第4話 空白を塗る

お昼頃に登校すると、開口一番、和泉先生に「ぬりえでもしてなさい」と言われ、げんなりしたところから、私の学校生活は始まる。

本気に冗談が入り混じった「嫌だよ」と言うと、先生は意地悪な笑みを浮かべる。


「勉強しないなら、大人しく本読むか、ぬりえをするって決まってるって言ってんでしょ」

「言ってないでしょ。そんなん初耳だし、そもそもそれ、誰が決めたのよ。先生が決めたんでしょ。先生私の担任じゃないじゃん」

「残念。ここでは私が担任なの。嫌だったら教室行きなさい。あぁ、あんたが授業に出てくれたら、保健室も平和になるわぁ」

「あーあ。ぬりえ、頑張るかぁー」

一見口論にも喧嘩にも見える、私たちのコミュニケーション。

私はわざとらしく聞こえない振りをして、先生の笑いを誘う。思った通り、先生もわざとらしく身を乗り出して笑う。

「あんたって子は。ねぇ」

「もう先生、可愛い生徒にあんたはないでしょ」

「あんたなんて、あんたにしか言わないわよ。あっ、言っちゃった。他の先生にバレたら、大変」

私は大きく笑いながら、両手を大きく広げ、白いスーツのいい香りのするベッドにダイブした。

そんな時、菜子も登校してきた。

「おはよう。」

菜子は「陽気」な私とは対象的に、気怠げで、ため息をついた。ゆっくり鞄を置き、「あんたも先生も元気ねぇ」と言った。


その黒髪は腰まで長く、前髪も後ろ髪もすべて真っ直ぐに切り揃えてある。日本人形のようだけど、どこかエキゾチックな風貌。それに加え、高身長で、よく大学生に間違われているくらい、大人っぽい。

