7.2

 翌日、早朝に目が覚めてしまった俺は町の中央の噴水近くを歩いていた。そういえばどこで待ち合わせするかも決めていなかったことを思い出して、とりあえず町中を歩いていれば鉢合わせするだろうと足を運んでいたのだ。

「ふふふ、こんにちはぁ……」

「うぉおっ!?」

 気が付けば当然のごとくマリナが隣を歩いていた。

「その突然現れるのやめてくれないか、心臓に悪い……」

「ふふ、姿を消すのは魔女の十八番ですから」

 その場でくるりと回って消え、また現れる。彼女は踊るように消えたり現れたりを繰り返した。

「わかった! わかったから!! それで今日は何をしたいんだ? どこか行きたいとことか……?」

「えっと、じゃあ町を案内して欲しいです」

「……そんなことでいいのか?」

「えぇ。こんな風に町をおでかけするのは初めてなので……ふふ、楽しみ」

 慌ただしく動き始めた朝のエルフェリータを彼女は恍惚気な表情で見つめている。何がそんなに楽しいのか、普段はおっとりとしているマリナだが今日は随分と活力的なのが端からも見てとれた。

 どちらからというわけでもなく俺達は町の大通りを歩き始めた。決まった目的もなく二人並んで、ただのんびりと朝の町並みを散策する。案内と言っても、俺もまだそこまで詳しいわけではない。どこか名所を教えられるわけでもなかったが、彼女はそれで充分満足のようだった。足を運んでいるうちにほんの僅かな間だが、ここが魔界で隣を歩くのが魔女だということをつい忘れそうになる。

 ふと横に目をやると、おしとやかに歩を進めていたマリナと目が合った。俺の視線に気付くと花が咲くように微笑みを広げる彼女に、不覚にも動悸が乱れる。相手は魔女だと自分に言い聞かせるも、隣を歩く少女の存在に速くなった鼓動はなかなか落ち着かなかった。

 考えてみれば女の子とこんな風に二人で歩いた経験など一度もないのだ。振り向けばすぐ近くに深窓の令嬢といった趣の可憐な少女。そんな彼女と一時を過ごせるという状況と、一歩選択を間違えれば魔獣が襲って来るかもしれないという状況の両極端な板挟みだった。

 普通なら少女と二人きりという状況に陥れば、どんなことを喋れば会話が盛り上がるのか考えあぐねるのかもしれない。しかしどう考えても魔女と魔界の町を歩くと言うのは普通の範疇に収まりきってはいないので、俺はもう早々に思考を放棄して道ゆく人々を漠然と眺めていた。

「央真様、いい香りがしませんか? ほら……そうここからだわ。香ばしい、とても良い香り……」

 マリナが足を止めたのは一軒のパン屋の前だった。丁度焼き上がったばかりなのか、彼女の言う通り香ばしく食欲をそそる甘い匂いが漂って来ている。

「ちょっと待っていてくださいねぇ」

 そう言い残して小走りに店の中に入っていったマリナは、ほどなくして紙袋一杯のパンを持って店から出て来た。

「ふふふ、どれもおいしそうでいっぱい買ってしまいましたぁ」

「……そんなに食べきれるのか?」

「何を仰ってるんですか、央真様の分もですよぉ。一緒に食べてくださいね。食べ歩きなんて初めてなんです」

 イタズラを楽しむ幼い少女のようにはにかんだ表情で差し出された紙袋から、パンを一つ取り出す。指先にじんわりと温かさが伝わる。一口噛むと口の中に甘い香りとほんのりとした塩気が広がった。どこか懐かしく落ち着く味だ。

「あ、央真様ようやく笑いましたねぇ」

「……俺、笑ってなかった?」

「はい、こう眉間に皺がぐーっと……」

 彼女が顔をしかめる様があまりに似合わなかったので、俺はそれでまた笑ってしまった。彼女もそれに応えて笑い声を漏らした。

「マリナはあんまりこうやって外を出歩いたりはしなかったのか?」

 小さく千切ったパンを一生懸命に口に運んでいた彼女はしばしその手を止めた。

「そうですねぇ……最近までずっと修行の日々でしたから」

「修行……試練とか?」

「はい。私の……魔女の家系はとても厳しいんです。小さい頃から試練や修行を繰り返して、一人前の実力を身につけるまでは外に出られなくって……。それで一人前になったら自らが仕えるに相応しい魔王を探して旅に出る……その旅の途中に立ち寄ったのがこの町だったんですよぉ」

