第7話 レティシアの逃亡

 椅子に腰かけて本を読んでいたレティシアが、ふと何かを感じて顔を上げた。耳を澄ましても特に変化はなかったが、なぜか鼓動がどくどくと早まっている。

 窓の外は漆黒の闇に包まれていて、その向こうから得体の知れない何かがこちらをじっと見つめているような気がした。いつもと同じ夜なのに、窓を黒く染める闇が今夜は不気味に映る。背筋の震えに気付かないふりをして、レティシアはカーテンを閉めようと椅子から立ち上がった。それとほぼ同時に、部屋の扉が荒々しく開かれた。


「レティシア様!」


 悲鳴に近い声を上げて飛び込んできたマリエルに驚いて、レティシアが手にしていた本を床に落とした。それを拾う間も与えずに、マリエルがレティシアの腕を掴んで少し強引に体を引き寄せる。


「マリエル? 一体どうしたの?」

「レティシア様……お逃げ下さいっ!」


 想像だにしない言葉を向けられ、一瞬呆気に取られたレティシアが声を発するよりも早く、マリエルが簡易の転送魔法陣を発動させた。魔法陣から放たれた淡い光が、その上に立つ二人の姿をあっという間に包み込んでいく。


「詳しく説明している暇はありません。ですがっ……どうか今は私を信じて付いて来て下さい!」

「マリエル……でも」


 言いかけたレティシアの言葉が途切れ、二人の姿が部屋から一瞬にして掻き消える。魔法陣は二人を城の一階へ移動させ、周囲を素早く見回したマリエルがレティシアの手を引いて有無を言わさず走り出した。


「ちょっ……と、マリエル! 何があったの?! 私……城を離れるわけには……」


 問いかけにも答えてもらえず、レティシアは半ば引きずられるような形でマリエルと共に廊下を走っていく。

 この状況を未だによく理解してはいなかったが、魔法陣によって一階へ現れ出た時から、レティシアは城を覆う不快な重い空気を感じ取っていた。こんなにも異様な雰囲気に今まで全く気付かなかったことに驚愕したレティシアだったが、同時に三階の結界とマリエルによって自分が守られていたことを思い知らされる。


「……この城……一体、いつからなの? お兄様はこの状況を知っているの? 知らせに行かなくちゃ……」

「いけませんっ!」


 今まで以上に語気を強めて、マリエルがレティシアを掴む手に力を込めた。既に中庭の庭園まで来ていたマリエルは噴水のそばで足を止め、注意深く周囲を確認してから少しの間レティシアと向かい合う。


「私にも何が起こっているのか、よく分かりません。けれど……」


 一旦言葉を切って、マリエルが言いにくそうに唇を噛み締める。


「けれど……クラウディス様は、危険です」

「……え?」

「ローフェン様も、騎士もメイドも……城の者は皆……っ!」


 背後で、ぱきりと枯れ枝を踏む音がした。ぎくりとして振り返ったマリエルが視線を向けた先に、妖しく笑うローフェンの姿があった。彼の背後の暗がりからも、同じように不気味な笑みを浮かべた騎士やメイドたちがぞろぞろと姿を現し始め、それを見たマリエルは観念したように深く息を吸い込んでレティシアを真っ直ぐに見つめた。


「レティシア様」


 かすかに震える体を必死に抑えて、マリエルが一瞬だけ強張った笑顔を浮かべて見せる。


「天界からお逃げ下さい。ここは私が食い止めます」

「マリエル……」

「私は大丈夫です。だから……」


 掴んだままの手を放して、マリエルが迫り来るローフェン達に向き直る。小さな声で唱えられた呪文はマリエルとローフェンの間に細い光の線を描き、そこから上へ向かって光の粒子が波打つように広がった。

 侵入者を阻むマリエルの結界魔法は微弱で、それこそ宮廷魔導士であるローフェンの手にかかれば指ひとつであっけなく無効化されるだろう。それでも、レティシアが逃げるには充分だ。


「行って下さいっ!」


 両手を横に広げて結界魔法を維持したマリエルが、背後にいるであろうレティシアを振り返らずに声を荒げた。


「早くっ!」


 怒号のように響いた声音と共に、レティシアの体が反射的に動く。息を呑む音と、弾かれたように走り出した足音が遠ざかっていくのを背中に感じながら、マリエルが震える唇を引いて薄く笑った。


「どうかご無事で……」


 祈るように呟いてマリエルが目を閉じると同時に、庭園に結界魔法の砕け散る音が響き渡った。



 ***



 天界を覆う闇は冷たく、走り去るレティシアの体からどんどん熱を奪っていく。少しでも気を抜けば命のぬくもりさえ抜き取られそうで、レティシアは震える手をぎゅっと握りしめながらきつく唇を噛み締めた。


