第9話忘れられる権利

 IT企業の若い社長室のような部屋。自販機があるけど。『タカリ屋さん』専用のであろう机にノートパソコンが三台。他にもタブレットやスマホがたくさん置かれたガラスの机と対面に置かれたソファー。


「薫君のためにソファーを用意したんです。座ってください。あ、自販機はお金を入れなくても出てきます。自由に飲んでください」


 そう言って『タカリ屋さん』は赤いコーラを自販機から取り出し、ソファーに腰かけた。僕も『タカリ屋さん』と対面に置かれたソファーに座る。飲み物はこれ以上いらない。聞きたいことは山ほどあった。でも何から聞けばいいかが整理出来ない。


「『物書きさん』に一つ聞きます」


 自分のペースで『タカリ屋さん』が言った。なんだろう。


「『脱がし屋』の中の人が特定されたらどうなると思います?」


 そんなこと想像したこともなかった。けれど想像すればこれしかない。


「多分、ただでは済まない、と言うより」


「そうです。消されます。確実に殺されるでしょう」


 『脱がし屋』は数えきれない人間の人生を破滅させてきた。その人間たちの感情を考えれば当然のことだ。


「でも、今はまだ特定されていないんだろ?もうやめればいいんじゃないかなあ。『脱がし屋』がこれまでしてきたことでネットでの誹謗中傷や『匿名』で悪を行う人間は確実に減った。これは事実だ。それにツイートしなくてもアカウントだけを残しておけば抑止力にもなるし」


「それは『理想論』です。薫君。さっき車の中で飲んだコーラ代を後で払うと言ってましたね」


 別に忘れていたわけじゃなかった。僕は財布から小銭を出そうとした。


「足りませんよ」


「え?」


「あのコーラは百万円です。僕は好きなのをどうぞと言ったのに薫君がお金は払うと言ったんです」


「いや、ちょっと待って。確かに僕はそう言ったけど百万円のコーラなんてぼったくりにもほどがある。そんなことはこの国が許さないだろう」


「そうなんですか?」


 僕は言葉に詰まる。法律なんか詳しくもないどころか全然知らない。


「『脱がし屋』の中の人は僕の兄です」


 げっぷをしながらとんでもないことを『タカリ屋さん』は言った。パラドックス的な?


「ダミー的な表現かなあ」


「『物書きさん』。今の言葉は聞きたくなかったです」


 僕は軽はずみな一言に猛省した。年下の僕に対して真摯に向き合っている『タカリ屋さん』に僕は不誠実すぎることを言ってしまった。


「ごめん…。悪かったよ」


 僕は頭の中で百万円を何とか用意しないといけないというリアルを感じていた。


「兄は遠く離れたところにいます。また、簡単に連絡はとれません。電話にも出ません。兄はひどい鬱なんです。連絡を取るにもまずメールをし、返事を待ちます。いついつの何時ぐらいになら電話に出れるとか、電話することが出来ると。電話恐怖症みたいなものです。『脱がし屋』のからくりは僕が『情報』を集め、ツイート寸前までのお膳立てをします。そしてツイートボタンを兄が押します。僕にはそのボタンを押す勇気がありません。兄はそれが出来るんです」


 一回ではすんなり理解出来ないので僕は頭の中で整理してみる。


「それはアカウントを共有していることでは?『タカリ屋さん』も中の人の一人になるんじゃない?」


「いえ、共有とはまた違います。役割分担です。僕がいてもいなくても『脱がし屋』は存在出来ます。ただ、兄がいないと『脱がし屋』はツイート出来ません。なので『脱がし屋の中の人』は兄なんです。これは決して僕が危険から避けたいからではありません」


「うん。分かる」


「ありがとうございます。そしてさっきの百万円です。子供でも理屈は分かります。そんなお金は払う必要がないと。でもこの国はルールで成り立っています。世界中の多くの国がそうでしょう。この国にも法律があります。そして弁護士もいます。弁護士はそれぞれ法律の解釈を自分なりの『正しさ』として主張し合い、それを裁判所が、裁判官がジャッジします。でも、そんな子供でも分かる理屈の結論を出すのに長い時間とお金を使うのが現実です。『忘れられる権利』を知ってますか?」

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