月の記憶
紫月音湖*竜騎士さま~コミカライズ配信中
第1部 竜使いの青年と月の姫君
序章
第1話 天界の幼き兄妹
薄青のレイメルは、兄が好きな花だった。
朝露に濡れた若葉に似た花の香りは、どこか兄、クラウディスと似ているような気がした。
城の中庭に作られた庭園はいつの季節も色とりどりの花を咲かせ、訪れるもの――
中庭に設置されたテーブルで午後のおやつを食べるのが日課で、雨の日になると、その柔らかい頬を膨らませて少しばかり不機嫌になる。そんなレティシアを優しく宥めて、いつもよりちょっぴり甘いお茶を用意するのは、彼女が五歳の頃から付き人として奉公するマリエルの役目だ。
今日の空は雲一つない快晴。太陽は昇り始めて間もなく、午後を迎えるにはまだ幾分早い。日課のお茶の時間にはまだ随分早かったが、レティシアはある目的をもって庭園を訪れていた。
おやつを食べるテーブルを通り過ぎて庭園の中央にある噴水の元まで来ると、目的の物を見つけたレティシアが近くの植え込みにしゃがみ込んだ。
青い宝石のような瞳に、薄青の花びらを上品に重ねたレイメルの花が映っている。以前レイメルの香りを嗅いだクラウディスが、心安らぐ香りだと言っていたことをレティシアはずっと覚えていた。
最近はレティシアよりも父王エルストスと一緒にいる事が多く、父の跡を継ぐ為、日々勉学に励んでいると聞く。午後のおやつにも顔を出さない日が珍しくなくなって随分と経つが、自室でも満足に休憩を取ってはいないのだろう。目的を前にすると少し頑張りすぎてしまう性格の兄を思い、レイメルの花の香りが少しでも気分転換になればと、レティシアはその小さな手に薄青の花を一本だけ手折った。
***
天界ラスティーン。
天空に浮く不思議な国は、有翼人種の住む美しい国として知られている。地上から見上げれば、大地を丸ごと削り取ったかの如く、ごつごつした岩肌が剥き出しになっている。まるで巨大な岩塊とも言えるこの国は、上空をゆるりと不規則に移動する浮遊国でもあった。
移動手段は転送魔法陣を使うのが一般的で、例外として龍神界の民だけは飛竜で空を駆け上がっていく。地上続きではない為、何かのついでに寄ることがほとんどないこの国は神秘の国として人々の心に根付き、有翼人種の姿も相まってか神聖視されるまでになっていた。
とりわけ羨望の眼差しを受けるのはその王の一族だ。
天界の王族は皆一様に珍しい銀髪をしており、男女共に非常に美しい姿をしていると噂されている。中でも天界の姫君は良くも悪くも多くの人々の関心の的であった。
天界ラスティーンの姫君レティシア。
彼女はこの世にただ一つ存在する「月の結晶石」を体内に宿す、深窓の姫君であった。
***
中庭に面した廊下を、レティシアは手にしたレイメルを潰さないように握りしめて歩いていた。レイメルの香りにクラウディスが微笑む姿を想像するだけで、足取りは自然と軽くなる。想像した兄と同様に顔を綻ばせたレティシアの耳に――ふと、聞きなれない何かの声が届いた。
「……?」
鳴き声のする方へぐるりと首を巡らせて、視線が城の裏手の方へと流れていく。少し広めに作られた裏庭は、龍神界の民でも特別な者のみが飛竜にて降り立つことを許された場所だ。庭園ほどではないが、白い小さな花が絨毯のように敷き詰められ、真ん中には天界の象徴ともいえるフェゼリアの大樹が聳え立っている。
その大樹の周りを悠然と飛び回る二頭の飛竜が見えた。
「うわぁ……本物だ」
初めて目にした飛竜に目を輝かせたのも束の間、次の瞬間レティシアの体は固い何かにぶつかって、思考は一気にこちら側へと引き戻された。
「きゃっ!」
短い悲鳴と共にぐらりと、半ば吹き飛ばされた格好でレティシアの体が大きく後ろに傾いた。尻餅をつきそうになった体を
ことん、と当たった額を上げると、そこに少し近寄りがたい雰囲気を纏った長身の男が自分を見下ろしていた。
「大丈夫か?」
