X2

 周囲を渦巻いていた炎が引いていく。

 灰色の焔に侵されていた大地は軒並み焼き尽くされたとはいえ、次第に本来の色彩を取り戻していった。

 俺は少し先で倒れ伏している奴に目を向けて、音もなく息をつく。喜ぶ元気も何も残っていなかった。ただこれでどうにかなったという気持ちだけが地面に崩れ込むのを押し止めていた。

 そう、なんとか立っていたのだが……それは思い切り吹き飛ばされて顔面を地面に叩きつけるまでだった。

「っしゃあ見たかクソルナードっ! 私達にケンカを売るなんてユニコーンの角が生え変わるより早いんですよ!! あっはっはーー!!」

「……つくも、お前なぁ」

 地面とのキスを剥がして顔を上げると、そこにはドロップキックから華麗な着地を見せていたつくもがいた。

「俺への労りとか感謝とかないわけか……?」

「え? じゃあ特別に頑張ったで賞をあげましょーう!」

 すっかりいつも通りの元気を取り戻した彼女に落胆すればいいのか安心すればいいのか、俺は複雑な心境で一緒に戻ってきていたリストに助け起こされた。

「まぁそうむくれてやんな。あいつもさっきまではお前が心配で泣きそうになってたんだ。照れ隠しだと思ってやれ」

「それを態度で表して欲しいもんだよ……」

 それでも、心底嬉しそうなつくものクシャッとした笑顔と、やれやれといった仕方なさそうなリストの顔を交互に見ていると、ようやく満足感が沸いてくるのであった。

 リストは俺の背中をはたくと、親指で町の方を指した。

「鞭打つようで悪いけどな、さっさとエルフェリータに帰るぞ。奴の刺客とやらをどうにかしないといけないからな」

「そうか、まだそれがあったな……」

 面倒な事この上ないが、さすがに魔王より手に負えないということはないだろう。ヴォルナードからの合図はないから暴れていることはないだろうが、危険なことには変わりない。だが、俺達が行動を起こす前に、もう一人声をかけなければならない人物が残っている。すぐ近くまでやってきていた彼女に声をかける。

「マリナ、助かったよ。ありがとうな。お前の助けなしじゃ……マリナ?」

 けれど、彼女は俺の言葉を聞いていないようだった。その目は未だに毅然として如才なく周囲を窺っていた。

「どうした……? マリナも一緒に町に……」

「いえ……まだです」

 俺がそれを問い質す前に、その異常は起こった。

 彼女の戯式フォーマーで生まれていた三頭犬が唸りをあげる。しかしそれが何かをする前に、僅かな苦痛の声をあげ地面に沈んでいった。いや沈んだのではない、それは茨に戻る暇もなく、融解したのだ。

 それに周囲の温度がジリジリと上がってきていた。それは一度気付いてしまえば顕著になり、気付けば呼吸も苦しいほどになり、一帯の風景が蜃気楼のように揺らぎ始める。

 それらの中心となっている場所は疑うべくもない。奴が、倒れている場所だ。

 俺らがそれに目を向けると、ゆっくりと視界が捻じれていった。違う、奴の周囲の地面が動き始めていたのだ。大地が真っ赤に溶融し、溶岩のように流れ始めていた。

 そこに浮かんでいる魔王は、ヴォルナードは、乾いた笑いをあげていた。

「カ、カカ……カハ、カハハ……ッ。……この、オレが……人間ごときとの決闘にも勝てず……あげくに……一発喰らっただと……? このオレが……オレが?」

 奴は何も見ていないようだった。開かれたままの目は宙の何もない一点に向けられている。彼を取り巻く溶岩が加速度的に大地を飲み込んでいく。

「もう、いらねェ……エルフェリータも……何もかも……ッ!! 許、さねェ……遊びは……終わりだァ……!! 皆殺しに……町も、クズどもも……何もかも焼き尽くしてやる……ッッ!!」

 奴が立ち上がった。その異形の顔面の血管が飛び出さんほどに浮き上がり、その目は血走ってもはや何も映してはいなかった。

「……なぁ央真、アイツぶちギレちゃってるみたいだけど、ここから先の作戦もあるんだよな?」

 リストの視線から目を逸らす。

「すまん、ない」

「……お前言ったじゃないか! 『何とかなるかもしれない』って!?」

「いや、一発叩き込めば反省して帰ってくれるかなーって……」

「なんですかそれ! 私の作戦よりよっぽど酷いじゃないですかっ!」

「五分五分どころか十割全滅一直線じゃねえか、央真おい!」

「うるせぇ! 拳で語り合ったらダチになるのが少年漫画の鉄則だろ!?」

「やだやだ! いい歳して漫画なんかに影響されちゃって!!」

「影響されまくりの漫画コレクターのお前に言われたくないわ!!」

「あー、あー、聞こえない聞こえない! ヴォルナード様ー、この人間クソルナードとか言ってましたよー」

「ヴォルナード様ー、喫茶フィフィの割引券いりませんかー」

「くっそお前らァ!!」

 だが手のひらを返した彼らの懐柔も奴の耳には届いていないようだった。奴は荒い呼吸だけを繰り返しながら着実に俺らの方に向かってくる。その猛禽類のような脚の元はどんなものでさえ溶けて蒸発していく。