私はそんな菜子とはやはり対象的に、低身長で、童顔、ほんのちょっぴり茶色が混じった髪に、どこから見ても平凡な顔。

見た目や性格、なにもかもが違う私たちは、自他共に認める親友であり、悪友だ。


「今日は、ぬりえらしいよ」

「なに?ぬりえ?和泉先生どういうことー?」

「和泉先生の嫌がらせだよねぇー」

「ちょっと、言いがかりはやめなさいよ。授業に出ないなら、私の言うこと聞くって約束でしょう」

「えー、めんどくさー」


こんなやり取りをしていても、私や先生、菜子は笑っている。

なんだかんだ言いながらも、菜子と一緒にならと、花の線画が描かれた用紙を何枚か貰う。

色鉛筆ではなく、クーピーで塗った。和泉先生のお孫さんの私物らしい。

クーピーを使うのは小学校低学年以来だから、ウキウキした。昔から、美術や図工は得意だったし、大好きだ。


勉強せず、呑気にぬりえをする生徒二人を見て、養護教諭の和泉先生はいつも通り、

「英のせいで、来年も保健室登校生が増えそうね」と言った。


和泉先生は私を苗字の「英」と呼ぶけど、忠実子さんは「貴女」と呼ぶ。

なんだかおかしい。忠実子さんの言う通り、少しややこしい名前を持ったもんだと思った。


「あんた、おばあさんのところにはまだ通ってるの?」

「うん。最近は毎日ね」

「いいなぁ。あんたには、ロマンチックな逃げ道があって。あたしもほしい。」

「あのね。せめて秘密基地とか、そういうのにしてよ。忠実子さん家が悪い場所みたいじゃない」


忠実子さんはあの日のうちに母さんに電話連絡をした。

私がかけようとしたら、「わたくしがするわ」と、受話器を離さなかった。そして、「お宅のお嬢さんはこちらにいます」と伝えてくれた。

忠実子さんは母さんに責められることなく、逆に謝罪を受けたという。とにかく、それはテンポの良いやりとりだった。


母さんが忠実子さんに何と言ったかは教えてくれなかったが、私がこれからも鏑木家に遊びに行くことを「快く」了承したらしい。


母さんは昔から、私のすることには基本何も言わなかった。

唯一止められたことと言えば、剣道を始めたいということと、マラソンに参加したいということで、どちらも喘息だからだめだと言い張っていた。

そのくせ、中学生で煙草を吸う菜子にはなにも言わないし、私が吸ったらどう言うかと思い聞いてみても、

「煙草は高いわよ」としか言わなかった。


忠実子さんと出会った日の話を菜子に話した時は、「よくそんな危ないこと出来たな」と呆れられた。

たしかに、見ず知らずの老婦人に誘われて、オンボロの黄色い車に乗ったという話をすれば、大体はそういう反応が返ってくるのは、まぁ、分かる。

「でも、忠実子さんって美人なんでしょ、会ってみたい。ねぇ、会わせてよ。」

でも今では、とにかく忠実子さんという人間への好奇心が向けられていた。

「忠実子さんは動物園のライオンじゃないんだから。鑑賞物じゃないのよ」

「だってさ、美人のおばあさんって、想像出来ないもの。その人いくつなの?純日本人なの?」


思えば知らなかった。年齢も、生年月日も、血液型も、好きなものも。生まれた場所も。

実年齢は、見た目よりは上のような気がするけれど。

忠実子さんとは、一体どういう人なのだろう。


忠実子さんはいつまで経っても、老いを知らない魔女のように、三匹の紳士を従えて、あの館に住んでいるんだろうと思う。

そう、忠実子さんはラベンダー夫人なのだ。そして、使用人のシャーロットの代わりに、三匹の紳士たち。四人で、こだま荘に住んでいる。

それでいい。忠実子さんはずっと私の中の忠実子さんのまま、美しく生き続ける。


登校して二時間ほどでぬりえにも飽き、菜子と共に下校した。忠実子さんの家まで着いてこようとする菜子を振り払い、通学路をゆっくり歩いた。

そういえば、明日もぬりえだと言っていたなぁ。

和泉先生との約束を思い出しながら、赤色に塗った薔薇のぬりえを思い出していた。


「ねぇ忠実子さん」

「はぁい」

忠実子さんはかぎ針でずっとマフラーを編んでいる。私が話しかけても、紳士たちと遊んでいる時も、帰る時も、ずっとずっと編んでいる。だから、返事が少しだけうわの空だ。

ここ二週間ほど、私はずっと忠実子さんの家に数時間滞在してから、自宅に帰っている。

忠実子さんの提案だと、忠実子さんは言ったけれど、その提案には母さんも関わっているのではないかと思っている。

「忠実子さんって、いくつ?」

「急ね」

「だって忠実子さんは私の年齢知ってるのに、私は忠実子さんの年齢を知らないのは不公平じゃない?」

「ババァの年齢なんて聞かないほうがむしろ公平よ。おバカ」

