3.2
上機嫌でスキップを始めたつくもの後ろを歩き始めてからしばらく。さっきまでは明るく森を照らしていた日が段々と傾き始め、森は薄暗くなってきていた。
目の前のつむじが直角に回転する。どうやら魔界でも健在な慣性の法則に従って長い黒髪が宙に浮き上がり、後を追って俺も進路を右に変更した。
「さっきから曲がってばっかりだけどちゃんと外に向かってるのか?」
「心配いりません。ワイバーンに乗ったつもりで付いてきてください」
「生憎ワイバーンの乗り心地は想像もつかねぇよ」
近くにあった木の幹に手を当てるとじんわりと湿った。森に生えている樹木はどれも枝と枝を編み込むように絡ませていて、見た事のないような伸び方をしている。この木が魔界固有種なのかどうかは植物に詳しくないのでわからないが、少なくとも地元の公園には生えて無かった。
そんな木の根元につくもは時折駆け寄って、落ちた木の実を拾っては鞄にしまっていた。
「食えるのか、それ」
「はい、食べられますよ。市場で買うと少し値が張るので採りに来るんです。ちょっと遠いですけどね」
「ふーん。旨いのか?」
「一口食べます?」
投げられた丸い果実を両手で受け止める。鮮やかな赤に白い斑点、昔毒キノコ図鑑で見た色使いだ。
「大丈夫……なのか? 随分アバンギャルドな色してるけど」
つくもは返事をせずに笑顔でかぶりつくジェスチャーだけを返してきた。
喉も乾いていたので恐る恐る齧ってみると、黄色い汁が溢れてきた。味は……なんだろう、柑橘系の香りのする桃のような風味。
「うん、意外と悪くないな。なんて木の実なんだ?」
「強酸性毒カリコス」
「ブゥーーーッ!!」
慌てて口の中の液体を噴き出す。そんな俺を見てつくもはケタケタと笑った。
「あははは! 大丈夫ですよ、悪くても内臓器官が内側から溶けるぐらいですから」
「それを大丈夫と言えるのはお前だけだ!」
舌がジュウジュウと不吉な音を立てたものの、幸い量が少なかったのか軽く表面が焼けただけだった。なんとも魔界は恐ろしい所……いや恐ろしいのは目の前で笑う少女か。
「本当は火を通して食べるんです。そうすると毒が抜けますから」
「じゃあ何故食わせた」
「人間がどれだけ毒に耐性があるのかなーって」
「暴力的に好奇心旺盛だな……」
「てへ☆」
お茶目に笑って右にターン、そのまま真っ直ぐ歩き始めるつくも。うんざりしながら後について行こうと足を踏み出そうと持ち上げて、はたと止まる。あれ、さっき右に曲がって……また右?
「おい、さっき右に曲がったのにまた右なのか? 戻ってないか?」
「うーん、もう少しですかね」
「森の出口が?」
「いえ、央真さんの体力がです」
「はい?」
「人間の体力がどれだけあるのか知りたかったんで出口の近くをウロウロしてみました」
「さっさと出口に向かえ!!」
俺は実験用マウスか。
つくもはつまらなさそうに口をすぼめると、余分に二回転ほどくるくると回って逆方向に歩き始めた。ほどなくして鬱蒼とした視界が開け、岩がまばらに埋まる広々とした丘に出た。
「本当に出口の近くだったのかよ……」
「さぁ、そろそろ私たちの町が見えますよー」
丘の頂上に向かって足を進める。登れば登るほど岩が多くなり、視界を遮るように霧が出てきた。前を行く背中は元気一杯だが、俺は岩だらけの急勾配に息も絶え絶えだ。
勾配がなだらかになってきた所で、ようやく先を歩いていたつくもが足を止めた。
「じゃーん! 魔界へようこそー」
「いや、霧で何にも見えな……おわっ!?」
急に地面を踏み損なってバランスを崩した。前のめりに倒れそうになった肩を後ろに引っ張られ、そのまま尻餅をつく。
「おっと危ない。あやうく落ちるところでしたよ」
「落ちるってどこ、に……」
踏み損なった足下を見て頭から血が引くのを感じた。今まで歩いていた丘はその一歩先から消え去っていた。続いていると思っていた地面は何かに切り取られたかのように突然、本当に突然のように真下に伸びる崖に変わっていた。
真下に伸びる崖のぎりぎりの際に俺は腰を落としていたのだ。恐る恐る頭を伸ばして下を覗くと、横でつくもも同じように覗き込んでいた。ゆうに二十メートルはあるだろう下辺りから、まるで絨毯でも敷いたかのような霧が視界一杯に立ちこめていた。
