第3話 大きな紳士
貴婦人は、「忠実子」という名前かもしれない。
クリーム色を存分に塗りたくったレースのかかった古いテーブルの上に、焦げ茶のラタンの鞄と一緒に、病院の領収書らしきものがあった。そこに、「忠実子」と書いてある。この貴婦人にピッタリな名前だと思った。
「忠実子」は、どう読むのだろう。思わず聞き出しそうになったけれど、やめておいた。会話が弾んでいるとつい忘れそうになるけど、私たちは、出会ってまだ数十分しか経っていないのだ。名前を勝手に知っておいて、無邪気にどう読むんですかなんて聞くのは、失礼な行為だ。
そう思ったのも束の間。貴婦人が、そうだわ、と手を合わせた。
リビングの隅の棚に、プリンターがあった。
その横に立てかけてある印刷用のA4用紙を一枚取り出し、たまたまテーブルにあった光沢のあるブラウンの、いかにも高そうな万年筆で、五つの漢字を書き出した。
「鏑木 忠実子」
苗字と名前の間にしっかり空白を挟まれている。私は、難なく彼女の名前を知ることが出来た。
「かぶらきまめこ、と読みます」
細く、長く、龍のような字を書くと思った。
万年筆を受け取り、自分も名前を書く。忠実子さんの字とは対照的に、丸っこくて、ガタガタした文体で。真似をして、空白を挟んでみた。
「英 愛凛子」
「私のは、あなた ありこ、と読みます」
よろしくお願いします、と頭を下げると、忠実子さんは私よりも深々と頭を下げた。
「いい漢字で書くのねぇ。それに、ありこって、とっても綺麗な響き」
「忠実子さん…の名前は、その、びっくりしました」
私の目線が領収書のほうへ向いていたのを察し、忠実子さんはくすくすと笑う。気軽に聞いてくれていいのに、と。
「忠実と書いて、まめ、と読むことかしらね」
びっくりの理由を、最も簡単に知られる。
私は素直に頷く。
だけど、自分の中にはもう一つ理由があった。なんだったかは忘れたけれど、大切なことだったような気がする。
忠実子さんは続けた。
「英と書いて、あなた、と読むのも、珍しいのではないかしら。違って?」
「はい、よく言われます。あっ、でも、地域によっては、よくある苗字みたいです。それでも珍しいと学校の先生に言われたことがあります」
「江戸時代の絵師の、英一蝶と同じ漢字だもの。実際は今より昔のほうがポピュラーな読み方だったのかもしれないわね」
私の名前で話が弾んだのは初めてだった。
英一蝶という画家は知らないけれど、忠実子さんの口から聞くと、大層有名な画家だったのだろうと思えた。画家に詳しそうな忠実子さんなら、一枚くらいは絵画を所持していそうだ。
こうして名前の話から他愛のない話に切り替わる頃、二人で黄色のオンボロ車に乗って、スーパーへ向かった。その間も、適当だけど楽しい話題が続いた。
忠実子さんの車は、私が普段行く近所のスーパーではなく、大型のショッピングモールに着いた。
忠実子さんは足早にカゴを取り、食材コーナーへ向かう。レジに着く頃にはカゴが重くなるのを見越して、ショッピングカートを持っていくと、上品にありがとうと笑ってくれた。
さっきの話だけれど。
と、忠実子さんは続けた。
「初対面の方に、「ねぇ、あなた。」って呼ばれたら、一瞬、敬称なのか、苗字なのか、わからなくなるわよね。」
私たちの出会いの話だと、すぐに分かった。
あの時は、自分が苗字で呼ばれたなんて思わなかったけれど、考えてみれば、忠実子さんの言う通りに解釈出来る名前だったんだ。
「言われてみればそうですけど。今言われるまで、気付かなかったです。「貴女」なんて呼ばれたことがないし」
「それを聞いて安心したわ。知らずに呼んじゃうと、呼び捨てになっちゃうものね」
「意外と呼び方に困る名前だったんですね」
「それに名前って、子供が最初に思いつく最上級のからかいネタだもの。小さい頃、困らなかった?」
全国に何人いるかわからない英さん達は、忠実子さんの言うようにからかわれたのだろうか。