 さすがに命運尽きたか。もはや打てる手は残っていない。こうも激高されてしまえばどんな策も意味をなさないだろう。これ以上の苦しみが結末だということは残念だが、無意味でも全力で抵抗をするしかない。

 だが、状況はまだ展開を残していた。それは俺達も、魔女も、奴ですらも想像していなかった方向に。

 突如、周囲の色が鮮明になった。眩い光がその一帯を照らしていたのだ。全員が同じタイミングで上を見上げる。そこにあったのは亀裂だ。夜を引き裂いて歪な割れ目が空に広がっていた。光はそこから漏れ出していた。

 その光が僅かに陰る。そして誰も予期せぬ瞬間に、地面が振動した。大地が、体が、その場所一帯が揺れている。いや、違う。一拍遅れてそれが音の振動だということに気付く。

この轟きは、だ。

「――GYYYYYYYYYYYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!」

 その叫びは立っていることを許さなかった。俺達は全員地面に叩き伏せられ、ヴォルナードさえも膝を折りかけていた。

 そしてその亀裂から、咆哮の主が姿を見せ始めた。空の裂け目を押し広げるように、巨岩で掘られた拳のような何かが伸びてきていた。それが上下に割れ、その奥の深い開口を見て、それの正体があぎとだと把握する。

 そいつが荒々しい頭を、丘のように巨大な胴を、鋭利な岩盤を備えた四つの脚を、大木のようなその尾を顕現し、最後に無数の岩が砕けるような音とともに結晶状の巨大な羽を広げ、その全貌を標した。

 その姿は見るものに畏怖を与え、全身を刺す重圧を放っていた。ヴォルナードが放っていた物ともまた違う、人を屈服させる偉大な圧だ。それは人とは全く異なる種に抱く仰望、憧憬。生物として道を違えてもそれを完成せしめた者への崇拝。それは人間の俺でさえもわかる、例えいないと信じ切っていた者でもわかる偉大な存在。

 ドラゴンだ。

 そいつはゆっくりと空から降りてきて、唸り声をあげながらその四肢で大地を踏みしめた。その鋭い爪が地面に深く突き刺さる。岩のような瞼が開かれ、その下のギョロついた瞳で周囲を見定める。

 初めて本物の竜を目の当たりにしたというものの、俺には感動に近い感情は全くと言っていいほど沸いては来なかった。それどころか、その狂暴さを敷き詰めた存在がこの場に現れなかったことにして欲しいと切望するばかりだ。見境なくなった魔王に、今度は竜だって? これ以上状況を過酷にしてどうしろというのだ。

 だが、俺が絶望にも似た感情を抱いていた時に、その全くの逆の感情を爆発させた者がいた。彼女は、歓喜の叫びをあげながら、その暴虐な姿の竜に向かって駆け出したのだ。そう、つくもだ。

