第10話 どうか届いて

リオスが死んだ。

忠実子さんからの電話で起きた私は、しばらく夢から覚めることが出来なかった。


忠実子さんの家で、冷たくなった温度のないリオスに触り、その虚ろだけど、未だ美しく輝く瞳を、そっと閉じてあげた。

病気も何もなく、穏やかに眠るように逝ったのだろう。

だけど、いくら穏やかでも、眠っているように見えても、

リオスは死んだ。もう動かない。


「嫌だ」

涙を流さない忠実子さんを後ろに、リオスを離さまいと、私はその大きくて冷たい紳士に覆いかぶさった。

忠実子さんは、今日のうちに、リオスを火葬し、天に昇らせてあげようと言った。

綺麗なまま天国へ行くことは、リオスにとっても喜ばしいわ。そんな言葉が淡々と聞こえるけれど、その一つ一つに感情などありはしなかった。


「14歳だもの。ボルゾイにとっては大往生だと思うわ」

「何よそれ。じゃあ、忠実子さんは、アルバやブルンカが今どうなったとしても、同じことが言えるの?」

「違うわ」

「違わないでしょう。大往生ですって?犬の寿命が短いってわかっているならば、「たった14歳で死んでも仕方ない」ことを理解しろと言いたいの?」


私の左右で、リオスを温めようと、アルバとブルンカが自分たちの熱をわけようとしているのがわかる。

それを見て、忠実子さんは、何も思わないのだろうか。グレーの目は、ずっと私だけを見ていた。

思わないはずがない。忠実子さんは私よりも前から毎日、紳士たちと一緒にいたのだから。

だから私よりも悲しくて、苦しくて、今にも胸が張り裂けそうで、リオスの死を受け入れることなど出来ないはずだ。


忠実子さんは、ずっと、私だけを見ていた。


「愛凛子。わかって頂戴。生き物には、必ず死がやってくるから、」

「やめて」

「愛凛子…」


その後は、うまく聞き取れなかった。

パパが死んだ時、周りから散々言われたことばかり言おうとしていた。でもそれらは止まず、私の耳や脳に容赦なく入り込んでくる。

まるで走馬灯のように。

そうだ。私は、パパが死んだ時、こんな感情にはならなかった。苗字が変わってしまうのだろうかとか、しばらく学校に行けないから友達と会えないのか、などと考えた後、いきなりやってきた「解放感」に喜びを感じた。

