1.2

 『顔面魔王』。それが俺、時ヶ崎央真に付いた呼び名だった。

 そんな不名誉極まりない呼び名がいつ付けられたか正確には知らない。けれど中学に上がる前には付けられていたんじゃないかと思う。

 自分の呼び名だと言うのに何故そんなに曖昧なのかと言うと、実は一度もそう呼びかけられた事はないからなのだ。しかし本人に向かって一度も使われたことがないわりには、その呼び名は完璧に定着していた。俺が居ない場所で、俺に聞こえない声で、俺を知る人はみんなこの呼び名で呼んでいた。

 どうしてそんな呼び名が付いたかって? 簡単だ。顔が恐いんだよ。

 俺の顔を知らない人がそれを聞いたら笑うだろう。でも俺の顔を知ってる人が聞いたら血相を変えて震えだす。そんな顔だ。

 まぁ普通だったらそれで終わり。特にお話は広がらない。顔が恐いというコンプレックスに悩まされて、人生多少ハードモードで苦労するくらいだ。逆にその恐い顔を活かして悪役系の俳優を目指すなんて手もあっただろう。

 だが、俺の場合は普通じゃなかった。胡散臭いエセ笑いを浮かべたカウンセラーに相談してその場しのぎの解決法を教えてもらって一晩も寝れば明日も頑張ろうだなんて言えるような物じゃなかった。

 何故かって? 簡単だ。顔が恐過ぎたんだよ。

 俺の顔。俺が持って生まれたこの顔は人間が本能的に恐いと感じる顔そのものだった。テレビや映画で毎度悪役として出てくる俳優の顔を煮込んで煮詰めて悪夢と混沌と残虐性をぶちまけて純粋な恐さ成分だけをドリップしてエスプレッソにしたような顔だった。

 別に目立つ傷が合ったり、誰これ構わずガンを飛ばす不良ってわけじゃあない。ただ単純に顔が恐い。けれど俺の場合はそれが度を超していた。目の鋭さが、鼻の造形が、口と言う裂け目が、その皺の一本一本までが、生き物の潜在的なトラウマを引き出すような顔だったのだ。非常に残念なことにね。

 そのせいで俺の人生は滅茶苦茶だった。生まれてこの方一度も友達はおろか知り合いと呼べる人もできた試しがない。親戚だって裸足で逃げ出す。小学校では俺の視界に入るだけで女子が泣き出し、何も言わなくても給食時に大量のプリンや果物が献上された。中学校では入学から一週間もしないうちに学校中の不良は全員舎弟になり、無遅刻無欠席でも教師からは不良のレッテルを貼られ、「学校の理事長を土下座させた」「睨んだだけで人を殺した」「学校中の鏡が顔面に耐えきれず粉々になった」なんて噂が一人歩ききするほどだった。

 俺の顔が見えるだけで教師と全校生徒が頭を垂れ、命だけはと悲鳴を上げながら何かを差し出した。気付けば入学から卒業まで学校を支配下に置いていた。全てを統治する、その圧倒的な脅威はまさに魔王そのものだったと思う。

 でも、誰かに聞いてみたい。そんな学校生活楽しいだろうか、と。そりゃヤンキー漫画よろしく時代遅れの不良なんかには魅力的かもしれない。全ての人の上に立って学校を支配するだなんてな。恐怖で全てを統治する、俺に言わせりゃ糞食らえだ。

 俺はもっと普通の生活が送りたかった。友達と馬鹿やって嫌われ者の教師に怒られたり、放課後にファストフード店で面白いアニメを教えあったり、仲が悪いクラスメートと運動なんかで競い合って友情が芽生えたりしてもいいかもしれない。そういうごく普通な日常が欲しかったんだ。

 もちろん俺なりの努力はしてきた。喧嘩をしたことなんて一度もなかったし、人には親切にするよう心がけて、積極的に話しかけたり流行を調べるのにも余念がなかった。

 だが、その努力は実らなかった。何をしたって返って来るのは悲鳴か命乞いだ。もし人は見た目じゃないなんて言う奴は是非とも名乗りをあげてくれ、俺のサイン入りブロマイドを送ってやる。

 結局、この『顔面魔王』という不名誉な呼び名はなくなるどころか箔を増しながら、俺は高校生になった。中学までと違う所は、もう誰かに話しかけたり近寄ったりはしなくなったことだ。近づいてお互いに傷つくぐらいなら、一人で安穏と暮らすことを選んだ。どうせ何もしなくたって悪評は立つのだ。だったら自分から作らなくったっていいじゃないか。

