──。



「──振り返ってはダメだよ、風切 直哉」



 背後から、そんな声が響いた。それは聞き間違えるはずもない彼女の声で、俺は思わず背後に視線を向けそうになる。


「だから、振り向いていけないよ、風切 直哉。なんせ私は、もうここには居ないのだから」


 その言葉のお陰で、すんでのところで振り向かずに済む。……でもこの声は確かにささなの声で、気づけば俺の心臓はドキドキと高鳴り始めていた。


「ささな。お前、どうして……。もう会えないって、言ってたのに……」


「くふっ。確かにそう言ったね。でも君があんまり不甲斐ないから、出てきてしまったんだよ。……それに、約束していたからね」


「約束って、なんの話だよ?」


 そう尋ねるが、ささなは答えを返してくない。彼女はただ昔と同じ声で、静かに言葉を続ける。


「残念ながら今の私では、君の手助けをしてあげられない。私はもうどこにもいないし、居たところで大した力はないからね」


 カチカチと、秒針の音が数度響く。そしてまた、ささなの声が耳朶を打つ。


「今の君がどういう事態に巻き込まれていて、なにをしようとしているのか。私にはもう、分からない。けどね、風切 直哉。青い桜っていうのは、奇跡を起こすものなんだ。そして奇跡とは、代償や犠牲なんて関係なく誰にでも起こりうるものなんだよ」


 今の時代の人間は、皆んなそれを忘れてしまっているけどね。と、ささなは笑う。


「青い桜は、決して君たちの敵ではない。そして私が居なくなっても、あの青い桜はきっとまた咲く。だってそれが、奇跡というものだから」


「どういう意味だよ。あれはお前の力で、咲かせたものじゃなかったのか?」


「私が居なくなったからって、奇跡がこの世から消え去るわけじゃないんだ。私なんて居なくても、この世は奇跡で溢れている。だからあんまり、悲観してはダメだよ? 風切 直哉」


 そう言われると、返す言葉が思い浮かばない。別に悲観しているつもりはなかったが、俺が死なないと失踪者が増え続けるなんて言われて何も感じないほど、俺は図太くはない。


「…………」


 だから俺はただ黙って、ささなの言葉に耳を傾ける。


「ふふっ。君は相変わらず、素直で可愛いな。……でも君は私を選ばなかったのだから、あんまり褒めるのは辞めておこう。……あんまり褒めすぎると、君は単純だからまた私を好きになってしまうからね」


 月明かりが、ゆっくりと陰っていく。それに合わせて、ささなの声も徐々に覚束ないものになっていく。


「おっと。もう時間がないようだね、じゃあこれで最後だ。最後に君が願った通り、どうでもいい話をして終わりにするとしよう」


 ささなは、笑う。いつもと同じように、昔と同じように、蕩けるような声で、彼女はただ笑う。



 ……その声を聞くだけで、俺は泣きそうになってしまう。



「……君はいつからか、ずっとメモをとっていただろ? 私との約束を果たす為。どうすれば女の子にモテるのかを、君はいつもメモにとっていた。……彼女に、からかわれながらね」



「────」



 ふと、どうしてかオカルト研究会の部室が思い浮かんだ。そして毎日そこに来ていた、誰かのからかうような笑みも。



「じゃあね、風切 直哉。……いい人生を」



 そこで月が完全に雲に隠れて、ささなの声が聞こえなくなってしまう。


「…………」


 でも俺は、振り返らない。振り返ればすぐ側に彼女が居るような気配がしても、決して振り返えることはしない。


「ありがとう、ささな。お前はやっぱり……凄いよ」


 それだけの言葉を返して、真っ直ぐに自分の部屋に向かう。



 そして一心不乱に、いつかのメモ帳を探す。



「どこだ。どこに置いた」



 鞄の中にも、机の中にもない。本棚にも、ベッドの下にもない。……なら別の部屋か、と考えて部屋を出ようとして……ふと気がつく。


「……馬鹿じゃねぇの、俺」


 わざわざ探すまでもなく、そのメモ帳は机の上に置かれていた。そういえばさっき、調べ物があるとか言って玲が俺の部屋に引きこもっていた。……もしかしてあいつが、これをここに置いたのだろうか?