その後、一つも悲しまなかった。


この人からやっと解放された。

いなくなった。これで私は自由だ。そんな感情が芽生えてから、私はおかしくなったんだ。


肩を震わせながら、忠実子さんを見る。

幻滅した。

忠実子さんだけは違うと思っていたのに。


「嫌!そんな話二度としないで!」


アルバがくぅんと鳴いた時、何かがぷつんと切れた。

私の身体ごと大きな毛布のようなものでぐるぐる巻きつけられている。身動きがとれない上に、肩、肺、呼吸に必要な場所が上手く機能しない。

リオスに触れたい。

だけど今は、フローリングに手をつくので精一杯だ。


「愛凛子。落ち着いて。愛凛子にこんな話をするべきではなかったわ…ごめんなさい…愛凛子、お願い、落ち着いて」

「もう、リオスの姿を見られないのよ…っなのに、なんで忠実子さんは、すぐ、そうやって決めちゃう、の…」

何故、涙を流さないの。

忠実子さんが、リオスと一緒に死んだみたいだ。

「愛凛子、」

「許さない。絶対、許さな、い」


そのままリオスに触れることが出来ないまま、意識が遠のき、いつからか、愛凛子、と叫ぶ声が聞こえた。

忠実子さんの声だろうか。

そう思っていたけれど、よく聞くと、それは母さんの声だった。

母さんが泣きながら、ずっと私を呼んでいた。夢でも幻聴でもなく、母さんは私と一緒に救急車へ乗った。

最後に見えた忠実子さんは、ずっと私を見つめたまま動かなかった。



忠実子さんとは、このまま死ぬまで会えなくなる。

リオスに触れた時から、そう感じていた。



私は意識が無くなる前、お願い、と、何度も言っていた、と、救急隊員の人から聞いたので、

願いは叶えた、と、忠実子さんからの手紙に書いてあった。

いつもの龍を描くような、達筆だった。

私は、一体何をお願いしたのだろうか。


私は運ばれた先の病院で、二週間程の入院となった。

検査も含めてのことだったので、その旨を職場に伝える為に病院の電話を借りた。

入院の間は有給消化をさせてくれると言われ、安心したところで病室に戻ると、母さんが、フルーツをたくさん持って椅子に座っていた。

母さんは、穏やかな顔をしていた。


その間、母さんとも話し合い、カウンセリングを週3回程お願いすることになった。

しかしここは一体どこなのかと思えば、中学の頃に行った、あの新しく改装された病院の、心療内科の病棟だった。

入院施設は3階からなので、入ったことがない。まるで初めて来る場所のように、落ち着かなかった。


「君は抗うつ剤を服用しているらしいけど、合わないみたいだから、今日からこれを試してみようね」

私の病気は、中学の時に言われた病気ではないと、別の先生によって改めて診断された。ここ五年程飲んでいた薬に効き目を感じられなかったのは、そのせいらしい。

そうか。薬が違えば、不倫してでも人の肌の温もりを求めたり、身体が宙に浮くような苦しさに悶えることもなかったのかと思うと、もっと早く受診を検討していればよかった。

過呼吸がそれを証明してくれたから、不幸中の幸いだと、先生は言った。母さんは安心したように、「良かったね」と言ってくれた。


小さい頃は、小児喘息で何度も入院した。

多い時は2ヶ月に1回ほど。その時はいつも横に母さんや、おばあちゃんが寄り添ってくれた。

待合室の雑誌コーナーに、あの頃、母さんが買ってくれた絵本が置いてあった。

母さんはそのまま面会ギリギリの時間まで滞在し、「焦りすぎないようにね」と言って、帰っていった。


母さんから感じた、罪の意識は、私をどこか苦しめた。

カウンセリングの時に、幼少期、パパから受けた苦い思い出の話をぽろっと話した。そこから、私の病名はハッキリ決まり、治療が始まった。

とりあえず、久しぶりの病院食は美味しかった。薄い味付けで、ここでしか味わえないようなほっこりする味。

だけど、やっぱり白米やおかずが少ない。冗談で「おかわり」と言うと、看護師さんたちは、笑いながらも困っていた。


翌日、母さんと一緒に、良人さんも面会に来てくれた。良人さんは遠慮したそうだが、私が頼んだ。

母さんをよろしく、と言うと、面倒だけど頑張るよ、と、笑いを誘った。母さんはもちろん、良人さんの腕をバシンといい音をたてて叩いた。

看護師さんから「仲の良いご夫婦」ですね。と言われて、満更でもない様子だった。

三年後には結婚しているというのに、まったく、初々しいのか、よくわからない二人だ。


退屈な入院生活を意味のあるものにしようと、私は久しぶりに読書をしようと思い、購買コーナーの文庫本を五冊程買い込んだ。

