第5話 月曜、火曜、木曜、水曜

母さんと喧嘩した。


どうしても教室に入れない私を咎めた母さんに、その理由を言えなかったのが原因だった。


仕事から帰宅した母さんは既に不機嫌丸出しで、生理前なんだと気付いた。そして、「そろそろ教室に入りなさい」とだけ言われた。

身体が重くなった。

とにかく適当に理由をつけて入りたくない、入れないと言った。一度スイッチの入った母さんを言いくるめれたことは一度もない。


いつもみたいに背中が重くなり、胸が苦しくなり、地面に足をつけていたくなくて、大声で怒鳴りつけた。

気付くと母さんの首を絞めにかかっていた。

私が。私がだ。母さんの首を絞めようとしていたのだ。

それに気付いた母さんの恋人の良人さんが、ちょうどよく帰宅したおかげで、私と母さんの距離は離れた。

良人さんの「まぁまぁ」という、困ったような、優しくて太い眉毛を見て、涙が溢れた。


そこからはあまり覚えていない。

一昨日ドラマのように、雨の中裸足で家を飛び出し、途中小石を踏みながらも、全速力で走って、忠実子さんの家へ逃げた。

そうだ。あのドラマで走っていたのは、連続殺人犯だった。それに気付いたとき、中からいつもと変わらない忠実子さんが出てきた。


「また来るような気がしていたわ」


ハーブティーは美味しかった。

忠実子さんがベランダで栽培しているハーブはたくさんある。ローズマリー、タイム、セイジ、ミント。虫がつくので私は育てたくないけど、ハーブは好きだ。虫がつくだけあってとても美味しい。

「雨だものね。わたくしは、雨が好きだけれど」

学校から忠実子さんの家に行き、自宅へ帰った頃、雨が降ってきた。そこで母さんも帰宅し、喧嘩をした。

すべて雨のせいに出来るなら、それもいい。

「お母様もきっと不安定なのよ。貴女もそうでしょう。」

「だからって、母さんの首絞めて殺そうとするなんておかしいわよ」

「あら。貴女、大胆なことしたわね!」

大声で笑っているけれど、大胆と呼んでいいものなのだろうか。忠実子さんは、常識人のようでズレた部分が多すぎる。


最近、料理を覚えようと思い始めた忠実子さんだけど、これがまた大変で。

塩を大さじ3と言われたら、カレースプーンで3杯。これは割とよくある行動だと思う。私も昔勘違いしてやった覚えがある。

一番ひどかったのは、調理用の重曹では、なく、掃除用の重曹を、料理の中に入れようとしたこと。

「塩と砂糖を間違えたわけじゃああるまいし」なんて言っていたけれど、そういう問題じゃないと、私の携帯を使って、二人で重曹について調べて納得させたこともあった。


とにかく、忠実子さんはずっと笑っていた。

「別に殺そうとしたわけじゃないでしょう。さっきも言った通り、不安定から出た行動なのよ」

「でも、首を、」


自分が怖かった。

最近はずっと平和だった。


母さんとも普通に話が出来る日が増え、朝は一緒にニュースの占いを観て、夜はお笑い番組を観るような生活。

ここ一週間は、良人さんと一緒に食卓に並び、夕飯を食べることも出来るようになった。コンビニの最新のスイーツを買ってきては、一緒に食べる日もあった。

「俺って、やっぱり愛凛子ちゃんのバージンロード歩くことになるのかなぁ」という冗談に対し、「そうだろうね」と答えると、笑っていた。それがつい昨日の話だ。


母さんと良人さんの顔が、忘れられない。


「私、いつも全部ぐちゃぐちゃにしちゃう。せっかく、上手くいきかけてたのに、」

「愛凛子」

忠実子さんの「愛凛子」は、心地が良かった。

いつもと同じく柔らかい声色で、「大丈夫よ」と、

あやすように、背中をぽんぽんと叩かれる。

「家族ってね、生まれた時から出来上がってるものではないの。愛や絆で溢れているようで、最初は、何の形もない、ゼロの状態。それを、時間をかけて少しずつ造りあげていくのよ。