ココアパウダーのかかったどっしりしたチョコブラウニーを見つけると、忠実子さんは躊躇うことなくショッピングカートに放り込んだ。
好きよね?と聞かれたので、二度頷いた。
この人の行動は、すべて思い切りが良いと思った。
「私は運良くからかわれなかったです。小学校の途中で苗字が変わったので」
忠実子さんの目線が私に向けられる。忠実子さんの手にしているポテトチップスは、のり塩味で、私の好きな味だ。
「そう、苦労されたのね」
嬉しいことに、のり塩味はそのままカゴへダイブした。あとはクランキーチョコレートがあれば、たちまち魔法の組み合わせだ。同時に口に含めば、あっという間にたいらげてしまう。
この組み合わせは忠実子さんにも教えよう。だけど、表情が曇り掛けた忠実子さんを見ていると、話題は変え辛い。
「苦労したんでしょうか」
「したわよ。幼い頃の「貴女」は、今よりもっと繊細だったと思うもの」
苗字とは別の「あなた」よ、と吹き出しながら言い直した。
「何故そう思うんです?」
「勘よりも確かなもので、分かるわよ」
「私は、自分が繊細だったのかなんて分からないです」
「幼少期の記憶って、覚えていなくてもいいことを覚えているくせに、肝心なところはすっぽり忘れているのよね」
「うーん、なにかの絵を描いて、ぬいぐるみごっこして、花瓶の小さなお花を摘んでお花屋さんしてたことなら、思い出せるんですけど」
幼い頃は病弱だったので、すべて入院中に一人で遊んでいた。だけど、一人でも楽しかった。絵は看護師さんが褒めてくれるし、ぬいぐるみからは架空の会話を楽しんだし、花瓶のお花は毎日変わるので、色んな花の名前を覚えれた。
あの頃の母さんは、私につきっきりで、いつもベッドの隣で絵本を読んでくれた。
頼むとおままごとのお父さん役をやってくれた。病院に置いてある絵本が気にいると、本屋さんで買ってきてくれた。
些細な会話で思い出せる程度に忘れていたのなら、この記憶は一生忘れないだろう。
「忠実子さんって、一言一言に自信が溢れていて、羨ましい」
忠実子さんには聞こえなかったみたいだった。1メートル離れたところで、焼き鳥の詰め合わせを3パックほどカゴにいれていた。
私の好きな鶏皮串も入っていた。
モールを出た頃は、さすがにもう真っ暗だった。
「そうだわ。愛凛子さん、犬は平気かしら」
平気?平気どころか、
「大好き、です、けど」
だけど、スーパーでたくさん買い出しをした後に、「犬が平気か」という話題を出されたことには、少し疑問があった。
その疑問を解消するために、「犬を飼っているんですか?」と聞くのは当然だと思った。その答えは、
「大正解。だけど、少し不正解」
答え合わせをしないまま、忠実子さんは笑った。
忠実子さんの自宅には、中庭というものが存在していた。聞くとこの家は、上から見下ろした時「ロ」の形をしていて、ちょうど真ん中に広くて良いスペースがあるので、ドッグランとして存在させることにしたらしい。
外観を見た時よりも部屋の間取りが狭いと感じたのは、そのせいだった。
忠実子さんに着いてリビングを抜け、廊下を進むと、左横にガラス窓があるのが見えた。そこは一面の芝生だった。
「大きな紳士たち」と呼ばれた生き物が三匹、こちらに気付くと、瞬時にこちらへ向かってきた。
「ボルゾイだ!」
白黒、白茶、そして真っ白の、成犬になって間もないボルゾイ犬がいた。
「驚いた。貴女、ボルゾイを知っているのね」
「もちろんです。図鑑を見て、何度会いたいと思ったことか…。この長いノズル。小さいけど切れ長で綺麗な瞳。絹のように柔らかい長毛。」
「余程、好きなのね。この子達も、貴女に好かれて嬉しいようね」
忠実子さんの横にそれぞれ、ドラクエのように規則正しく並ぶ。
「左から、アルバ、リオス、ブルンカよ」
「おっしゃれ!」
テンションは爆上がり。お洒落な貴婦人に、お洒落な家に、お洒落な紳士たち。
「夫がね、二年前に引き取った子達なの。でも全く世話をしない人でね。結局わたくしが面倒を見ているの。自分の世話は出来る人だったのだけどねぇ」
