9.4

「くそッ!」

 悪態をつきながら自分の足を殴りつける。強張った足を引きずりながら今やってきた方へ戻り始める。距離を、距離を取らなければ。

 炎はジリジリと着実に迫って来る。今や黒煙すらも立ち込め視界を奪う。熱波のせいで満足に呼吸もできない。眼球の水分は奪われ、肺が焼ける。俺の進む速度はどうとったって速いとは言えない。けれどヴォルナードは決して一気に距離を縮めようとはしなかった。俺が進む先を少しずつ狭めるように火を放っていくだけなのだ。俺の体はじわじわと焼かれ、体中の激痛に歩みは既に止まりかけている。なのにあの男は追いつきはしない。ただただ炎の向こうから俺を眺めているだけだ。アイツに、遊ばれている。

 炎が爆ぜる音に混じってアイツの哄笑が響き渡る。周囲には黒煙と立ち上る火柱が溢れかえり視界を覆っていた。呼吸が、逃げ道が、行動が、思考が、段々と奪われていく。その代わりに今にも炎の中からヴォルナードが現れるのではないかという恐怖だけが全身を満たしていく。その恐怖は炎の前に膨れ上がり、そして爆発した。

「あ、あぁ…………ああああああァァァッッ!!」

 俺は我を忘れて炎を掻きむしるように遮二無二に駆け出した。このままでは、焼き殺される。助けてくれ。今何時間経ったんだ。もう試練は終わりじゃないのか。助けて、くれ。炎の、炎の先へ。せめて、新鮮な空気を。

 だがそれすらもあいつの手の内だった。ついに体を動かすだけの酸素を使い果たし膝が崩れた時には、周囲全てを厚い炎の壁で囲まれていた。

「カハハハハッ!! ここに住む魔獣の気持ちも考えてやれよ。テメェが逃げ回るせいで森がなくなっちまうぞォ!!」

「あ……グ……」

 炎の黒衣を纏ったヴォルナードがその姿を現す。その魔王の威圧感を前にして俺の歯はガタガタと音を立て始める。

「昨日の威勢はどうしたァ? 決闘を挑んで来たのはテメェだぜ。まぁ人間にはその怯えた表情の方がお似合いだがなァ!」

 ヴォルナードが地面に落ちていた石を手に取った。

「最初にテメェに当てた攻撃の種明かしをしてやるよ。こうやって手に持った石と手の間の空気を一気に燃焼させる。そうすると爆発の反動で……こうだ」

 爆発音と共に石が空へと打ち上げられる。

「これの面白いところは応用が効くってところだ。石を打ち出す事ができれば足下で爆発させて空を飛ぶ事もできる。他には……人間を飛ばしたりなァ!!」

 拳が俺の腹を抉った。炎の波紋が広がるとともに異様な感覚が全身を駆け巡る。

 俺は空中にいた。吐き出した血が宙に浮かぶ。ようやく新鮮な空気にありつけたというのに、吸うことができない。俺は全身をくの字に曲げ、自分の腹を穴が貫通しているのを見た。呼吸が、できない。

「遠くまでよォく見えるじゃねェかァ。空を飛ぶのは初めてかァ? だったら着地の仕方も教えてやらねぇとなァ!!」

 一瞬で俺の元まで飛んで来た奴の、振り上げた拳がかろうじて見えた。にやけるように王石に指を押し付けるその顔も。そして爆炎が俺の全身の皮膚を破る。

 俺の体は地面に何度も撥ねつけられ、くたびれた人形のように意思を持たず落ちて丸まった。全身の皮膚がブスブスと燻る臭いが不快だった。

 遠くから俺を呼ぶ声が聞こえる。あれはつくもの声、か。だが、それに反応する力は残っていなかった。あれほど森の奥まで逃げていったというのに、たった一撃で元の地点まで戻されてしまったのだ。

 視界の端に松明が見えた。その頭は揺らめく炎の中で残り僅かになっていた。

(あと少し……とはいえ、さすがに無謀だったのかな……)

 人間が魔王に挑む愚かさというのをようやく痛感していた。これじゃあ決闘なんてとても呼べやしない。ただ玩具おもちゃにされて好き勝手されてるだけじゃないか。

 火花の散る音に紛れて、森の奥から足音が聞こえてくる。俺はもうそれだけでどうしようもなく恐怖してしまう。体は震えあがろうとしているのに、全身は痛めつけられ、今や僅かに筋肉を硬直させるくらいしかできない。