そう訊ねた男の深い緑色の瞳に、びっくりした表情のまま固まった自分の姿が映っていた。
「ごっ……ごめんなさい! 私よそ見して……」
弾かれたように数歩後退し、レティシアが深々と頭を下げた。
見慣れない長身の男の横には、これまた見慣れない初老の男が立っていた。見たところ城の人間ではないが、一般人がこんなに城の中まで入り込んでくるはずもない。ならば客人か……と小さな頭で思考を巡らせた結果、ぽんっと一つの答えが弾き出された。
今日は確か、各国のトップを招いた国際会議が行われる日ではなかったか。
だとすれば目の前の二人はどこかの国の最高権力者であり、その相手にレティシアは粗相したことになる。先程までの楽しい気分とは裏腹に、さあっと顔から血の気が引いた。
「あのっ……本当にごめんなさい。どこかお怪我は……」
「大丈夫、大丈夫じゃよ」
青ざめた顔のレティシアを落ち着かせようと、初老の男が身を屈めて目線を同じにすると、皺が刻まれ始めた顔ににっこりと笑みを浮かべて見せた。
「蝶のように小さな体でぶつかっても、こやつには傷ひとつつけられはせんよ。むしろこんなむさ苦しい、ごつごつした体にぶつかった姫様の方が心配じゃ。のう、ジーク?」
「俺を何だと思ってるんですか」
呆れ顔に溜息を一つこぼしたジークに意地の悪い笑みを浮かべて、初老の男が「よっこらせ」と屈めていた体を起こした。そして改めてレティシアに向き直ると、恭しく頭を下げる。
「お初にお目にかかりますな、レティシア殿。私共は本日こちらで行われる会議に出席する為、龍神界アークドゥールより参りました。私はガッシュ。こっちの不愛想な男がジークです」
そう自己紹介したのち、再び優しげな笑みを浮かべて、ガッシュはレティシアが気を取られていた方角を見て小さく声を漏らした。
「飛竜を見たのも初めてですか?」
未だ動揺しているのか声がうまく出せず、レティシアはその問いにこくんと頷くだけだった。
「良ければ姫様を乗せて差し上げたいのですが……どうやらお迎えが来たようですな」
ガッシュが視線を向けた先、城の内部へ続く廊下の奥から、整った顔立ちの少年が足早に近づいてくるのが見えた。その姿を目視するなり、レティシアの体から余計な緊張が抜け落ちていく。不安げな顔から一転して、ぱぁっと明るい笑みさえ浮かべ始めたレティシアを見て、ガッシュも嬉しそうに目を細めた。
「レティシア! こんなところで何を……」
「お兄様!」
ぱたぱたと駆け寄ってきたレティシアを背後に守るようにして、クラウディスが二人の前で立ち止まり、一礼する。
「すみません。妹が何かご迷惑を……」
「いやいや、迷惑なんてこれっぽっちもかけられておらんよ。むしろ愛らしい姫君にお会いできて光栄じゃった」
クラウディスがまだ頭を下げている一瞬の隙に、ガッシュが人差し指を口に当てて、レティシアに慣れないウインクをして見せた。そのぎこちないウインクに、小さく声を漏らして笑ったレティシアを一瞥し、何も知らないクラウディスが再び視線をガッシュに向けて口を開いた。
「私はこの国の第一王子クラウディスと申します。あなた方は龍神界より来られたガッシュ様と、ジーク様ですね。他の方々より早く到着されたとお聞きしましたので」
年若い王子の振る舞いにガッシュのみならず、ジークまでもが一瞬驚いた表情を浮かべた。確か今年で十四歳になるはずだ。大人と子供の境目に近い年齢だが、ガッシュたちを前にしたクラウディスの雰囲気は青年の落ち着きさえ感じられる。
未来を担う者がこうであるなら、天界王エルストスも安心だろう。そう考えて、ガッシュは自然と頷いていた。
「噂に違わず聡明ですな、クラウディス王子。少しばかり飛竜が早く着きすぎての。部屋にこもっておるのももったいないので、庭園でも眺めてみようかと歩いていたところですじゃ」
「そうですか。一言仰って頂ければ案内をお付けできましたが……良ければ今から私が案内致しましょう」
