8.11

 俺がいることすら忘れたように、沈黙が部屋を支配する。閉じられた一室、人間の俺だけがそこにいる。その部屋の中は魔界と人間界の境界が曖昧に感じられた。元の世界にいた頃の自分の部屋を思い出す。過ごし慣れた部屋。毎朝起き、そこで眠りについた部屋。もうあの部屋に戻る事はないのだろうか。

 部屋に置かれた机に手を触れる。似ても似つかない俺の部屋の机には、高校の学生鞄が置いてあるはずだ。

 それは俺が毎日大勢の元へと向かう時に持っていた物だ。ただひたすらに恐怖されるだけの孤独な高校生活。学校に向かうのも、帰るのも、その鞄以外に共にするものはなかった。

 それでも初めの一年くらいは、少なくともそこに希望を詰めていた。毎日、今日こそは友人を作ろうと、それが無理でも誰かと会話しようと、それすら無理でもせめて挨拶ぐらいはしてみようと、そう考えながら持ち歩いた鞄だ。けれど結局は声をかけただけで逃げられることがほとんどだった。

 今日は駄目だった。今日も駄目だった。いつしか鞄の中には味気の無い教科書だけが詰め込まれていた。

 それでももう諦めはついていた。小さな痛みに耐えさえしていれば、身の丈に合わない幸福さえ求めなければ、大きな苦痛だってなかったんだ。もしあの時、不良に殺されずにすんでいたら同じような日々を繰り返しただろう。もし生き返れたら、こんな耐えがたい大きな苦痛を味わうこともなく、また生き続けただろう。

 でも。

 でも、それに意味などあるのだろうか。

 結局魔界の苦痛から逃げたって、また人間界では疎まれるだけなのだ。生き返ったとしても、恐怖されるだけの、人から嫌われるだけの毎日なんだ。それだったら試練を諦めて、魔界に留まったらどうだろう。

 あの魔王から逃げ回って、どこかでひっそりと一人で暮らすのだ。けれどそうしたら、この町の人達には、つくもやリスト達には迷惑がかかる。ますます町は荒らされて、人々は苦しむ。

 なんだ。俺はどこにいたって人を苦しめるんじゃないか。だったら指輪なんか投げ捨てて、すぐにパッと殺されちまうか。そして今度は正真正銘の地獄行き。そこでまた苦しんで……。

 あぁ、もう疲れた。

 なんで俺の前には苦しむ道しかないのだろう。

 俺がいない方が、世界はうまく回るのかもしれない。


 俺には、顔面魔王には、どこにも居場所なんてないのかもしれない。


 ドアが静かに開く。つくもが盆を持って立っていた。

「央真さんご飯持って来ました。ティアさん特製のグリノールド草のスープですよ! これ私好きなんですよねー」

 彼女の横顔を眺めながら、俺は自分でも気付かないうちに口を開いていた。

「つくも。俺、王石の解放はやめるよ」

 彼女はそれを聞くと僅かに佇んで、それから机の上に盆を置いた。

「……まだ時間はありますよ?」

「もう間に合わないよ。明後日には三つの月が重なる」

「まだ三日もあるじゃないですかっ。方法だってきっとあります」

「ないよ。もう全部考えたじゃないか。それでも出なかったんだ」

「人間界に戻れなかったらあいつに殺されちゃうかもしれないんですよ」

「それでいいよ。どうせ元々死んでるんだ」

 彼女は言葉に感情を宿らせなかった。ただ静かに問いかけを続けた。

「……やめちゃうんですか」

「あぁ」

「ずっとその為に頑張って来たんじゃないんですか」

「あぁ」

「もういいんですか」

「あぁ」

「諦めるんですか」

 俺は俯いて黙っていた。

 突然、頭に痛みが走った。熱い液体が顔を伝っていく感触でスープ皿を投げつけられたのだとわかった。

「所詮央真さんはその程度だったってことなんですね。その目、私が一番嫌いな目です。人間なんてその程度ですか……はっ、本当にガッカリですよ!」

「……んだよ」

 額を走る痛みと熱さで目が滲んだ。俺は気付けば立ち上がっていた。自分の口から怒声が飛び出していくのを、まるで他人事のように聞いていた。

「なんだよ! じゃあどうすりゃいいんだよ! もう手なんてないじゃねぇか!! 俺のせいでこの家は滅茶苦茶になるし、町は荒らされていくし、他の人が危険に晒されていく! でも試練は受けられないし時間もない! 何ができるってんだよ!!」

