クラウディスが国のために日々頑張っていると言うのに、レティシアだけが弱音を吐いてはいられない。自分は兄にも負けず劣らず、強くあるべきだと胸の奥で再確認する。
自分は、月の結晶石を宿す者なのだから――と。
「私も頑張らなくちゃ」
自身を奮い立たせるように小さく頷いて、深く息を吸い込んだ。
『必ず無事に帰って来る』
出発の際にクラウディスがレティシアに告げた言葉、その約束が破られることはないと、レティシアは強く信じていた。
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