編み物の世界から戻ってきた忠実子さんは、調子良く私の頭を小突いた。

「そんなことを聞く前に、帰りが随分早いわね?そのことについてお聞きしてもよろしくて?」

「痛いーっ」

また小突かれた。ラベンダー夫人は意外と暴力的だったなんて知らなかった。これなら、まだ頭を叩かない養護教諭の和泉先生のほうがずっと優しいではないか。


忠実子さんと出会ったあの日、忠実子さんと共に母さんのいる家に帰った。

母さんの目は私と同じくらい真っ赤で、家に入ってすぐ、二人黙ってハンカチにくるんだ保冷剤で冷やし、そのまま寝た。

翌日、やはり私は、徒歩10分圏内にある忠実子さんの家へ行った。次はしっかり、「忠実子さんの家に行きます」と言ってから。

母さんは「気をつけてね」と言った。

きっと「煙草を吸います」と言っても、同じことを言うのではないかと思った。


戸籍は、私の学校の鞄の中にずっと眠ったままだ。

何度かベッドの上で「養子」の文字を眺め、少し唸り、意外となにも感じることの無いまま、鞄に仕舞う。これを三度ほど繰り返した。

手付かずの30日分の薬と共に、「必要になる日」まで封印しておこうかとも思う。


という話をしたら、忠実子さんが意外にも食いついた。

「中学生の娘が戸籍なんて大層なもの持ち歩いてるんじゃないの」

叩かれた上に怒られてしまった。今日は散々だ。最近はよく怒るようになった忠実子さんは、何故か生き生きとしている。

「大層って言うけど…ただの家系図じゃん」

「貴女には悪影響を与えるに決まっているわ。帰ったらお母様に渡して、棚の中にでも締まってもらいなさい。」

「いやぁ…あんな出来事があったのに、また目の前に戸籍を差し出すのはちょっと…」

かなりのメンタルの持ち主でないと出来ない。

だけど、あまり心配をかけさせてもいけないと思い、とりあえず了解だけしておいた。


「で、戸籍といえばさ、」

どうにでもなれという気持ちで、ずっと気になっていた話を持ちかけた。

「ついでに、見る?もう、ぐちゃぐちゃなの。逆に面白くて」

だからつい、何度も眺めてしまうのだ。

「貴女ねぇ。他所の戸籍なんて見ないわよ」

「忠実子さぁん」

「しつこい子ね。なんと言ったって、見ないわよ。」


と言っていたのが五分前。

「ホラー映画を観よう」「絶対観ない」のようなやりとりは、結局「見る」に決まった。

忠実子さんは、じっと戸籍を眺めたまま、綺麗な色の瞳をゆっくり動かしていた。

グレーの縁取りに、緑っぽい瞳孔。ほんの少しだけ白くて長い睫毛。真っ白のベールを纏ったような、触ると柔らかそうな皺のある肌をした忠実子さんは、とても神秘的だ。


「悪い事をしたわ」

「え?」

「いえ。わたくしったら、どうして戸籍なんて見てしまったのかしらね」

「え、忠実子さん?」

「貴女も大変だったのね。そう。でも、そうね、見てよかったのかもしれないわね」

「戸籍を?」

「そう。だってこの戸籍、本当に…」

「ひどい?」

「ひどすぎるわよ。」

二人で吹き出し、大声で笑った。


何がひどいかって、「養子」や「離別」「死別」など、マイナスな単語がズラーっと並びすぎていて、サザエさんの家系図とは対照的に見ていて複雑すぎる。


実父は私と同じく養子だと書いてある。

何故か親近感を覚えた。


「愛凛子の名前は、ご両親のどちらかがつけて下さったの?」

「なんか、有名な占い師さんにつけてもらったらしい。総字画数を最高にしたいっていう母さんのこだわりで」

「なるほどねぇ」

「結局苗字コロコロ変わるなら関係ないのにね」

これは、女性特有の考えだろうか。

「お母様にも貴女と同じ漢字がついてるのね。凛花子って」

「まぁ、それは、嬉しいかもです」

名前の繋がりは、何故か血の繋がりよりも重要視してしまう。何故だろう。上手く説明出来ないけれど、血の繋がりのほうは、ずっと前に諦めてしまったので、せめて名前のほうだけでも!という気持ちからだろうか。


私は今気づいた。こんなにも人との繋がりを欲していたことを。


「わたくしと貴女にも、名前の繋がりはあるわよ」

「えっ、どこ?」

「馬鹿ね。「子」がつくじゃない」

「なにそれ!そんなのずるい。なんなら母さんにもついてるし」

「まぁまぁ。何にしても、繋がりは名前だけじゃないわよ。きっと。」


忠実子さんはそう言って、また編み物を再開した。それっきり、私の話は半分くらいしか聞いてくれなかったし、次の日も、また次の日も同じテンションだった。


試しに、冗談半分で「編み物を教えて」と言ってみたら、かぎ針10本セットをくれた。

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