ミステリー、純文学、ほのぼの、日常系など、背表紙をあまりよく見ないまま買ったけれど、全部読了した後は快感だった。

そのことを母さんに話すと、五冊の小説のそれぞれの作家の本を均等に、十冊以上持ってきた。

古書店で安かったから、と言う母さんを見て、絵本といい、この人はいつも、私の気に入ったものはなんでも買い与える人だったと思い出した。


入院してから、平和な日が、三日ほど続いた。


リオスのことを思い出した。

思い出さないようにと脳が止めていたダムが、一気にこじ開けられた。

リオス。そして、アルバ、ブルンカ。

頬を叩いて別れた彼、菜子、母さん。

色んな人たちが頭の中で私について議論していた。議論し終えると、そのままどこかへ去っていった。

そして、また過呼吸を起こした。入院してから初めての苦しみだったが、院内にいる分処置は早いので、意識がハッキリするのも早い。

看護師さんたちに「おかえり」と言われると、少し恥ずかしくなった。


そうだ。もう随分帰っていない。


そう考えると、また苦しくなってきたので、夕方のうちに頓服薬と睡眠薬を飲んで、今日はそのまま熟睡した。



「どうです?入院生活は、楽しくおくれていますか?」


膝の上に自分の手元が置かれている。

目を凝らすと、随分前に塗られたラメ入りのベージュのマニキュアが爪の上半分のところで、自分の存在意義を持て余していた。

手元も足元も入院前に塗ったので、あちこちはげていた。

スリッパで隠れた足元は、手元と違って見えない場所なので、つい濃い色を選びがちになる。ベージュもそうだけど、私は特に暖色を好むので、ワインレッドのマニュキアをよく使った。


「うわの空ですね」

「はい」

「えぇ、しょうがないことです。でも大丈夫。この病気の方には、よくあることですから」

「はい。…え?、あ、え、ごめんなさい。私いま、ただ返事してしまってました、よね…?」

カウンセリングの時、言葉に詰まり、思わず手元を眺めていた。どんよりした視界が、ぱっと明るい色彩を認識する。

「謝る必要はないですよ。考え事をしてしまうと、つい目先のことが見えなくなってしまいますしね」

「なんだか最近、言葉に詰まりやすくなって、そしたら、目の前のことに集中出来なくなってしまって」

「えぇ、わかりますよ。それも、よくあることです。」


その間も、先生は私の言葉や様子をカルテにすらすらと書く。時々、パソコンにも入力していた。私が気を悪くしないように、そうですか、とか、えぇ、とか、言葉のクッションを挟んでくれるので、不快な気持ちにはならなかった。中学の時、この先生に診察してもらっていたら、色々変わっていただろうか。


今日は、楽しかった思い出、辛かった思い出と一緒に、私の年表を作る日だった。


だけど、いざ思い出そうとすると、息が苦しくなる。なので、年表作りは数回に分けて行われた。

今日は、何も書けなかった。


さっきまで喋っていた自分と別の自分が、背中にいる。時々私の髪を引っ張ったり、そのまま背中にくっついたりする。

先生にはそれが見えるのだろうか。私は、本当に時々しか、それを認識出来ないけれど。


別の日のカウンセリングでも、私は同じような感じだった。

うわの空だったり、急に苦しくなったり。

治療をしているはずなのに、見られたくない日記を、無理矢理暗唱させられそうになっているみたいな、そんな感情が否めない。


「愛凛子さんは、どんな時にしんどくなりますか?」

「人から、認められていないなと感じたら」

「なるほど、消えたい、という感情が生まれてしまうんですね」

「消えたい…どうだろう。」


否定も肯定も違うと思った。

考えてる間、先生のデスク横にある背の高い植物が目に入った。太い幹のてっぺんに、ツヤツヤ光る、深緑の大きな葉をたっぷり茂らせた植物。

強い力を感じた。この気持ちはなんだろう。感動とは違う。恐怖に近い感情。


「死にたい、が一番しっくりくるかもしれません。」


正確に言うと、ここにいない人、会えない人に会いたい。そして、ただただ平和な世界で、みんなで暮らしたい。もうそろそろ死を選んでもいいのではないか、という考えが、ぽっと浮かんだ。


「かと言って、自殺しようとかは、無いんですけど。痛いのは嫌だし。苦しいのも嫌。楽に死ねたらって、甘えでしょうか」

こういう話をしていても、顔は笑っている。楽しくも面白くもないけど、やっと自分の心の奥底にあった、とれなかったものが取れたという爽快感が生まれたので、不思議と笑みが溢れた。というわけなんだけど。