この話し方からだと、ご主人は、亡くなったのだろうか。確かにこの家には、一つのテーブルに対して椅子は一つだけ。スリッパも花柄のものが二つあるが、男性向けとは言えない。
忠実子さんは、ご主人の事は愛していたのだろうか。
母さんがあの人を愛したみたいに。
母さんは、あの人が亡くなった時、何年も塞ぎ込んでいた。母さんは、今の忠実子さんのように、いつか明るくなるだろうか。
「ねぇ、わたくしたちのご飯は一旦置いといていいかしら。先にこの子たちに、ご飯をあげなければいけないから」
聞けば紳士たちの「ごはん時間」は30分も遅れているとのことで、紳士たちは忠実子さんの横できちんとおすわりして、よだれを垂らしている。
「私も手伝います」
「あら、いいの?って、愛凛子さんはドッグフードに詳しいのかしら?」
「ドッグフードに詳しいはちょっと違うけど。でも、ずっとわんちゃん飼いたかったから、勉強したんです。だから、それなりに飼育知識はあるほうだと思います」
「助かるわ」
「この子たち、困った事に全員偏食家なの。一番歳下のリオスが一番偏食がひどくて、」
「うーん、まぁ、ずっと同じ味のドッグフードを毎日食べてるのは、私たちが毎日野菜炒めしか食べてないのと同じですもんね。きついのもわかります」
紳士の一匹が、キラキラした瞳を向けてきた。真っ白だから、この子はアルバだ。
「わたくしのせいでもあるの。お高めのドッグフードを買ってもだめだから、時々缶詰を混ぜてたの。おかげですっかりグルメ犬よ。それがいけなかったのかしら」
忠実子さんの買い物姿を思い出し、
「ちょっと、いつものドッグフードを見せてもらってもいいですか?」
と、申し出た。
私は忠実子さんを横に、ドッグフードを三匹分を、それぞれのお皿ではなく、少し深めの小鉢を一つ用意。
ボルゾイは大きいから、小型犬に比べると一食あたりの量は多い。そこへカロリーの高いウェットフードを加えると、一日の摂取カロリーがぐんとあがる。この美しい紳士たちが、若くして肥満化してしまうのは困る。
三匹分のドッグフードの入った小鉢に、少々の水道水をいれる。沸かした後のお湯でも可。その様子を見て、忠実子さんは目をまんまるにしている。
「あの、どういうことかしら。貴女、えっと、何をしているの?まさか、ドッグフードを柔らかくするのかしら?」
水をいれたところでそう解釈するのは決して間違いではない。今頃忠実子さんの脳内では、「固いドッグフードを柔らかくしてあげるのなら、最初から柔らかい缶詰類をあげればいいのでは」などという考えが巡っているだろう。
児童文学やファンタジー、SF作品も好む私に言わせれば、
「いいえ、これは魔法です」
「魔法?」
温めすぎると破裂するので、この量だと、15秒が適当だと思った。
小鉢を電子レンジに入れ、きちんと15秒ほど温める。
アルバが長い顎を私の腕に置いた。私のやっていることが、分かるのだろう。
私は、この中ではアルバが一番賢く、人間の気持ちを正しく理解出来る「紳士」だと思った。
私はアルバに言った。
「そうよ。あなたの考えている通りよ。さぁ、もうすぐ出来るから、おすわり。」
アルバは、しっかりおすわりをした。その間もよだれはだらだら垂れ流していた。その様子を見て、忠実子さんは他の二匹と共にただ呆然としていた。
温め終わったドッグフードをそのままそれぞれのお皿にいれ、三匹の紳士たちの前に置く。
おすわり、は、条件反射だろう、三匹とも既にしていた。それならば次は、
「よし」
の合図で、一斉に食べ始めた。
ブルンカは即完食。
偏食家のリオスは、最初こそゆっくり食べていたが、ブルンカの次に食べ終えた。
アルバは、一番最後に綺麗に食べ終え、私の顔を見て尻尾を振り、笑うようにハァハァと呼吸をしていた。
「どういうことなの?説明して頂戴」
忠実子さんはおかしいくらい、片言になっていた。
「電子レンジでドッグフードを温めて、香りを出したんです」
「香り…たしかにするけれど…」
ドッグフードは温めると、独特の香りがする。ドッグフード無き今も、リビング中にまだ臭いが充満しているくらい、結構臭う。
それが肝だった。
「動物病院ではよくやる手なんですって。食欲のない患者さんには、こうして香りを出すことで食欲を促して、完食してもらう。そうすれば、栄養不足とカロリー過剰摂取を防げるでしょう。という、えっと、まぁ、そういう魔法だったんですよ」
味は同じだから、いずれ飽きはくると思うけど。それは黙っておこう。その時はまた忠実子さんと相談すればいい。
今は一先ず、役に立ててよかった。
「すごいわ…すごいわ!ねぇ、愛凛子さん!あのリオスまで、ペロッとたいらげちゃうなんて…あぁ、紳士たち、良かったわね、良い子。良い子ねぇ」
美しいグレーの瞳から、チラッと滴が見えた。この様子だと、紳士たちの偏食ぶりに相当悩んだのだろう。
ネットで調べるという概念はあったのだろうか。そもそも、携帯やパソコンは所持しているのだろうか。
「嬉しいわ。ごはんを食べてくれるって、一番嬉しいことよ」
忠実子さんは、無邪気に手を合わせて歓喜の笑みを見せた。
「たしかに、忠実子さんを見てると、全然食べなかったんだなぁってわかりました」
「そうよ。だって、わかる?缶詰をドッグフードに混ぜてあげるだけとはいえ、一種の調理よ。れっきとしたお料理なのよ。なのに、作ったごはんを食べてもらえない日は、さすがに落ち込むわよ」
買い物の様子から、忠実子さんが料理をしない人なのは容易に推測出来た。
カゴに入れるのは具材や調味料ではなく、調理済みのものばかり。キッチンにも、調理器具がほとんど無い。まぁ、チョコレートクッキーを夕食に含めた私も偉そうなことは言えないけれど。
そして先程の、ドッグフードに缶詰を入れるという行動を「調理」と言っていた忠実子さんのことだ。
私の推理はほぼ当たっているだろう。
とりあえず、ほんの思いつきと推理で、こんなにも感謝された。素直に嬉しかった。
「あ、さっきの答え合わせだけれど。」
なんのことかわからなかったが、満腹のリオスを一撫でした後、
「大切な家族を、ペットと一括りにしたくなくて、少し意地悪なこと言っちゃったわね」
と、頭を下げ、顔を上げた時の忠実子さんの表情で、理解した。
「犬を「飼っている」っていう表現が、少し苦手なだけなの。ごめんなさいね。」
同じ感性を持った者同士が出会うと、不思議と目頭が熱くなるのだと知った。
広くて大きいオーク色のキッチン棚から出てきたホットケーキミックスで、ホットケーキを焼いた。
牛乳がないので水で。お歳暮で貰ってたくさん余っているという無農薬の高そうな蜂蜜を入れて。一枚焼くたびに、濡れ雑巾でフライパンを冷まして。メープルシロップはかけずに、バター30グラムを一欠片乗せて。
母と食の好みがほとんど違うので、自宅ではよく調理をしていたという話をすると、忠実子さんは、「ホットケーキ」と呟いた。
ケーキはケーキでも、手軽に作れるホットケーキは、私もよく作った。
「買ったはいいけれど、勇気が出なくて、」
三枚重なった、ホクホクと白い湯気がふわりと浮くホットケーキを目の前に、忠実子さんは嬉しそうに笑った。
「ホットケーキに勇気はいらないですよ。代わりに、牛乳あったほうが美味しいです」
「これでもじゅうぶん美味しいわ。ふふ、今日はかなり得したわ」
「でも、今日はこれでお終いです。残りは粗熱をとって冷凍して、翌朝食べましょう」
忠実子さんは、目を大きく開けたまま、「そうね」と、また笑った。
名前の呼び方の他に聞きたいことを思い出した。
忠実子さんは、どこの国の人なんだろう。
異国の見た目をしているのに、どんな横文字の言葉を使っても鈍っていないのが不思議だったが、聞くのはやめた。
それより、ホットケーキが美味しい。いまは忠実子さんが何人かより、ホットケーキだ。
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