「はぁ……」

 思わず溜息がこぼれ出た。近くにいた気弱そうな青年がパニック映画の民衆顔負けの悲鳴を上げてコンビニから飛び出していった。俺の溜息がドラゴンブレスにでも見えるのか。その背中に向けてまた溜息をつく。

 カフェの騒ぎが収まるまでコンビニに身を潜めていようかと思っていたが、それも難しそうだ。どうせ次に学校へ行けば「顔面魔王の気分を損ねたカフェが潰された」なんて話が広がっているだろう。ただコーヒーを飲みに行っただけでこれだ。

 手にしていた友情と努力で勝利を掴み取る漫画雑誌を閉じて棚に戻す。丁度熱血主人公が裏切り者と友情で和解して共同戦線を張ったシーンだった。

 別に友情も努力も勝利もどれも欲しいとは思わない。どれか一つでも手に入るのなら……。いや、やめよう。俺の努力はすなわち敗北で、それが嫌われることに直結しているのはもう十分学んだじゃないか。

「そんな悲鳴あげるほど恐いかなぁ」

 目の前のガラス窓に目を向けると、切れ味のいいナイフみたいな皺を眉間に寄せた高校生がガンを飛ばして来ていた。うん、まぁ確かに恐いな。

 ガラスを隔てた向こうから悲鳴が聞こえて来たのでまた騒ぎになる前にコンビニを出る。コンビニ強盗だなんて疑われるのは勘弁だ。実を言うと過去にコンビニ強盗だと疑われたこともあるのだ。その時は機嫌が良くてレジにいた若い店員に爽やかなスマイルを向けたつもりだったが、気付けばその店員はレジの中身を震えながら差し出していて、必死に誤解を解こうとしているうちに警官が到着していた。

 昼が近づいてきたこともあって通りには少しずつ買い物客が増えてきていた。たとえ人が大勢いたとしても周囲の方が避けて行くので歩きにくくなることはないのだが、子供に泣かれるのが嫌なので少し足を速める。子供に泣かれるのって、結構キツいんだよ?

 人通りの少ない横道に入り喧騒が遠くなってきた辺りで、一匹の黒猫が道の先から小走りで通りすがった。そいつは俺のことを一瞥すると小さく鳴き声をあげて、さっさと通り過ぎていった。

「黒猫にも避けられるとはね」

 不幸も俺はお断りってか。

 ふいに、その道の先の裏路地から言い争うような声が聞こえて来ることに気付く。

 はて何だろう。良くないと頭ではわかっていても、思わず足が声の方に向かってしまう。揉め事や争いに巻き込まれるのは御免だが、人並みの好奇心は持っているんだ。まぁ大方不良の言い争いかなんかだと思うけど。

「……おい、テメェ最近調子乗ってんじゃねぇのか? あ?」

「調子に乗ってようがなかろうが君達には関係ないだろ」

「ふざけたこと言ってんじゃねぇぞ。テメェが調子に乗ってるとこっちはイラつくんだよ。慰謝料出せや慰謝料」

 ビンゴ。まさに化石と言うべきかアーキタイプなヤンキーだ。ご丁寧にも学則を全て破ろうとしているような制服の着こなしをした不良二人が青年を囲んでいた。

 なんというかテンプレのような状況に感心すら覚える。まだ現存してたんだなぁ、路地裏でカツアゲする不良。

 まぁ呑気に見学している場合じゃないか。彼の財布が無事なうちに助けに行くか。

 実を言うとこの手のトラブルは苦手ではない。誰でさえ恐怖させるこの顔はこういう時だけは役に立つ。不良だって俺の顔を見れば一瞬で戦意を失う。まぁ少々過激な水戸黄門の印籠みたいなものだ。

 そう思い声の方へ向かおうとするも、そこである事に気付いてはたと足が止まった。カツアゲされている男の顔に見覚えがあったのだ。名前は覚えていないが、確か隣のクラスにいた……タカシ君(仮称)だ。

 それは普通の人ならどうでもいいことだったかもしれない。けれど俺にとってはどうしようもなく重大なことだった。俺が知っているということは向こうも確実に俺のことを知っている。このまま姿を現せば、来週にはもう俺が不良をカツアゲしたとか、悪ければ、路地裏で不良共々殺しかけたなんて新しい肩書が増えているだろう。俺の経験則がそう言っていた。