「ほんと、あいつはどこまで分かってるんだよ」


 メモ帳を手に取り、開いてみる。けれどそこには、大したことは何も書かれていない。役に立ちそうで全く立たなかった、女の子にモテる為の方法がいくつか書かれているだけで、消えた筈のあの子のことなんて何も書かれてはいなかった。



 ……でも、思い出す。俺がオカルト研究会の部室で1人でいると、彼女は決まって部室にやって来て俺のことを……童貞だって馬鹿にするんだ。


 俺がどうやったらモテるんだ? って聞いても彼女は悪戯気に笑うだけで何も教えてくれなくて、でもそんな時間が……とてもとても楽しかった。




 そしてその頃から、俺は──。




「点崎。お前はほんとに、馬鹿だな」



 メモ帳を机に置いて、鏡花と玲が眠る父さんと母さんの部屋に向かう。


 何から話して、これからどうしたいのか。それはまだ、自分でも分からない。けれどこの胸の高鳴りが収まらないうちに、どうしても2人に話しておきたかった。



 ……それで2人を裏切ることになったとしても、俺は──。



「……思い出したんだ。あいつの、笑顔を」



 覚悟を決めて、部屋の扉を開ける。



「直哉」



「なおなお」



 すると、眠っていた筈の2人がどうしてか目を覚ましていて、俺が何か言う前に、たった一言……こう言った。




「──いってらっしゃい」




「ああ。行ってくる」



 だから俺はそれだけの言葉を返して、全ての迷いを捨てて走り出す。



 ……青い桜を、探しに。



 ◇



「……よかったの?」


 葛鐘くずかね れいは大きく息を吐いてから、朱波あかなみ 鏡花きょうかにそう尋ねる。


「玲ちゃんこそ、よかったの? 玲ちゃんはずっと前からこうなることが分かってて、色々と準備を進めてきたんでしょ?」


「それは買い被り過ぎだし。……あーしはただ、なおなおの幸せを1番に考えてきただけ。その為にささなに、お願いもしてたしね」


 合宿の時、玲はささなにとても小さなことを願っていた。そしてそのお陰で、直哉は何かを思い出し走り出した。


「……あたしは今でも、気に入らないわ。今すぐにでも直哉の背中を追って、ぎゅって抱きしめたい」


「行きたいなら、いけばいいじゃん。……多分なおなおは、あーしじゃなくて、鏡花を──」


「でもいいのよ。あたしが好きな直哉は、優しくて温かい直哉だけど、でも……いつまでもバカみたいに青い桜を探し続けてたあいつが、あたしは1番好きなの。だから……いいのよ」


 鏡花は身体から力を抜いて、ベッドに倒れ込む。


「それにあたしはまだ、諦めた訳じゃないしね。ここは点崎さんに譲ってあげるけど、最後に笑うのはあたしよ」


「……鏡花は相変わらずだね。でも、ざーんねん。なおなおが最後に選ぶのは、あーしだよ。だってあーしはこの後のことも予想して、色んな作戦を考えてるんだから」


「腹黒い女は、嫌われるわよ」


「純情ぶっててモテるのは、子供のうちだけだし」


「ぶってる訳じゃなくて、あたしは純情なのよ。……恋する女の子は、皆んなそうなの」


「……かもね」


 2人は、笑う。その笑みに、一欠片の後悔もありはしない。


「まあでも、あたしは点崎さんのことなんて1ミリも覚えてないけど、彼女のお陰で直哉と沢山イチャイチャできたんだし、少しはお礼をしないとね」


「そそ。悲劇のヒロインぶってる女とか、あーしの1番嫌いなタイプだし。……ちょっと前の、鏡花みたいにね」


「うるさいわね。自分だって、似たようなことしてた癖に」


 2人はただただ楽しそうに、言葉を交わす。そこにはもう、不安なんてどこにもない。


 消えてしまった、後輩の女の子のことも。日本中に咲いた、青い桜のことも。もう会えない、ささなのことも。訳知り顔の、先輩のことも。増え続ける、失踪者のことも。



 2人は微塵も、気にしていない。



 だって直哉が、走り出したから。直哉が真っ直ぐな目をして走り出したら、全て上手くいく。直哉は2人のヒーローで、彼があの顔で走り出したら、できないことなんて何もない。



 2人はそう、信じていた。



「ねぇ、鏡花。なおなおの誕生日にさ、パーティー開こうよ。あーしと、鏡花と、なおなおと、そして……点崎ちゃんでさ。皆んなでパーっと、騒がない?」


「いいわね、それ。……あたしの考えたとっておきのプレゼントで、直哉をメロメロにしてやるわ」


「どうせその作戦って、胸を押しつけるだけでしょ? あんまりやり過ぎると、なおなおに飽きられるよ?」


「大丈夫よ。直哉はあたしの胸が、大好きだから」


 2人は楽しそうに未来を語りながら、ゆっくりと眠りにつく。……直哉が隣に居なくても、2人は最後まで笑っていた。


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