「何もできなかったら諦めるんですか!? 人間界に生き返りたいって言ってたじゃないですか! それを諦めるんですか!?」

「諦めたくなんかなかねぇよ! でももう無理なんだよ! 元の世界じゃ顔面魔王だ何だって恐れられて! 魔界に来たら人間だって蔑まれて! 結局生き返ったって……。俺の……俺の居場所なんかどこにもないじゃねぇかッ……!!」

 俺の声が消えると、部屋には深い沈黙の帳が下りた。まるで二人とも初めから何も話していなかったように。

「…………ついて来てください」

 つくもは俺の腕を掴んでそのまま引きずり始める。抵抗する力も虚しく、彼女は自分の部屋の前まで俺を連れて行った。

「特別です。入ってください」

 彼女の部屋に入るのは初めてだった。俺は気まずい気分のまま足を踏み入れた。

「どうですか? 部屋に入った感想は」

「……思ったより汚い」

「本当に感想がそれだけなら蹴り飛ばしますよ」

 しかし俺は軽口もそのままにして部屋の中を見回した。雑多としているが、不思議な懐かしさに溢れていた。とても親しみ深いのに、しばらく味わっていなかったような。その理由に俺はすぐに気が付いた。そこには見た事のある物がいくつもあったからだ。部屋に張られたポスター、床に積み上げられた大きさのバラバラな本、マンガ。ほとんどが俺の知っている人間界の物だった。

「……私がまだ小さかった頃、まだ『螺召門プリーズマーケット』を覚え始めだった頃、私は戯式フォーマーをうまく使いこなせなくて、暴走させる時があったんです。今では好きな場所に繋げられるようになりましたけど、昔はよく全然知らない所に繋がっちゃったんですよ。それで理屈はわからないんですけどたまに、何故か人間界にも繋がったんです」

 彼女は落ちていたマンガの一冊を手に取った。懐かしそうにその背を撫でる。

「それで幼い私は、そこがどこだかもわからないし、それが何だったかもわからないのに面白そうだったからそこにある物を取っちゃったんですね」

「お前の強奪癖はその頃からなのか……」

「もう時効です。……それでそのなんだかよくわからない物を私は読んだんです。この文字ばっかりの本とか、絵が描いてあるのとか。私びっくりしました。これがまた凄く面白かったんですもん! ……それから私は、人間界にたまたま繋がった時はちょこっと何か貰うようにしたんです。気付いたら、私は人間が作ったお話の虜になっちゃってました」

 彼女は俺に微笑むと手に持った本を投げ渡して来た。手の内に収まったくたびれたそれは、俺も読んだことのある有名な少年マンガだった。彼女はベッドに座り込んで僅かに顔を曇らせた。

「央真さん、さっき店を壊された話をしている時のティア、どう思いました?」

「どう、って……。落ち着いているというか、軽いというか……」

 彼女は俯いたまま囁くような、乾いた笑い声をあげた。

「そうですよね。……魔界の人って、基本的に諦めの良い人ばっかりなんです。襲われて金を奪われたら仕方ない、頑張って広げた領地を奪われても仕方ない。家族を攫われたって仕方ない。それに、我が家同然の店を壊されたって、仕方ない。まぁそれもわからなくはないんです。魔界は弱肉強食、強い物に歯向かったら殺されるだけですもん。強い者に取り入って、苦痛は受け流す。それも生きていくには仕方ない。そう、仕方ない。……でも、人間は違った。ピンチでも諦めないんだ」