 何が起こっているのか分からない不安と、変わり果てた天界に対する恐怖を抱えながらレティシアは当てもなく走り続ける。

 城をすっぽりと覆った瘴気に似た闇を避け、その触手が伸びていない場所を目指したレティシアが辿り着いたのは、城の裏手にあるフェゼリアの大樹の下だった。


 地に絨毯のように敷き詰められた白い花はかすかに発光しているのか、夜だと言うのにここだけがうっすらと明るい。その光に照らされたフェゼリアの大樹の後ろから、音もなくクラウディスが現れた。


「こんな所までどうしたんだい、レティシア。城を抜け出すのは良くないが、今回は大目に見よう。……さあ、戻ろうか」

「……お兄様」


 穏やかに微笑む兄の姿にほっと安堵し、レティシアが差し出されたクラウディスの手を取ろうと指を伸ばした。


『クラウディス様は危険です』


 不意にマリエルの言葉がよみがえり、反射的にレティシアが手を引いて後退した。


「どうした?」

「お兄様。……今、ここで何が起こっているのか……ご存知なのですか?」

「そうだな。それについては大した問題ではないよ、レティシア。むしろ大事なのはお前の方だ」

「……私?」


 差し出したままの手を戻すこともなく、さらにその指を伸ばしてレティシアの胸元を指差したクラウディスが、恐ろしく冷たい笑みを浮かべた。


「お前の中にある結晶石が、私には必要だ」

「何ですって……」


 クラウディスの口から発せられた言葉を信じられずに、レティシアが唇を震わせながら頭を横に振った。

 目に見える姿は優しい兄そのものだと言うのに、レティシアの知らない男がそこに立っているような気さえした。軽い眩暈を感じてよろけたレティシアに追い打ちをかけるかのように、淡々としたクラウディスの熱のない声音が届く。


「結晶石は力の象徴。それがあれば世界すら手に入れる事ができる。……レティシア、お前には封印が解けるまで大人しくしていてもらおう」


 レティシアを差していた指をパチンと鳴らした瞬間、レティシアの足元から幾つもの太い蔓が一斉に伸びあがった。獲物を捕らえる檻の形に姿を変えながらレティシアを捕らえたかに見えた蔓の塊は、その形を完全に成した瞬間、今度は内側から小さな鳥に似た光の刃によって切り裂かれた。

 どさりと鈍い音を立てて崩れ落ちた蔓の残骸とレティシアを見比べて、クラウディスがにやりと笑う。


「ただでは捕まらないと言うわけか」


 蔓を切り裂いた数個の小さな光が、鳥の形を保ったままレティシアの肩に降り立った。見た目は小さい光だが太い蔓を難なく切り裂くその力に、クラウディスはレティシアが天界の姫だと言う事を改めて思い知る。守られるばかりのか弱い姫だとばかり思っていたが、天界の姫と言う名に恥じないだけの魔力は秘めているようだ。

 だが――所詮はその程度だ。


「では、これはどうだ?」


 そう言って右手を横にしたクラウディスが、何もない空間から細身の黒い剣を引き抜いた。剣の纏うどろりとした瘴気がこぼれ落ち、それは地面に落ちる前に幾つもの細い蛇の姿をかたどって一斉にレティシアへと飛びかかった。


「行って!」


 レティシアの意図を汲み取って翼を広げた光の鳥は、けれどその鋭いくちばしが届く前に大きく口を開けた蛇の影に丸呑みにされていく。それだけでは飽き足らず、影は牙すら剥き出しにしてレティシアに襲いかかると、その白く柔らかな肌に次々と噛み付いた。体当たりに近い衝撃に足を取られ、レティシアの体が大きく後方へ弾き飛ばされる。


「きゃぁっ!」


 白い花を押し潰しながら、レティシアが小石のように転がっていく。体から消えた蛇の影の代わりに、鮮やかな赤が白い肌を汚していた。辛うじて起こした上半身からぽたりと真紅の血が零れ、ぐらつく視界を定めようと瞬きした瞳が、こちらへゆっくりと近付いてくるクラウディスを捉えた。


「大人しく言うことを聞いていれば、痛い目を見ることもなかっただろうに」


 すぐそばで立ち止まったクラウディスが、戦意の失せた傷だらけのレティシアを捕らえようと手を伸ばす。その指がレティシアではなく見えない壁に触れた瞬間、ばちんっと大きな音を立ててクラウディスの手が弾かれた。体を吹き飛ばすほどの威力はなかったが、それでも不意を突かれたクラウディスが数歩後退する。


「……?」


 むっと眉を顰めて様子を窺うクラウディスの目に、レティシアと自分との間を隔てるようにして張られた薄い七色の結界が見えた。防御結界のようでもあるが、弾かれたクラウディスの手のひらを深く切り裂くほどの攻撃力も秘めている。指をつたって流れ落ちる自分の鮮血をぺろりと舐めて、クラウディスがなおも抵抗しようとするレティシアを哀れに思い嘲笑した。