「……~~~~っっっ!! エルフェリアス!! 来てくれたんですね!!」

 そして驚くべきことに、その竜はつくもに向かって頭を下げたのだ。そして低く響くような声で何度か呻くように笑った。

『よくここまで耐えてくれた、つくも。あとは任せるがいい』

 俺の横で膝をついていたリストも、安堵のため息を長々とつくと、飛び上がるように立ち上がった。

「行くぞ、央真。これで助かった」

「何が……あれは、あの竜は……!?」

 振り返ったつくもが嬉しそうにその竜の脚を撫でた。

「彼はエルフェリアス。エルフェリータの魔王ですよ」

 エルフェリータの魔王、って……。

「えっ!? じゃああの町を仕切ってるのって……ドラゴン!?」

「はいっ。前にすっごく大きいですよ、って言ったじゃないですか」

 あれはつくもの誇張表現じゃなかったのか。まさか本当に小山のごとく大きいとは。というか人の姿もなしていなかったとは、完全に予想外だった。

 彼は、エルフェリータの魔王は俺達を一通り眺めると、その視線を奴に向けた。

『どうやら、私の町を随分好き勝手にしてくれたようじゃないか』

「エルフェリアス……!!」

 ヴォルナードの足元は未だ溶岩が渦巻いていたが、その目には少なくとも理性が戻っていた。

「テメェ……今は界層を潜ってんじゃなかったのかァ……!?」

『あぁ。だが、心優しいお嬢さんが私をここまで運んできてくれてね』

 そう言うと竜の脇に小さな亀裂が入り、そこから人影が飛び出してきた。その少女は俺を見つけると、嬉しそうに駆け寄ってきた。

「久しぶり……央真にぃ」

「リッカ!!」

 俺達三人は同時にその名を叫び、その銀色の髪を持つ小さな少女の登場に驚き喜んだ。リッカは俺達がある試練を受けていた中で仲良くなった少女だ。彼女は注目されたのが予想外だったのか、目深にフードを被って顔を隠してはにかんだ。俺はその下に声をかける。

「どうしてリッカがここに……」

「えっと、わたしの部屋に……お母さんから、連絡が……あった。央真にぃが……ピンチだから……助けて、あげて……って」

 リッカの母親……閻魔大王だ。魔界にはそれが日常、だなんてあんなことを言っておきながら、ちゃっかりと助けの手を用意しておいてくれていたのだ。

『さて、これ以上町の周りを荒らされるのもなんだ。そろそろ手打ちにしようじゃないか』

「手打ちだァ?」

 奴の目が鋭くなり、口の端から黒い火花が零れる。

「ふざけてんじゃァねェぞ。このオレがコケにされたまま帰るっつうのかァ?」

『ならば、私と手合わせをすると?』

「イキがってんじゃねェぞ、亜竜が……!!」

『確かに私は純血ではない。だが、原種の竜の血を引くことの意味がわからぬほど君も愚かではないだろう。焔竜の子よ……!!』

 彼らの圧が正面から衝突した。大気が振動し、彼ら以外は地に伏せて耐え忍ぶことしかできなかった。周囲の地面から轟炎が噴き出し、竜の唸りがそれを退けていた。頭が割れそうなほどのその重圧に吐き気を催し、ともすれば気を失いそうになる。二人の魔王はその場を一歩も動くことなく、相手の実力を測っていた。

 俺達の体が耐えきれる限界まで達しようとした時、それは突然に終わりを見せた。周囲を覆っていた圧力が静まっていき、世界にささやかな夜風が流れ始める。

「……チッ、確かに亜竜相手じゃ分が悪ィか。殺せなかねェが、今はレートがイマイチだ。どうせ竜を殺すんなら相応なモン賭けねぇと割に合わねェなァ、カハハッ」

 奴はさっきまでが嘘のように肩の力を抜くと、ヘラヘラと笑い声をあげ始めた。足元が凝固していき、周囲の温度が元に戻っていく。その姿も人とほぼ変わらぬ姿に返っていた。ヴォルナードはその視線を俺に向ける。

「おい、人間。テメェのその顔はよォく覚えたぜ。まだ魔界を甘く見てるようだが、次はそううまくはいかねェからなァ。テメェが町を一歩出た時から苦痛が背後に迫っていることを忘れんなァ! それまで精々クズどもとつるんでろォ」

 奴は手のひらを上げた。まさか手でも振ってくれるのかと思いきや、隠し持った鋭利な岩が俺の顔面目掛けて打ち出された。

 だがそれは俺に届く前に地面から這い出した茨に叩き落とされる。マリナの毅然とした視線に悔しがることもなく、ただ高笑いを響かせて、焔獄魔王は去っていった。

 そしてその背中が見えなくなって、ようやく俺は深く息をつけたのだった。

「……そうだ! エルフェリアス! 今町にアイツの刺客が……」

 思い出したように慌てるつくもの様子に彼は動じることなく彼女をなだめた。

『心配しなくていい。すでにあの子の戯式フォーマーで先に信頼できる者を何人か町に送り込んでもらっている。どうにか状況を治めているはずだよ』

「それじゃあ今度こそ……本当に……」

『あぁ、一段落のようだね』

 俺達は三人で顔を見合わせると、

「終わ……ったぁぁーーーーーーー!!」

 叫びをあげて背中からばったりと倒れ込んだ。示し合わせたわけでもなく、同じタイミングで。張りつめ続けていた緊張の糸もぷっつりと切れ体力ももう底を突いていた。その様子を見てエルフェリータの魔王は楽しそうに体を揺すった。それが笑っているのだと気付くのには少し時間がかかった。

『どうやら君達は随分と大変な目にあったようだね。助けに来ておいてなんだが、私も詳しい事情は知らないのだ。よければ聞かせてくれないかい?』

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