「……なんだか、堅苦しい家だな」

「でもお母様も、お婆様もみんなしてきたことですから」

 彼女は紙袋をゴソゴソと鳴らせて新しいパンを手に取った。

「それでいくつかの町をまわって強そうな人と戦い続けましたけど、残念ながら相手になる人はいませんでしたねぇ。それ以前に魔女と知れば逃げてしまう人がほとんど。だからこの町に来た時もそんなに期待はしていなかったんです。……でも、ここには央真様がいました。私、知りませんでした……世界にはこんなに顔の怖い生き物がいるなんて」

「……うん。君はまず決闘のやり方の前に礼儀作法を習うべきだったね」

「礼儀なら私もちゃんと習いましたよぉ」

 彼女はパンを一杯に口に詰め込むと、自由になった手を首に添えるジェスチャーをした

「えっと、『目には死を歯にも死を』」

「道は違えど極刑」

 いったいそれが冗談なのかどうか、その微笑みから推し量る前に彼女は続けた。

「央真様は初めて私が手も足も出なかった人です。……私はこの人について行こう、そう思いました。見た目通り恐ろしい人かと思ったら、とても優しい方でしたしね……ふふふふふ」

 口の中の水分が急激に減っていくのを感じたが、それでも平静を装って無心でパンを頬張り続けた。

 マリナは、ふと気が抜けたように嘆息した。

「それに、ようやくほっとしたんです。これで終わるんだなぁって」

「……終わる?」

「今まで、ずっと修行や決闘ばかりでしたから、こうやってのんびり町を歩いたりすることもできなかったんです。親しい友人もいませんでしたし。周りにいるのは蹴落とすべき相手だけ。……でも仕える人が決まったから、これからはもう食べ歩きだってできちゃうんです」

 ウェーブした彼女の髪が風に踊った。それを優しく押さえる横顔を見て、やはり魔女と言えど、彼女はまだ年頃の女の子だということを、年頃の女の子でいたいことを、実感させられた。

 マリナはだいぶ減ってきた紙袋を差し出しながら照れくさそうに笑った。

「私のことを話したんですから、今度は央真様のことを教えてくださいな」

「俺のこと?」

「ええ。央真様はこれまでどんな風に過ごしていたんですかぁ」

 どんな風に、か。まさか人間界で過ごしていて、とは口が裂けても言えまい。言えないけれど、マリナのその境遇を聞いて、俺も少しだけ自分のことも話してしまいたくもなっていた。俺はその気持ちを出しすぎないよう抑えつつ言葉を選びながら話し始めた。

「えっと……俺の住んでた地元では、なんというか、うまくはいってなかったよ。マリナみたいに修行とかしてたわけじゃないけどさ、結構辛い思いはしてたかな。ほら、俺の顔こんなだろ? だからあんまり他の人と良い関係が作れなくて」

「そんな……私は央真様の顔、恐くて素敵だと思います」

「んーありがとう。でも恐がられるのって慣れなくてさ。それでその故郷を捨てて、あとは行き当たりでここに来てる、って感じなんだ。でも今となっては故郷も悪くなかったのかな、って思っちゃうんだ。居場所はなかったけどな」

「じゃあ、いずれ帰ってしまうかもしれないんですか?」

「……どうだろ。帰れるなら帰りたいかな。結局のところ、目の前の環境から逃げ続けてるだけなのかもしれないけど」

「そんなことありませんよぉ。央真様は立派に試練に挑んでいらっしゃるじゃないですか。……それに、今度帰る時は私がいるじゃないですか」

「マリナが?」

「はい……私が央真様の居場所になります」

 真っ直ぐに向けられた目から、言葉から、俺は逃げるように顔をそむけた。初めて投げかけられたそんな真っ直ぐな言葉に、図らずも心が揺らいでいた。目尻が自分の意思とは関係なく滲む。その言葉にこれほどなく救われている自分がいる。そのはずなのに、何故か俺はいつも以上にこの顔を隠してしまいたくなっていた。

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