ちらりと横目に窺うと、つくもは何かを期待するように眼下の霧を眺めていた。それは霧の奥を見透かそうとしているようにも見える。何が見えるはずなのかを聞こうかと口を開きかける。
その口を塞ぐように、突風が吹いた。
崖の下から吹き付けるように上がった来た風に、思わず目を瞑る。
そして再び目を開いた時、俺は魔界にいた。
霧は晴れ、切り立った崖の下の姿が、崖の底と言うには雄大過ぎる世界が俺に向かって開放されていた。その光景に思わず呼吸が詰まる。心臓さえも止まっているんじゃないかと思わせるほど、その光景に圧倒された一瞬は衝撃的だった。
そこにあったのは一つの世界だった。俺の知らない、人間の知らないもう一つの世界。
視界の果てには天を突くかのような山々がそびえ、そこから瞬く光が流星のように絶え間なく溢れている。大地からは物理法則に真っ向から挑むかのごとく岩の柱が何本も天空へと伸び、上空に草原や洞窟を造り上げていた。世界中の画家に「幻想」というテーマだけ与えて自由に描かせても、ここまでの不可思議な世界は描けないだろう。
「どうですか? ここが魔界です!」
「ここが……」
横で自信満々に宣言するつくもだったが、それに俺はまともな言葉さえ返せなかった。頭に粘土でも詰められている気分だ。しかしそれほどまでに俺の脳の許容量を超えていた。顔を伝った汗が崖の下へと落ちていき、すぐに見えなくなる。
魔界。眼下の世界は明らかに今まで生きてきた世界とは違っていた。本当のことを言ってしまえば、まだ心のどこかで疑っていた。魔界などありはしないと、自分が生きてきた世界こそ全てだと。しかしそれは違った。たとえ木々が生えていようとも、つくものように人間に似た存在がいたとしても、ここは俺が常識を積み上げてきた世界とは明確に違う、全く異質な世界なのだ。
ようやく、本当にようやく理解した。俺は魔界に来てしまったのだと。その認識はある意味、変な生き物に足を喰い千切られたことよりも遥かに強い衝撃だった。
「あ、央真さん。あそこ見てください。丁度真下辺り」
「真下……あの光が集まっている所か?」
「はい、あそこが私の住んでいる町です! 小さいけど綺麗でしょ?」
「いや小さくて何も見えん……」
崖を伝うように真下に目を向けると、視界の先に小さな灯りの集まりが点滅しているのが見えた。言われなければ気付かなかったほどで、建物どころか町の大きさすらわからない。
「まさかとは思うが、あそこまで落ちていくとか言わないよな。俺はもう一生分の落下を味わったぞ」
「それはそれで楽しそうなんですけど、うちの屋根を突き破りでもしたらお母さんに怒られちゃいます。今日は階段を使いますよ。こっちです」
もう一度眼下の光景を目に焼き付けてから、来た道と違う方向に丘を下り始めたつくもの後を追った。
丘の中腹辺りでつくもが急に立ち止まったのであやうくぶつかりそうになる。また崖でもあるのかと慌てて立ち止まると、今度はつくもの頭越しにポッカリと地面に開いた穴が目に入った。大人が縦に三人寝転がることができそうな直径の穴だ。穴の縁には螺旋階段のように下へ下へと段差が続いている。
薄暗い穴の中に入ると、トンネルの中のように声が反響した。
「ここを降りていけば地上に着きますよ」
「地上? こんな森があるんだからこっちが地上じゃないのか?」
「違いますよ。私たちにとってはこの下が『地上』です。それにここはただの柱の上ですよ。地面からたくさんニョキーって生えてたやつです」
「じゃあ雲より高い所に森が点在してるってのか?」
「森だけじゃありませんよ? 何本か絡み合って洞窟を作っていたり、湖を持っていたり、そこに居住区を作る種族もいます。そんな柱が魔界中にあります」
「はぁ……高層ビルなんて目じゃないな」
魔界に落ちてきた時に上空からは森しか見えなかった。だから森の広がる一体こそが魔界だと信じて疑わなかったが……まさかただ一本の柱の上だったとは。
しばらく無言のまま、穴の縁に沿ってグルグルと何周も降りていく。何周回るのか数えてみようともしてみたが、同じ光景がずっと続いているのですぐにどれだけ降りてきたのかわからなくなってしまった。
ようやく催眠のような回転下降が終わり、風が吹き込む歪な出口を抜けると獣道が続く林に出た。少し先からは賑やかな喧騒が聞こえてくる。
「さぁ、ここが私たちの町『エルフェリータ』です!」
豪華な彫刻が施された石造りの門をくぐると、そこは活気に溢れた町が広がっていた。
小鳥が巣を作りそうなほどにぽっかりと口を開けた俺の手を引いて、つくもは人だかりをかき分けかき分け、煌煌と七色の光を灯すランタンの連なった街道を進んでいく。
道端のベンチが貧乏ゆすりをしているかと思えば、建物はそれぞれの敷地を争うように小競り合いをしているし、石造りの壁はたまにレンガを吐き出していた。
角、猫耳、翼、四足歩行、半身獣、嘴、双頭、また角。行き交う人の姿を見る度に花火大会のように次々と炸裂する衝撃を受けなければならなかった。ファンタジーゲームで見たような姿から、ゲームですら見た事のないような姿の生き物がそこら中を闊歩している。
皆それぞれに談笑したり、露店の品定めをしたり、足の沢山生えた得体の知れない何かにかぶりついたりと自由勝手に過ごしていた。のんびり歩く俺達には目もくれようとしない。
「なぁつくも、あの角だとか嘴とかって全部本物なのか?」
「偽物付けてどうするんですか。間違ってもふざけて触ったりしないで下さいね。串刺しにされても文句は言えませんよ」
「りょーかい」
丁度前から歩いてきた六つ足美女の特大捻れ角をしゃがんで躱しながら答える。ハロウィーンパーティに連れて行ったら大盛り上がり間違いなしだ。
二、三の横道を抜けた所で、つくもは一軒の家の裏口に回り込んだ。
「じゃあ央真さん、私はお母さんと交渉してくるから待っててください」
「交渉? 何のだ?」
「央真さんをウチで飼……居候させていいかに決まってるじゃないですか!」
今知的生命体に向けるべきでない事を言いかけなかったか。
言うが早いか、つくもは家の中にするりと入り込む。まぁ待ってろと言われたからにはどうすることもできないので、僅かな反抗心とともに聞き耳をたてる。
「……ねぇお母さぁーん、ちょっとお願いがあるんだけど」
「あら、あんたまた変な物連れて来たんでしょ」
「変な物じゃないよ! 凄く頭がいいの! ねぇいいでしょ? ちゃんと面倒みるから」
「そう言って前も全部お母さんが面倒見てたじゃない」
「今度は本当! 本当に面倒見るから……」
やっぱり捨て猫カテゴリーじゃねーか! 思わず叫びそうになるのを抑える。魔王扱いも嫌だがペット扱いも中々に複雑な気分だった。
「でもねぇ、アンタこの前も捨てゴルゴモアの顎を砕いて死なせちゃってじゃない」
「あ、あれはゴルちゃんの骨の強度が知りたくて……」
ん? 聞き間違いかな。何だか不穏過ぎる言葉が聞こえたぞ。
「アルヴァフォリア拾ってきた時なんて羽を全部毟っちゃって」
「アルルンは羽が何割残ってれば飛行に支障がないのか気になったんだもん!」
あれ? なんだか無性にお母さんの方を応援したくなってきたぞ。会話に挙がっている生物がどんな物かは全く見当もつかないが、同列に扱われちゃいけない事だけは明らかだ。お母さんなんとか踏ん張ってください。
「うーん……ちなみに何を拾って来たの?」
「今玄関の前に待たせてるよ!」
「へー、もう『待て』ができるのね。頭の良さそうな……」
離れる猶予もなく音を立てて横に開く扉。娘と同じように艶のある長い黒髪の女性と目が合った。
「その……どうも」
「いやああああああぁぁぁぁ!! 捨て魔王ぅぅぅぅぅぅ!?」
その場で崩れ落ちるつくものお母さんをすんでのところで受け止める。悲鳴を上げながら気絶したその人はいくら揺すっても目を開けない。
「なんですか捨て魔王って……じゃなくて起きてください! あなたが最終防衛ラインなんです! あなたが止めてくれないと誰が止めるんですか! 俺は実験動物なんかにはなりたく……!?」
はっとして家の中に目を向けると、仁王立ちするつくもがいた。その顔には笑顔が張り付いていたが、その笑顔は魔王と揶揄される自分の顔を毎日鏡で見てきた俺でさえ恐怖するような笑顔だった。
「ようこそ、わが家へ」
地獄の扉の開く音がしました。
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