「……それは、作られた物語の中の話で」

「それでもそれが、私の知ってる人間なんです。どんなにピンチに陥っても、何度負けても絶対に諦めないで立ち上がる……私が大好きな、最高に愚かで最高に素敵な生き物です」

 つくもは笑った。今度はしっかりと上を向いて。俺が見た中で一番の笑顔だ。彼女は自分の拳を強く握り、それをもう片方の手で包んだ。

「央真さんはもう何度も立ち上がった。正直魔界の私が見て諦めてもしょうがないような苦痛を味わっていたのに、それでも試練に挑み続けた。……それって、本当にただ魔界が合わなかっただけなんですか? 魔界にいるのが嫌だから、あんなに苦痛に耐え続けたんですか? 私は、違う気がします」

「俺、は……」

「私は央真さんがもっと大事なもののために戦っていた気がする。だから私は応援しているんです。だから、私は央真さんに諦めないで欲しいんです」

 俺が、本当に諦めないでいられた理由。

「人間は自分の大切なもののためには諦めない。私はそう信じていたい。……あなたは初めて会った本当の人間だから、私の知っている人間でいて欲しい。わがままかな?」

 なんだそれは。俺は思わず笑った。わがままなんてもんじゃない。どれだけ苦しんでも、追い込まれても、人間だからなんて理由で諦めちゃいけないだなんて。彼女が俺を実験動物として扱った中でもトップクラスの無理難題だ。

 だけど。俺は思う。だけど一回ぐらいなら、飼い主の言う事を聞いてやってもいいのかもしれない。

「なぁつくも」

「なんですか?」

「俺も小さい頃の話をしていいか」

「聞きましょう」

「今となってはアニメだったかマンガだったか覚えてないんだけどさ。小さい頃に見たお話で、主人公が友達を集めてパーティーを開くんだ。……俺にとってはそれが衝撃でさ。普通の子は友達を集めてパーティーを開くんだって。友達と一緒にうまいもん食ったり歌ったりするもんなんだって。その光景が忘れられなくて、今でも覚えてる。それが俺の夢だったんだ。今思い出したよ。友達と一緒にパーティーをする。誰にも言ったことのない俺の夢。……そして、まだ今でも叶えたい夢だ。

 俺生き返ったら、そういうことができる居場所を作りたかったんだよ」

「ふふ、良い夢じゃないですか。みんなに言えばいいのに」

「恥ずかしいんだよ。友達が欲しい、だなんて。この歳で」

「その歳で魔法を使えない方が恥ずかしいですよ」

「……それもそうかもな」

 そうだ。もしかしたら、自分を騙してまで諦めたことにしてしまう方が恥ずかしいのかもしれない。他でもない、人間として。

「お前にはないのか、叶えたい夢」

「そりゃありますよっ! 魔界の人達を人間みたいに愚かにすることです!」

「はは、最っ低の夢だ。……だけど一緒に叶えようぜ。諦めずにな」

 彼女は歯を見せて笑った。あのいけ好かない魔王なんかの見せかけの笑顔じゃない。ちゃんと誰かに向けた笑顔だ。

「はいっ! それでこそ愚かな人間ですよ!」

 俺達はお互いを突き飛ばす勢いで拳をぶつけ合った。

 それから部屋を出ようとすると危うくリストとぶつかりそうになった。リストの後ろにはマリナも控えている。二人とも俺の顔を見て唖然としている。

「央真……人間ってのは頭からスープを飲むのか……?」

「へ? あ、ちげーよこれはこいつが……」

 だが弁解する暇もなくリストが手で制した。何やら慌てている様子だ。

「いいか、現状から挑める試練を一つだけ見つけた。というかマリナの案なんだが、これがなんというか……ド直球の真っ向勝負で……」

 なんとなく歯切れの悪いリスト。だが俺はその先を促したところ、マリナが先にその答えを言った。

「ヴォルナードとの、決闘です」

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