 ……仕方がない。俺は踵を返した。そういうごたごたにはもう関わらないと決めたんだ。タカシ君(仮称)には悪いが、失ったとしても精々数千円だろう。その数千円を守るために、俺が悪評を広められてどうなる。そこまでの価値はないはずだ。諦めてもらおう。

 

 そう。その時はそう思っていた。それがほんの小さな犠牲だと。諦めて当然の犠牲だと。それが取り返しのつかない大きな代償に繋がるとは知らないで。


 俺は元来た道を引き返した。見てしまったものを思考から振り払うように速足で。しかし、それに追いつこうとするように背後から悲鳴と罵声が響いてきた。思わず振り返ると、こっちに向かってさっきの三人が走ってきている。追いかけてきている不良は憤怒の形相だ。

「ヤロォーーーー!! 俺のダイジナトコロに蹴り食らわせやがって!! 俺を女の子にするつもりかァーーーー!! ぶっ殺してやる!!」

(タカシ君(仮称)何やってるの!?)

 タカシ君(仮称)は全速力でこっちに走ってきていた。そしてあともう少しですれ違うという所で、運悪く……、

 俺に、正しくは俺の顔に、気が付いた。

「ウワァァァァァァぁぁぁぁッッッ!?」

 彼は急ブレーキをかけたが、体が追いつかずそのまま足を滑らした。それは見事なスライディングとなり、俺の足を引っかける。俺はバランスを失い、近くにあった物の一つに掴まった。

 それが何とも悪いことに、追いかけてきていた不良の頭だった。

「あ……ぁ、あああああぁああ!! やめろおおぉおぉお!!」

 途端に喉を壊さんばかりに発狂する不良。俺は不意に掴んだだけなのだが、相手からしたら頭を潰されるのかと思ったのかもしれない。

「助けてくれええええ!! 殺されるうゥゥう!!」

 もちろん殺す気などない。俺の握力じゃあリンゴどころかどんぐりだって潰せやしない。すぐに手を離して、ともすれば謝ろうとさえ思っていた。

 けれど、その時になって俺は声が出せないことに気が付いた。

 それどころか、息を吸うことすら、できない。

 奇妙な振動が足先から脳天まで駆け抜けていた。全身に氷水を浴びたかのように、体温が爪先から少しずつ、失われていく。

「や、やめろ……俺のダチから……て、手を放せ……!!」

 錆びたネジを回すようにゆっくりと、ゆっくりと振り返る。そこには追いついていたもう片方の、全身を震わせながら対峙する不良がいた。

 そして、その手にはナイフが握られている。

 それは薄く、小さく、きっと本当に人を刺すことなんて想定していなかった見せかけの凶器だっただろうに、その刃は柄の部分まで俺の脇腹に突き刺されていた。

 自分の足下から広がっていく赤い液体を見て、ようやく自分が何をされたか認識する。その途端全身が感覚を落としていくように痺れが襲う。

「な、ん…………」

 金属がコンクリートにぶつかる音がした。顔を上げるとナイフを残して不良も、彼も、逃げ出していた。

 思わず耐えきれなくなって膝から崩れる。耳の奥で血流の鼓動音が大きくなる。だがその音が大きくなるに連れて地面に這う液体は広がっていく。ほんの一ヵ所の傷の場所がわからないほど、背中全体が焼けるように痛い。

 痛い? イタイ? いたい?

 冷たい。

 気付けば地面を目の前にしていた。空気を吸おうとする口からはぜいぜいという音しか出てこない。顔に触れるコンクリートは酷く冷え切っていた。遠くで買い物をする人達の喧騒が聞こえる。地面が揺れる。口の中に砂利と血の味が広がる。

(俺のダチから……か)

 痛みと血が混ざりゆく脳内で最後に感じたのは、怒りでも悲しみでもなく羨望だった。十数年間生きてきた中で、自分に対して立ち向かってきた人は初めてだった。

 そして奇しくもそれは、俺が一番欲しかったモノだった。

(……俺、も…………)

 命があと数秒しか残されていないとしたら、いったい何をするべきか。

 俺は、何もできなかった。

 

 こうして、この世から一人の魔王が死んだ。

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