そう言って一歩前に進み出たクラウディスに緩く首を振って、ガッシュが彼の申し出をやんわりと断った。穏やかな微笑を浮かべたガッシュと、ほっとしたレティシアの視線が重なり合う。
「庭園はすぐそこですし、何かあればこやつがおりますゆえ」
こやつ、と指差されたジークが、クラウディスの視線を受けて軽く頭を下げた。
「王子は姫を宜しく頼みます」
一礼して先に歩き出したガッシュに倣って、「では」と短く挨拶を残したジークが後に続く。庭園へと歩き始めた二人の後姿を暫く見つめていたクラウディスは、彼らがもう振り返る様子がない事を悟ると、溜息をひとつこぼしながら背後のレティシアへと向き直った。
「それで? こんなところで何をしていたんだい? マリエルが探していたよ」
先程の王子としての顔ではなく、兄として表情を柔らかく変えたクラウディスに、レティシアが手に握ったままのレイメルの花を差し出した。
「お兄様にこれ、あげようと思って。最近ずっとお父様のお手伝いやお勉強で、ずっと忙しくしてるから……」
ずっと握っていた為か、少し萎れかかったレイメルは、それでも少し顔を近付けるだけで凛とした清々しい香りを放っていた。その香りを胸いっぱいに吸い込んで、クラウディスが暖かな日差しのような微笑みを浮かべた。
「……ありがとう、レティシア」
「でも少し萎れちゃった」
「だったらマリエルに急いで花瓶を用意してもらわなくちゃ。おいで」
そう言ってレティシアの手を取り、クラウディスが少し早足に城の中へと戻っていく。時々聞こえる笑い声に耳を傾けながら、幼い兄妹が仲睦まじく走っていく姿を見つめていたガッシュが、ふとその顔に浮かべていた笑みを静かに消した。
「素直で、本当に愛らしい姫じゃ。お主のところのアレスと同じくらいかの?」
「そうですね」
返事をしたジークも、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて、去っていく二人の後姿を見つめていた。
「月の結晶石の宿主。……しかも、封印が解ける代の宿主じゃ。エルストス王も辛かろう」
「確か十になる頃には、城の限られた範囲の結界内が生活の場になると……言い換えれば幽閉ですね」
「相変わらず、歯に衣着せぬ物言いじゃな」
呆れたように溜息をつくガッシュの視界に、もう兄妹の姿はない。さっきまでそこにいたレティシアの、花の綻ぶような顔を思い浮かべて切なげに目を伏せたガッシュの隣では、ジークが無言のまま佇んでいる。
レティシアは今年八つになる。二年後、彼女は城の結界内に閉じ込められた生活するのだ。彼女を訪れる者は限られたごく一部となり、城内といえど自由に歩くこともできなくなる。月の結晶石を守るためとはいえ、幼い少女に課せられた過酷な運命を思うと、胸の奥が何とも言えない澱んだ色に染まっていく。
「現状では結晶石の封印が解けるのを防ぐ術はないし、封印がいつ解けるかもわからん。そもそも結晶石については謎が多いからの。月の魔力を秘めた強力な秘宝じゃ。悪用されるのを防ぐには、今のところそれしか方法がないのじゃよ」
「……今日の議題は魔界跡ヘルズゲートの異変でしたね。もし調査が必要ならば、俺が行きましょう。ヘルズゲートなら、結晶石の謎について何か分かるかもしれない。……幼い子が犠牲にならないで済む方法が、見つかるかもしれない」
もう姿の見えなくなったレティシアを思い、どことなく愁いを帯びた声音でジークが呟いた。そんな彼の伝わりにくい優しさに、ガッシュが目を細めて静かに笑う。
「お主がそう思うのなら、わしの心配は杞憂じゃな」
「買い被りすぎですよ。少しは心配して下さい」
呆れたように肩を竦めたジークと、声を漏らして笑うガッシュの間をすり抜けて、庭園の甘い花の香りを乗せた風が空高く舞い上がっていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます