第2話 変色する

忠実子さんと出会ったのは、それから数十分ほど経ってからだった。

運命の相手というものは必ずしも異性に限らないと、今なら言える。

忠実子さんは正に運命の人だった。


「貴女。こんなところで危ないわよ」

混濁した意識の中に、自分に対し注意を促す声が入り込む。

身体の横に停車したのは、ボロくて黄色い軽自動車。その運転席から白髪の女性が、エンジン音に負けまいと声を張っている。普段なら、面白い絵面だと笑うかもしれないけれど、涙で汚れた顔面のまま笑うと、きっと不気味に写るだろう。もう、その場に合わない変な思考しか巡らない。だってこんな顔見られたくないし、見られたもんじゃないもの。


「ちょっと貴女、大丈夫なの?」

これだけインパクトのある登場をしたのにも関わらず、彼女の第一印象は、美しい。に尽きた。自分でも吃驚するくらい呑気な感想。

「もし。貴女、聞こえてる?」

美しいかんばせを目の前にするとなると、尚更顔を上げることが出来ない。さすがに狼狽る。

声色からは年配の女性とだけしか認識出来なかった。しかし、横目で探るように視線をずらすと、見たことのないくらい美しい造形の顔立ちの老婦人がいたのだから、それはそれは吃驚仰天。

きっとこの人は女神、いや、すべての神を司る神様に違いない。だからと言って、ギリシャ神話のゼウスのような女たらしではなく。差し詰め、美の神アプロディーテ辺りが妥当。このような美しい老婦人が一体ここで何をしているのだろう。

と思ったところでハッと、そろそろ俯いてばかりでは失礼に値すると気付く。神よ、お許し下さい。にわかクリスチャンの心が、私を現実へ呼び戻す。だって目の前に神様がいるのだ。

例え美しい老婦人が神様でなくとも、幼少期から、「年配には優しく」が染み付いている。

「年配だけでなく、すべての人に優しくなりなさい」

昔そう言った母さんの教えが、ふと脳裏を過った。母さん。


「貴女」

「は、はい…」

「あぁ、よかった。ごめんなさいね、急に呼び止めて。でも気になって声をかけてしまったのよ。だって貴女、こんなところを歩いているんですもの」

「は、はぁ…こんなところ、ですか」

手触りの滑らかそうな淡い無地の緑の着物には、金箔をあしらった深緑の帯が巻きつかれており、絹のようなさらりとした白髪はきっと長いのだろう、白百合の簪でくるくると止められていた。

ここまで情報を集めるのに、5秒もいらなかった。

色合わせが全て絶妙で、思わず目を奪われた。


「とにかく、こんな歩道線も無いような道、貴女のようなお嬢さんが歩いていいところじゃないわ」

怒っているわけではなさそうだが、心配からか声が先程よりも大きく張り上げている。


ここは農道の脇で、田植え中の人でも歩きやすいようにと多少広く作られた道なので、歩道線は無くとも、一応人一人くらいなら余裕を持って歩けるほどのスペースはある。

だけど老婦人の言い分は、「フラフラと歩いていたら、車に轢かれるわよ」だった。


それよりも、気にかかる点がいくつかあった。


このような気品溢れる老婦人が小さくて黄色い軽自動車に乗っているなんて、失礼ながらミスマッチすぎる。失礼だと分かっていても。オブラートに包んでもそう言える。自家用車は何台もあるのに他の車が出払っているのでこのオンボロ(失礼ながら、この失意たっぷりの脳内からは、このような単語しか出てこなかった)に乗るしかなかったのだろうかと想像してしまうくらい。

この方は運転する側ではなく、後部座席で運転手に指示を出す側の人間に思える。そのような老婦人が両手でハンドルを握っているこの光景がおかしくて仕方ない。


今更羞恥心が脳天まで押し寄せてきた。涙でぐしゃぐしゃになった顔を隠すように、更に深く俯く。私は今まで、何に悩んでいたのだろう。思い出せるけど、思い出したくない。羞恥心のおかげでフラッシュバックが襲ってくる心配はなかったけれど、この状況下だと、フラッシュバックのほうがまだマシだと思えてしまうくらい、恥ずかしかった。出来るなら去ってもらいたい。だけど、その美しいかんばせをもう一度じっくり拝みたい。


「御心配をお掛けしまして、申し訳ございません。あ、あの、お気遣いの程有難う御座います」

「丁寧な言葉を並べる前に、わたくしの車に乗りなさい」

「えっ」

不慣れな言葉を並べてみた後に弾丸を打たれては、驚きを隠せるわけもない。

「あら、別に変な意味は無いのよ。ただ、そのままだと貴女、本当に轢かれちゃうんじゃないかと思うと不安なのよ。声をかけてしまった以上、責任をもって貴女を自宅に送り届けたいのよ。私の気持ち、わかって?」


明日のニュースで、自分が声をかけた女子高生の交通事故、もしくは死亡事故記事を知りたくない、という事なら、納得出来る。

このまま私を置いて去った後にそんなニュースが流れてきたら、自分の立場なら後味が悪い。

いや、しかし、綺麗な言葉遣いだなぁ。

でもこれは。本当に、乗車してもいいのだろうか。この一歩は踏み出してもいい一歩なのか、下がるべきなのか、わからなかった。


見た目は穏やかそうな老婦人と言えども、それを装った詐欺師かもしれない。しかも、日本人離れした独特な雰囲気がある。よく見ると、瞳はグレーだった。もしかして、不法滞在者、とか。可能性はあり得た。

その可能性と、黄色いオンボロの軽自動車をくっつけると、完璧で不穏な構図が出来上がる。


無い頭であれこれ考えを張り巡らせたけれど、その場を立ち去る言い訳までは思いつかなかった。


「貴女のその判断は、とても賢いわ。見ず知らずのババァの車になって乗ったら、身代金目当てに人質にされるか、快楽殺人鬼の被害者になるか、人身売買で海外に売られる、なんて可能性があるものね。」


思わず背中がゾワっとするような、なんとも残酷で恐ろしい言葉が並べられた。初対面の人間によくもまぁそんな言葉を発せたものだ。

この美しい老婦人、さてはとんでもないメンタルの持ち主なのではないだろうか。

しかし、快楽殺人がどうのこうのといった内容よりも、この美しい口から「ババァ」なんて低俗な単語が出てくるものだから、ほんの少し吹き出しそうになる。

そのおかげで、なんだか、たくさんのあれこれを、自分の中で完結させてしまえた。


「あの」

「なにかしら?」

「えっと、車、乗ってもよろしいのですか?」

「えっ」

今度は、貴婦人が驚いた。話の流れだと、私が先程の台詞を否定した後、やんわり断られると思ったのだろう。

「すいません。乗りたい理由は、道すがら話します。ここで話すと、長時間停車になりかねませんし、あの、その、そういうところまで、迷惑かけたくないので」

「そ、そうね。さ、お乗りなさい」


私が助手席のドアを開けると、貴婦人は何故かまた驚いた。驚くと、綺麗な顔が少しだけ崩れる。これは面白い発見だ。


ご年配の方と話す機会なんて、祖母であるおばあちゃんや、小さい頃から知ってる近所のおばちゃんとくらいだ。

程よく年を重ねて出会ったご年配の貴婦人とは、何を話していいかわからない。


「で?」

「はい?」

「どの辺りで下ろしたら、貴女はまっすぐ家に帰るかしら」

「は?」

「貴女、絶対帰らないでしょう?どう見ても、衝動的に家を飛び出したという感じだし。かと言って、自宅前に車を停めたとして、降りる降りないの押し問答になったら、ご両親どころかご近所の方々もびっくりされるだろうし」


