顔面魔王の友情奇譚
十手
第1章 喫茶と魔王の死に
1.1
自分の命があと数秒しか残されていないとしたら、いったい何をするべきか。
諦める。運命を呪う。悪態を吐く。……それとも愛でも叫ぶ? まぁ数秒でできることなんてたかが知れている。大したことなんてできやしない。けれど今俺の目の前にいる人々は、真剣にその難題と向き合っている様子だった。頭を地面に擦り付け、冷や汗の水たまりを作りながら。
それは屈服したように膝をついている彼らだけではない。視界に映る人間全員が目前に迫った死を見据えていた。誰一人として口を開かず、その顔に恐怖を貼り付けている。
そう、恐怖。その場を支配しているのはただ純粋な恐怖だ。
空気に鉛の重さを与えてしまったかのような、肉体を内側から溶かしていくかのような、耐えがたい恐怖という感情。
誰も彼もが小指一本動かすのすら苦痛という顔をして、不条理な運命に絶望している。何故自分が生まれてきたのかを問い、神を恨んだ。自分はこんな目にあうために生まれてきたんじゃない。こんな目にあうのならどうして生まれてきたんだ、と。
まさに悪夢。これぞ地獄。この世の闇を目の当たりにする場所。
いったいここはどこだというのだ。処刑場? 戦場? はたまた猟奇殺人現場?
いいえ、朝の爽やかなカフェテラスです。
「た、たたたたいへん、もももも申し訳あああありませんでででした……!!」
ようやく口を開いたその勇気ある女性店員も、残念ながら歯を狂ったカスタネットのように鳴らせていたので何を言っているのか聞き取るのが大変だった。
震える彼女の顔を伝って、また冷や汗が垂れた。それに返事をするように俺の顎からも音もなく一滴垂れる。冷や汗が、じゃない。熱々のコーヒーが、だ。
どうして俺は寝起きのシャワーよろしくコーヒーを頭から浴びてるんだって? そりゃあ目がよく覚めるからだよ。んなわけねぇだろ。
まぁ何が悪かったわけでもない。強いてあげるなら、朝玄関に置いてあったカフェのチラシだ。普段ならオシャンティなカフェなんて絶対に足を運ばないが、今日は学校も休み、早起きなんかもしちゃった。だから気分が良くてルンルン気分でこんな所に来ちゃったんだ。
だが、そんな浮かれた気分も椅子に着くまでだった。腰を下ろした途端、英字新聞を読んでいたダンディなオジサンも、キーボードを軽快に叩いていた爽やか若手ワーカーも、仕事がバリバリって感じのOLさんも、周囲五メートル圏内のテーブルの客は俺の顔をチラリと見ると、全員急用を思い出したようにそそくさと帰ったし、オーダーを聞きに来た店員は接客業にしては笑顔がほぼ死んでいた。
コーヒーをお盆に乗せてきた若い女の子は(若者を真っ先に犠牲にするのは日本の悪いトコロだね、うん)その時点でガタガタと震えまくり、コーヒーがカップに注がれているのかお盆に注がれているのかわからなくなっていたし、目の前で足をもたつかせる頃にはなんかもうこっちも覚悟が決まってた。
その場に居合わせた人々は、宙を舞うコーヒーカップのランデブーを追い、そして着陸地点である俺の顔を見た。そして冒頭へと戻る。
こうして俺は全身でコーヒーを味わっているのだった。うーん、染みわたるね。
訳あってこの手の不運は慣れっこなので怒る気は毛頭ないのだが、どうやら彼らにはそうは見えないらしく、俺は目の前に一列に並んだ一糸乱れぬ華麗な土下座を見渡すことになっている。店員総出である。うん、謝ってくれるのはいいけど、ちゃんと火消してきた? なんか焦げ臭いよ?
俺にコーヒーをダンクシュートした店員はライオンの檻に手を突っ込んでいるんじゃないかという怯えようで俺の服を拭いてくれていた。拭いてくれるのは勿論ありがたいのだが、それはどう見ても床のコーヒーを拭いていた雑巾だ。それを指摘すると、その子は「イィーーッ!?」というシ○ッカー戦闘員みたいな悲鳴をあげて気を失った。奇抜な悲鳴グランプリがあったら敢闘賞ぐらいは貰えそうな悲鳴だった。
その子が気絶したのを見て、一拍置き、そしてその場に居た人たちはついに恐怖を爆発させた。客たちは悲鳴をあげて逃げまどい、店員は泣き叫び始めた。まるで俺が首をはねた現場を見たようなあり様だった。
「お客様! お客様!! どうか落ち着きください! この子はまだ新人でして、何卒命だけは……ッ!!」
「いや、別に俺そんなに怒ってないですから……誰にでも失敗はありますし」
「誰でも死体になります、死!?」
「言ってないです」
こうなるともう手の付けようがない。ある人は神への祈りを捧げ、ある人は抱き合っておいおいと涙を流す。おまけにキッチンからは火が噴き出し、火災報知器がけたたましく鳴り響き始めた。
「お客様ァ!? まだオープンしたばかりなのです!! どうか火を放つのだけはッ!! どうか火あぶりだけはッ!!」
「どうやって⁉ 人をパイロキネシス扱いする前にまず消火器!!」
まさに地獄絵図。逃げまどう群衆の中心に立つ俺を、完全に困惑しきっているだけの俺の顔を見上げて、店員たちは現世に君臨した恐怖の大魔王を前にしたようにひれ伏した。
「お願いします、何でもしますからお許しください……何でもしますからァ!!」
「よぉし! じゃあお勘定!!」
俺は三九〇円をテーブルに叩きつけた。
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