 指輪が脈動し肉体の構築を進めていたが、俺にできたのはアイツが俺の前まで来た時に顔を上げて睨むことぐらいだった。

「よォ……いい焼き具合じゃねぇかァ」

「焼き過ぎ……なん、だよ……素材の旨味を殺しちまう、ぜ……」

 俺の軽口はアイツに頭を踏みつけられるまでだった。俺は悪態を吐きながら土を噛みしめることしかできなくなった。

「まいったな……まさかこうも、手も足も出ないとは……」

「指一本でも出ると思ってたのかァ。大層ご機嫌な頭をしてんなァ、人間」

 奴の脚に蹴り転がされ、俺は空を見上げさせられる。口から泥と血が流れ出す。ヴォルナードはそれを満足げに見下ろしていた。

「ご機嫌な頭も見物だが、体の方も中々じゃねェか。人間ってのはこんな風に骨を砕かれてもなんともないとは知らなかったぜェ!!」

「が、あああああああああぁぁッッ!!」

 奴の踵が俺の左腕を叩き潰した。それはもはや僅かな皮膚と肉だけで繋がっているだけとなる。

「俺の拳を喰らっても、こんだけ痛めつけても死なねェってのは不思議だよなァ。テメェもそう思うだろ? なァ」

 俺の全身が燃え上がった。叫びをあげる口の中にまで炎が押し入ってくる。黒炎が肉体を侵食していき、じわじわと俺を生き物としての姿から遠ざけていく。頭の中には自らの絶叫と眩い閃光が駆け巡っている。その魔王の戯式フォーマーは俺という人格をも焼き尽くしていき、終わることのない死の衝撃のみが俺を形作っていた。

 その拷問は永遠に続くかと思われた。もはや開け放たれた口は声を出すこともなく、黒く焦げた骨を剥き出しにする指一本すら動かすことすらできず、ただただ俺は苦痛と絶望に身を委ねていた。

 不意にその苦痛が和らいだ。いや、もうすでに炎は消えていたが、苦痛を緩和できるまで肉体が戻るのに時間がかかっていただけであった。俺は空気を久しぶりに口にすることとなる。

「小休憩だ。悲鳴も聞けねェんじゃ、楽しくねェ」

 奴は地面に立った松明を一瞥すると、俺に顔を近づけた。その剥きだされた鋭い歯が開かれる。

「ちょいと遊びすぎちまったかァ? 約束の時間までもうそれほど残ってねェ。そろそろ終いにしようじゃねェか……なァ?」

 もうこれ以上あの苦痛を味わいたくはない。もう、いいんじゃないだろうか。これ以上苦しむくらいなら、死んだ方が幸せだ。俺の中に死の救いを求める声が首をもたげた。

 だが、見上げたままの空に、三つの月が見えた。それはすでにその輪郭を交え始めている。俺は力を振り絞って、首を動かした。遠くから駆け寄って来ようとするつくもの、リストの姿が見える。そうだ。あともう少しなんだ。あの松明が燃え尽きるまで、その時間だけでも耐えれば、俺は生き返れるのだ。あと、もう、少しだけ。

「殺せる、もんなら……殺して……みろよ……」

 俺の口から出てきたのは命乞いではなく強がりだった。その啖呵を聞くとヴォルナードは声をあげて笑った。俺の頭上の奴の目は、やはり笑ってなどいない。

「ハッ!! おいおい、それが獄魔王に向かって言う言葉かよ。この俺が、人間ごときとの決闘に勝てないと?」

「あぁ、お前に……俺は、殺せない……」

 だがそれを聞いても奴は笑いを止めなかった。ひとしきり笑ったあと、まるで火を消したように表情を消し、その大地の裂け目のような瞳孔で俺を射抜いた。

「ちげェなァ。お前はなァんもわかっちゃいねェ。俺にはお前が殺せねぇんじゃねェ。『今のお前が』殺せないだけだ。殺せないなら、殺せるようにするまでだ。どういうことかわかってんだろ? なァ? ……オレは、っつってんだよ」

「な、ん……!?」

 呼吸が止まった。何故、何故奴が指輪のことまで知っている。

「おいおい、驚いたような顔してんじゃねェよ。決闘である以上勝利条件をきちんと把握しておくのは鉄則だぜ? ……人間界に逃げようったってそうはいかねェぞ、人間」

 今度こそ俺はうめき声一つ出せなかった。奴は、何故全てを知っているんだ。

 その時、森の茂みから飛び出す人影があった。

「央真様……!!」

 彼女は俺の姿を見て足を止めた。俺は声を振り絞って警告する。

「来るな……!! 何かが変だ……逃げろ……!!」

 だが、彼女は足早にやってくる。懸命に止める俺をヴォルナードは一発の蹴りで黙らせた。

「おい、来るなじゃねェだろ? オレが直々に招待したんだからよォ……」

「招待……一体何を……?」

 ヴォルナードは満足げに彼女を舐めるように眺めた。

「よォ、ようやく来たかァ、魔女…………いや、人間討伐の首謀者さんよォ!」

 彼女は、マリナは、初めて決闘を挑んできたあの時のように、ただひたすらに冷たい目をしていた。

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