「防御と攻撃を併せ持つ結界魔法、か。……だが、レティシア。お前の魔法は私には効かぬ」


 諭すように言ってクラウディスが血の滴る右手を上げ、二人を隔てている七色の結界を指で軽く弾いた。ばきりっと響いた鈍い音と共に光の壁に深い亀裂が走り、そこから小さな糸に似た細い線が蜘蛛の巣状に広がっていく。きしきしと歪んでいく結界の向こうで修復魔法を唱えようとしたレティシアより早く、七色の光の壁が勢いよく弾け飛んだ。


「……っ!」


 防御壁が砕けた衝撃で、レティシアの体が再度後ろへ吹き飛ばされた。砕け散った結界の破片が鋭く尖ったままばらばらと降り注ぎ、それは悲鳴すら出せずに地面へ倒れこんだレティシアの体を更に深く傷付けていく。下敷きにした白い花が、見る見るうちに赤く染まっていった。


「お前に出来ることは何もない」


 クラウディス本人によって傷付けられていると言うのに、レティシアはこの期に及んでもまだ希望を捨てきれずにはいられなかった。


 いつでも穏やかな笑みを絶やさずに、常にレティシアの身を案じてくれていたクラウディス。レティシアが背負う運命を嘆き、他に手立てはないか探し続けてくれたクラウディスが、いま目の前にいる彼と同じだとは思いたくなかった。


 クラウディスの声で語られたそれは、かつての魔界王と同じ邪悪な思想だ。あの優しかった兄が同じ過ちを繰り返そうとしている。そう思うと、レティシアの胸がどうしようもない悲しみに満たされていく。


「……お兄、様。……本当に、結晶石を……世界を手に入れようと、しているのですか……?」


 レティシアの呼吸は浅く、言葉も唇からかすかに漏れる程度でしかない。そんなレティシアを冷たく見下ろしたクラウディスの手の中で、黒い剣がゆらりと歪みながらその姿を一輪の花に変えた。既に潰れてしまったレイメルの花を再度レティシアの目の前で握り潰し、無残に花びらを散らせたクラウディスが堪えきれずにくっくっと声を漏らして笑う。


「そうだ。私はずっと、それだけを考えて生きてきた。……お前には理解できないだろうがな」


 こぼれ落ちた言葉と、目の前に落ちたレイメルの花びらにクラウディスの本心を見て、レティシアが苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて目を閉じた。深く息を吸い込むことで心をできるだけ落ち着かせ、同時に失った力を少しでも取り戻そうとする。

 反撃する必要はない。ただ一瞬の隙があればいい。


「ならば……」


 虫の音ほどの声を振り絞って、レティシアがゆっくりと立ち上がった。美しい銀髪は乱れ、所々破れた白い服には赤い染みが今もじわりと広がっている。ふらつきながら、それでも真っ直ぐにクラウディスの正面に立ったレティシアからは、先程までの困惑した感情や脆弱さが一切の迷いなく消えていた。その変化に、クラウディスが僅かに身構える。


「ならば、私は妹として……天界の姫として、あなたの野望を阻止します!」


 今までにないほど強い口調で言いきって、レティシアが指を絡めながら両手をクラウディスの方へ向けた。服の裾がふわりと舞い、レティシアの足元に白い魔法陣が形成されていく。


「傷付いた体で何をしようと言うのだ」


 鼻先で呆れたように笑ったクラウディスが、すうっと右手を前に向けた。滴る血が宙を舞い、それはそのままクラウディスの眼前に赤い魔法陣を描いていく。

 赤黒く光る魔法陣とレティシアの魔法陣がほぼ同時に完成した瞬間、白と赤を纏った光の渦が激しくぶつかり合いながら炸裂した。


 フェゼリアの大樹はおろか城全体にまで及んだ光の衝撃はそこに溜まった闇すら吹き飛ばして、暗い夜に覆われた天界の空を一瞬だけ明るく染め上げた。


 轟音と共に巻き上がる粉塵。クラウディスの服の裾が激しく煽られ、髪を結んでいた紺色のリボンがするりと解けて飛ばされていく。

 思う存分に髪を弄んだ風が次第に威力をなくすと、それを見計らってクラウディスが顔の前まで上げていた腕をゆっくりと下ろした。薄く残る土煙の向こうを注意深く凝視していたクラウディスの目が、ある一点でぴたりと止まる。


 レティシアが立っていた場所に残る魔法陣の残骸。解けるように消えていく文字の羅列は、そこに別々の魔法を重ねがけした痕跡をかすかに残しながら、クラウディスが見ている前で完全に消滅した。


「……逃げたか」


 焦ることもなく、逆にどこか楽しむような表情を浮かべて、クラウディスが風に乱れた銀髪を無造作にかき上げた。


「まあ良い。レティシアを連れ戻す方法など、いくらでもある」


 一度は吹き飛ばされた闇が戻り、天界が再び暗黒に包まれていく。

 清く美しい国の姿を失った天界から、この日レティシアの姿が完全に消えた。

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