そうして貴女は最近、お母様たちと上手く関係を創り上げてきたわ。ほんの少し崩れたとしても、すぐ建て直せる。お母様たちも手伝ってくれるわ」


「その言葉、なんか本で読んだ気がする」

「ふふ。どこにでもある言葉よ」

修復不可能だと思い込んでいた時に比べれば、少しだけ落ち着いて、今度は安堵の涙がボロボロと溢れてきた。

「でも母さんと私は、忠実子さんと私みたいになれない。」

「あら、嬉しいこと言うわね」

ぎゅっと抱きしめられた。


「小学生の頃、ね、」


つい、話したくなった。


「母さんと大喧嘩して、車で知らない場所に連れて行かれて、置き去りにされたことがあったの。理由は、覚えてないけど、パ…育ての父が亡くなってすぐだったと思う。」


ティッシュを差し出してくれた。ポロポロと涙がまた溢れていたからだ。

思い切り鼻を噛むと、ハーブティーの香りがふわっとやってきた。


忠実子さんはハーブティーのおかわりをいれてくれた。一度カップにお湯を注いで、カップを温めてから。ハーブティーを注ぐ忠実子さんは、いつもほんわか、優しい顔をしていた。


「それで?」

「それで、そのまま母さんの車は走り去って、見えなくなった。その時、「捨てられた」と思った。

辺りを見回すと、森の奥の駐車場で。夜だったし、すごく暗かった。だから私はすぐ歩き出した。ずっとそこには立ち止まっていられない。とにかく一晩だけでも寝泊りさせてくれる家が無いか探す事に決めて、それから、どうするか考えようって思って、


へとへとになりながら歩き続けて、やっと一軒、家が見えた。でもチャイムを鳴らしたけど、誰も出なかった。思えば夜中だったからかもしれない。そこで初めて、置き去りにされたことに絶望したの。」


何にと聞かれたら、言葉が出てこない。

母さんに。この状況に。真夜中に。自分に。


「やっと、よく知れた道が見えてきて。家からはだいぶ離れた道路だったけど、よく知っている場所ってだけでとても安心した。そんな時、後ろから、大声で名前を呼ばれたの。振り向いたら、当時の担任が、車のライトで私を照らして、私を大声で呼んでた。

咄嗟に、なんで先生が?と聞くしかないでしょう。でも先生は、とても安心した様子で、混乱する私を車に乗せた。あの時の忠実子さんみたいに。

行き先は小学校だった。何故か警察がいて、社会、体育、保健、とにかく色んな先生がぞろぞろやってきて、大丈夫?とか、色々聞かれた。そこには、母さんも居て、」


警察よりも居てはいけない人間が、どうしてここに、と、驚いた。


「母さんは、どこ行ってたの、と泣いてた。え?って、なるでしょう?本当に、まるで意味がわからなかった。そりゃあ、「お前が捨てたんだろう」って、叫ぶでしょう。先生方は優しい声でゆっくり、母さんを責めてたけど、私には、家でゆっくり休みなさいと言ってた。でも、待ってください、って、言った。先生たちに叫んだ。その場で初めて泣いた。納得出来ない事が一つあったから」


簡単に割り切れないことは、生きていれば一つや二つあって、それは諦めなくてはいけない時も、もちろんある。

小学生の私にとって、それは「割り切ってはいけない」ことだったのだと思う。


「あの時、私は「捨てられた」。だから一人で生きていく。

そう決意し、この先どうやって生きてゆこうかとか、色々考えていた矢先だった。

それなのに、ただの親子喧嘩で終わったの?って、ただ、失落した。」


いつから涙が溢れ、喉に力が入らなくなったのだろう。忠実子さんに説明しながら、当時を思い出すと、どうしようもなく何かが襲ってくる。「挫折」だ。

あれは確かに私の挫折だった。


「わけわかんないよね。うまく説明出来ているかわからないけれど、当時は、もっと支離滅裂な言葉を並べて、大人達に叫んでいたかもしれない。

私の決意はどうしてくれるんだ、って、とにかく叫んでた」


さっき、母さんの首を絞めた時、担任の顔が浮かんだ。顔と言っても、造形までは思い出せないけれど。

いかにも熱血教師という感じで、良かった良かった、と、形だけのあの憎き微笑みを。


「その担任がね、私の肩を揺らして、言ったの。カウンセリングを受けなさいって。」


捨てられた。

生き延びなければ。


小さな小学生が、母親に置き去りにされたこと「だけで」咄嗟にそう判断し、決意した事自体が、逆に問題となった。その翌週、小学校では週一回のカウンセリング教室が設けられた。私は、一度も行かなかったけれど。