「変ですよね。死にたいって言いながら笑うのって」

「いいえ。それは、希死念慮、と言うのですよ。」


辛かったですね。と付け加えて、またカルテとパソコン交互に目を通した後、きょとんと固まる私と目をしっかり合わせる。

「きしねんりょ、って、なんですか?漢字でどう書くんですか?」

相変わらず、口は身体以上によく動いた。次から次へと、言葉が宙に浮いて、先生の頭上で弾ける。


希望の希。生死の死。念じるの念。配慮の慮。

先生の言葉選びは、いかにもといったような心療内科の先生らしかった。


言葉の生命力を感じてしまった。植物の力強さに圧倒されてしまった。私は、もはや溢れ出る涙を抑える術を忘れていた。

思えば、自分はずっと死を望んでいたのではないかと思う。アルバたちと一緒にいる時も、チョコレートクッキーを食べている時も、アップルミントティーを飲んでいる時も。

楽だった。

だけど死ねたらもっと楽になれる。そう願わずにいられなかった。

だけどこの感覚に気付いてしまった。もうあの家には戻れない。あの家で、安心してしまうと、ただ、「きしねんりょ」が強まるだけだ。

どのみち、もう戻れない。


「死を望む方は少なくありません。愛凛子さんの場合、死は、憧れに近いのではありませんか?」

「憧れ…うん、そうかもしれない。」


正直、パパが死んだ時、「いいなぁ」と思った。

死んだら、讃えられる。

崇め奉られる。

ある人は新聞に載り、ある人は歴史の教科書に載る。

よしよし、頑張ったね。もう無理しなくていいんだよ。ゆっくり休んでね。と、抱きしめてもらえる。

少数派かもしれないけど、私は、死とはそういうものだと思う。


「愛凛子さん、人の一生とはあまりにも短く、尊い。生きるも、死ぬも、どちらも美しいです。

ですが、貴女が生を終わらせてしまっては、死した後の貴女を美しいと思う方よりも、生きた貴女の美しさを感じたいと思う方のほうが、多いのではないですか。

貴女は賢い女性です。大丈夫。心配せずとも、貴女は自らの力で理解出来ます。それが、貴女の美しさなのですよ」


昨日、太宰治を読んだ。


「恥の多い生涯を送ってきました」

中学の時、図書室のコルクボードに、「人間失格」の紹介文やイラストと共に、大きく描かれていた。それには目も暮れず、そうか、恥の多い生涯とは可哀想に。と陳腐な感想を述べながら、その隣に紹介されていた「パレアナの青春」を読んだ。

当時、私はパレアナのようになりたかった。明るく、陽気で、悲しみから這い上がる術を神から与えられたような少女。

でも私はパレアナではない。

忠実子さんは、パレー叔母様ではなかった。

ラベンダー夫人でもなかった。

忠実子さんは、私思っていたような人じゃなかった。

どこにもいなかったのだ。

今の私は、パレアナよりも、太宰のようになりたかった。


「愛凛子さん。貴女は、貴女以外の他の誰にもなれないのですよ。」

中学時代の私が、先生の耳元で内緒話をしている。パレアナになれなかった私を、助けて、と。

「貴女自身を愛してくれる方がいて、その方が、ある日急に別人になったら、貴女はどうしたでしょうか」

「どう、とは」

「夫の母に嫉妬、あるいは憧れ、そのあげく、夫の母のように振る舞った妻がいました。」

先生は、語り続けた。

「その方のようになれば愛されるはず。彼女はきっとそう思ったのでしょう」

「その方は、どうなったのですか?」

「気付いたのです。私は私なのだと。だから、妻は、夫から解放されました。」


先生の話を思い出しながら、本の整理をしていた。気付けばベッドの横の棚には文庫本が二十冊にも達していた。その中に、「赤毛のアン」も「パレアナの青春」も無かった。自分と向き合うため、もう一度「人間失格」を読むことにした。だけど、もう一度読み終えられるかどうかはわからない。読了するまでにたくさん時間を費やした。

そう。色々決めるのは、時間をかけてでもいい。何かを終えて、ため息をつき、肩の力を抜いてからでも遅くはない。

私は今まで、程よい力の抜き方がわからなかったのだと今頃悟った。


結婚するか。

良いこと探しを始めるか。

死を選ぶか。


私は、大好きな本の主人公の3人全員に似ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る