10.2

 俺は足を止めた。いや、歩いていたことに気付いたと言った方が正しいかもしれない。

 どうして歩いているのか。どこに向かっているのか。それを認識することなくずっと足が動いていたのだ。それに気付いたことで、足はゆったりと歩みを止める。

 不意に、目の前に黒猫が現れた。そいつは俺のことを一瞥すると小さく鳴き声をあげて、さっさと通り過ぎていった。その光景に強い違和感と既視感を覚える。

 黒猫なんてどこにでもいるのに。なんで違和感なんて覚えるのか。どこにでもいる、よく見るただの猫。それに違和感を覚える理由。それは普通の猫を久々に見たからだった。魔界には普通の猫なんていなかったから。

 そのことに考えが至ると、記憶が奔流のように戻ってきた。今さらのように慌てて周りを見渡す。そこには歩く看板も話すレンガ壁もない。ただただ普通の民家と塀に仕切られた路地だった。

 なら、既視感はなんだというのか。俺は振り返って黒猫の尻尾を目で追う。それから周囲を見渡し、そして確信した。

「ここは……この場所は……」

 間違いない。あの日だ。全ての発端になったあの日、今は俺が殺される時間の少し前のあの時なのだ。

 そうか、俺は本当に生き返ったのか。

 閻魔大王は確かに約束を守ってくれたのだ。約束……。俺は近くにあったカーブミラーに駆け寄ってそこに映る自分を睨んでみる。だが何も変わったようには見えない。

 何か変わっている予兆がないかとポケットの中を探ると携帯を探り当てた。懐かしみながらも取り出してみるとメッセージの届いていることを知らせていた。

『今日は遅くなるの?  母』

 そのたった一行で不思議な感傷が訪れる。今まで親からそんな簡単な質問でもかけてもらったことはなかったのだ。確かに僅かでも現実が改変されていっているらしい。

 そうか。これで、終わりか。

 長かった異世界の旅も目的を無事達成し、当初の目標よりも大きな成果を手にして、俺は帰ってきた。俺にとってはまごうことなきハッピーエンドだ。これでもう、俺は苦しむことはない。

『……おい、テメェ最近調子乗ってんじゃねぇのか? あ?』

『調子に乗ってようがなかろうが君達には関係ないだろ……』

 少し先の路地裏から言い争うような声が聞こえてくる。これもあの日と同じなんだ。ここまでは同じ。

 あの時はこの道を引き返して、刺された。今度はこのままその路地を無視して通り過ぎればいいのだ。あの不良と、それに絡まれている青年を無視して。そうすれば俺はそいつらと鉢合わせすることなく、ようやく幸せな日常に辿り着くのだ。

 幸せな日常。普通に友達を作り、笑い、遊ぶ、夢見ていた日常。俺の居場所を作るという夢。

 そう、この道を通り過ぎれば。俺はそうして一歩を踏み出し――


「おい、馬鹿ども。魔界でもねーのに強さひけらかして威張ってんじゃねーよ」


 その路地裏へと踏み込んだ。

 青年を囲む不良たちへ向かって歩いていく。あの時、獄魔王に立ち向かっていった時と同じように大きな歩幅で。

 そいつらは俺がすぐ後ろに辿り着く頃ようやく振り返った。

「んだと、テメ、ぇ……」

 そして二人とも俺の顔を見て凍り付いた。そうだよな。自慢じゃないが、ちょっとばかし顔の恐さには自信があるんだよ。

 そして俺はその不良の片方の頭を思い切り鷲掴みにした。

「聞こえなかったのか、あぁ!? カツアゲなんてする馬鹿の頭を握りつぶしてやるっつってんだよッ!!」

「あ、あぁあ……あああぁぁぁぁぁァァァァァァァッッッッ!!」

 そいつは絶叫をあげ始めた。まるで恐怖の魔王を目の前にしたように。そして――

 俺は全身に凍るような衝撃が走るのを感じた。

(痛みには慣れたと思ってたんだけどなぁ……)

 俺が横を見ると、まるで自分が刺されたかのように全身を震えさせるもう片方の不良がいた。そうだ、お前ならそうすると思ったよ。その手に握られている物は、見るまでもない。

「や、やめろ……俺のダチから……」

 聞き取れたのはそこまでだった。だがそれで十分だった。意識が、暗い泉に飲まれていく。

 あぁ、そうだよな。お前みたいな三下にだってできることなんだ……。

 俺、だって……。

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