何も否定出来ないので、あははと呑気に笑った。

帰ってベッドで眠りたいのは確かだけど、母さんのいるあの空間は息が詰まる。

「今頃、母さんの恋人が来ていると思うので、余計帰りたくないんです」

さりげなく「ご両親」を否定した。わざわざ貴婦人が困るような事を言うこともなかろうに。

私はいつも、言葉が二つほど余計なのだ。


「そう。でも、家はそう遠くはないみたいだし、意外とご近所かもしれないわね」

「どうしてわかるんですか?」

「ここまで歩いてきたの、私が車を停めた時間も含めて一時間くらいでしょう?」

「エスパーですか?」

「そうね。エスパーだったら良いわねぇ。でも、なんとなく言ってみただけなのよ。当てずっぽうだったのに、ドンピシャ。」


ドンピシャ。

このお茶目な貴婦人は、見た目と声色だけで、それ以外はまるで少女のようだった。

意外とお喋りで、お花畑をどんどんスキップしてゆく、白髪のアン・シャーリーだった。


少女時代は、どんな人だったのだろう。

何一つ不自由の無い生活を送ってきたような育ちの良さが窺えるけど、見た目で判断してはいけない。白髪のアンも、私のような苦悩を持っていた時代が、あるかもしれない。


「というわけで、私は殺人犯でもエスパーでもないけれど、それでも良ければ、一先ず私の自宅にいらっしゃらない?」

「えっ、えっと」

前者はさすがに困る。だけど、この方が実は殺人犯でした!なので私、若くして殺されちゃいました。という結末になったとしても、まぁいいか。と、またもや呑気に考えていた。

それに自宅以外に安息の地があるならば、そこに縋りたい気持ちでいっぱいだった。

私の中では、この老婦人は、既に安息の地だった。

「よろしいのですか?」

「貴女が良いのなら、喜んで。実はね、久しぶりのお客様で、わたくしもわくわくしているのよ。今時なんて言うの?こういうの。」

「こういうの、とは?」

「女性が集まってお喋りすること」

「女性限定で言うのなら、女子会でしょうか」

「あら!それよ!なんだか更にわくわくしてきちゃったわ。」


「赤毛のアン」のシリーズの、ある一節を思い出した。

この人は、白髪のアン・シャーリーかと思いきや、オールド・ミスのラベンダー夫人だった。

ラベンダー夫人は、使用人と共に静かに暮らす、アンの心の友の一人だった。

ということは、私がアン・シャーリー?


ラベンダー夫人は声こそ弾ませているけれど、うきうきるんるん、な身振りをするわけでもなく、ハンドルを握りながら、うふふと微笑むだけ。なのに、嬉しいんだろうなということは伝わってきた。

今日だけはわたくしも女子ね。と言ったラベンダー夫人は、どこから見ても、ラベンダー夫人のようにとてもキュートな「女の子」だった。


貴婦人の自宅は、(黄色い軽自動車よりは遥かに)立派な建物だった。

モルタルのひんやりとした無機質の長方形の外壁がシンプルで、黒い玄関の真上にはステンドグラスが埋め込まれていた。

庭は無く、家の前に3、4台車が停められるほどの広さの駐車場があった。

建ってから年数を重ねていないように見える。だけど、どこか歴史と趣のあるような佇まいをしていた。

黄色い車を横目に玄関へ向かう。ナンバーは、「00-01」だった。


「狭いけど、あがってちょうだい」

狭いだなんて、とんでもない。確かに、イメージよりも小さい佇まいだった。なんなら、私の自宅とそう変わらない間取りだ。だけど、家具一つ一つが優しい色合いのアンティークや、花柄のものがらたっぷりあった。一瞬で大好きな空間になった。


なにより驚いたのは、この家が、私の自宅から徒歩10分圏内にあったということ。


「大変!」

「わっ、ど、どうしたんですか」

「私、買い物の途中だったものだから、食べるものが何もないのだったわ」

車で出かけていたのは、夕食の買い出しの為だったらしい。よく考えれば察することなど容易いことだったのに、心から申し訳ない気持ちになった。

「すみません、私のせいで、」

「あら、貴女は悪くないのよ。食よりも貴女を優先したのは、わたくしだもの。あ、そうだわ。いまから一緒に買いに出ましょうよ。」

それとも今日は疲れてるかしら。と気遣ってくれたけれど、休息よりも、貴婦人と話をしているほうが、心が温まった。

「ご一緒してもいいのなら、お供します」

「あら、ふふ、嬉しいわ。お菓子たくさん買いましょうね」

「夕食でしたら、お菓子は必要ないのでは」

「大丈夫よ。夕食後に食べるから。もう。貴女は年齢の割にしっかりしてるのねぇ。」


お母様の躾がしっかりしているのかしらね。


一時間ちょっと前に衝突した人の顔も思い出せない。


お菓子を買うなら、是非ともチョコレートクッキーを推薦したい。と思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る