それからは担任が何度も家庭訪問しに来ては、色んな心療内科を勧めてきた。

母さんはただ一言、「大丈夫です」と言っていた。


「母さんの車に乗ったあの時、泣いていた母さんを改めて見て、少しずつ、後悔の念が押し寄せてきた。だから私は学校を後にして、母さんの車に乗った。謝ろうと何度も思った。

でも、母さんは、わざとらしく、はーあ、って、ため息、ついた。私は、あぁ、やっぱり。この人は、自分が哀れで涙を流していただけなんだって思った。今では、冷静になりたい時の癖だってわかるけど。

当時気付けばよかった。でも、ふとした瞬間思わずにはいられない。あの時、あの時、担任の車に乗らなければ、」


きっと母さんにも、葛藤があった。伴侶を亡くし、失意の中、反抗期の娘を抱え、育てていくのが辛くなったのだ。


あの時ほど、母さんを全面的に責めることは無くなった。パパが亡くなって、一人で私を育てるのにいっぱいいっぱいで、苦しくて、悲鳴をあげたかったはず。

私はそれを許さず、自分だけが大声をあげた。自分で勝手に挫折したくせに、母さんを責めるのは間違ってる。頭ではわかってるけれど。


「愛凛子、」


そうだ。

忠実子さんにずっと抱きしめられていたことを、私は忘れていた。

苦しすぎて、消えたい思いでいっぱいで、大切な人の存在や気持ちを無視してしまっていた。

あの時の母さんの名を呼んでくれる人はいなかった。どれだけ辛かっただろう。

「愛凛子、あのね、」

忠実子さんから、小さなビー玉がいくつも落ちてきて、二粒ほど、私の頬に落ちた。


「ありがとう」


私は、忠実子さんの「ありがとう」が、外国の言葉に聞こえた。


「あの時、車に乗ってくれてありがとう。」


忠実子さんの言葉が、私の「挫折」を包み込んだ。それを剥ぎ取ろうと、私のあらゆる感情が邪魔をするけれど、一度温まったものは、そう簡単には冷えない。

固くなってほぐれなかったものが、痛みと共にすーっとほぐれてゆく。


忠実子さんはタイムスリップしていた私を引き戻してくれた。そう、ここは、忠実子さんの家。あの日捨てられた森でも、小学校でも、自宅でもない。


視界がぐしゃぐしゃな私の顔を、きれいで真っ白なハンカチで、優しくポンポンと叩く。

やがてハンカチは涙で染み、そして、柔軟剤のいい香りがした。忠実子さんの香りだ。


「人の歩むべき道を折ってくれた人たちは、感謝しなければいけない人たちなのよ。そうしないと、次の道が出来上がらくて、行き止まりになってしまうもの。だから、お母様も当時の担任の先生も、とても良い道路工事をして下さったわね」


泣きながら吹き出すのはどうだろうとも思ったが、やはり笑いは止まらなかった。

「忠実子さぁん」

泣くフリをして、忠実子さんの胸の中で肩を震わせて笑った。

「はいはい。泣くだけ泣いたら、女性同士で何か食べましょう」


何がいい?と聞くので、私は、あの頃のもっとわがままで聞かん坊だった小学生時代に戻り、

「チョコレートクッキーがいい」と言った。


「あら、ちょうど家にあるわね。だけどどうせなら、買い物に行かないこと?お菓子はたくさんあったほうがいいでしょう。思い切り買い込むわよ」

「え、待ってよ、買い物って、この顔で行きたくないよー」

「わがまま言わないの。おバカね、ちゃんと可愛い顔してるわよ。さぁ、早く準備なさい。先に貴女の自宅へ行って、靴を取ってこなければいけないのだから」

「えっマジ?やだ!今日はやだ!今日だけは嫌!」


心の準備が。

そう言っている間に、忠実子さんは、「しつこい子ね」と笑いながら、私の腕を掴み、強引に黄色い車に乗せた。

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