ダメです! 先輩!



「……じゃあ、もしかしてなおなおは……点崎って子が、好きなのかな?」


 点崎。その名前を聞いた瞬間、頭に割れるような痛みが走る。そして一瞬だけ、とても大切な誰かのことを思い出す。


「……てん、さき」


 ……けれど、それは本当に一瞬。手が届いたと思った瞬間、その記憶は夜風にさらわれ、どこか遠くへと消え去る。


「点崎。……あーしもね、その名前に聞き覚えがあるんよ。そんな名前知らないはずなのに、どうしてか忘れてるってそんな風に思っちゃう」


「……いや、そもそもお前は、どこで聞いて来たんだよ? その点崎って名前を」


 点崎。その名前は、俺がどれだけ思い出そうとしても、思い出せなかった名前だ。なのに玲は当たり前のように、その名前を口にした。


「別にそれは、大したことじゃないんよ? ……なおなおさ、覚えてる? あーしとなおなおと鏡花が、気づけば山にいた時のことを」


「そりゃ覚えてるけど、それがどうかしたのか?」


「その前にね、あーしたちは行ってたみたいなんよ。その点崎さんのおうちに。……スマホの位置情報を辿ってたら、それが分かったの」


「……スマホの位置情報。その発想は、なかったな。……それで? お前のことだから、もう行ってみたんだろ? その点崎って子の所に」


「うん。でも別に、何も無かった。点崎って家には、人の良さそうな夫婦が2人で住んでるだけで、違和感の正体も何も分からなかった」


「そうか。……いや、でもじゃあどうしてここで、その点崎って名前を口にしたんだ? そんなことをしても、どうにもなりはしないだろ?」


 点崎。確かにその名前には、聞き覚えがある。足りないはずの大切な誰かを、思い出しそうになる。……でもだからって、俺はもう……。


「……もちろん、なおなおの気持ちは分かるよ? なおなおにはもう時間がないし、何より今のなおなおの隣には……あーしと鏡花がいる。だからわざわざ、他の子のことを考える必要なんてどこにもない。なおなおはそう、言いたいんでしょ?」


 玲はそこでまた、俺の身体を抱きしめる。そしてどこか儚げな笑顔で、真っ直ぐにこちらを見上げる。


「でもあーしはわがままだから、できればなおなおには全部思い出した上で、あーしを選んで……ううん。全部思い出した上で、決断して欲しいの。……例え選ばれるのが、あーしじゃなかったとしても」


「なんだよ、それ。そんなの、お前らしくねーよ。……いや、もしかしてお前。また前みたいに、自分は裏方に徹するとか、そんなことを言うつもりか? でも俺は──」


 そこから先の言葉は、熱い唇に遮られる。……玲の舌が口の中で暴れ回って、頭が真っ白になってしまう。


「……ふぅ。なおなおの唇、美味しい」


「……いきなりは、辞めろよ。びっくりするだろ?」


「やだ。あーしはなおなおのびっくりした顔が、好きなの」


 玲はからかうように口元を歪めて、そのまま言葉を続ける。


「でも大丈夫だよ、なおなお。あーしはもう、自分の想いを諦めたりしないから。……けど、だからこそ、なおなおにも自分の想いを諦めて欲しくないの」


「意味が分からねーよ、玲。そもそも俺は、今も……いや俺は昔から、自分の想いを諦めたことなんて一度もないよ」


「……そうだね。なおなおは昔から、一途だからね。でもあーし、何度も言ってるでしょ? なおなおには、人を好きになるってことを


 玲はそこでまた、キスをする。甘えるような軽いキスを何度も何度も繰り返して、くすぐったそうに笑みを浮かべる。


「…………」


 ……やっぱりそんな玲は、凄く可愛い。そう強く思う。


「……なあ、玲」


「なに? なおなお」


「お前はさ、俺がその……点崎って子のことが好きだったって、そう言いたいのかもしれない。けど、俺は──」


「違うし。なおなおが好きなのは、あーし。それは絶対に、譲らない」


「……じゃあどうして今頃になって、こんなことを言うんだよ? 俺には超能力なんてないから、お前の考えが分からねーよ」


 俺は真っ直ぐに、玲を見る。玲はそんな俺の視線を受けて、とても優しい笑みを浮かべる。そしてそんな笑みを浮かべたまま、玲はゆっくりと──。




「要するにただの、嫉妬でしょ?」




 背後から不意に、そんな声が響く。そして俺がそちらに視線を向けるに前に、とても柔らかな感触が背中に押しつけられる。


「……鏡花。どうしてここに、居るんだし」


 玲は珍しく驚いたように、そう告げる。


「ただの勘よ。……それより直哉。玲ちゃんのちっさい胸のより、あたしの大きいおっぱいの方が気持ちいいでしょ? ほら、こうやって背中に押しつけられるの、あんた好きでしょ?」


 鏡花はそう言って背中に胸を押しつけながら、妙に艶かしい動きをする。


「……むー。なおなお、何でこんなにドキドキしてるのさ? やっぱりなおなおなは、鏡花くらい大きい方が好きなの?」


 俺の胸に耳を当てた玲が、拗ねたようにこちらを見上げる。


「当たり前でしょ? 男は皆んな、大きいのが好きなのよ。だから直哉だって、大きいのが好きなの。そうでしょ? 直哉?」


「それは確かに……じゃなくて、ちょっと待て。そんなことより、なあ鏡花。嫉妬してるだけって、どういう意味だ?」


 俺がそう問うと、2人は同時に息を吐く。……こんな近くでそんなことをされると、熱い吐息が首筋にかかって、凄くくすぐったい。


「……女の子はね、皆んなわがままなのよ。それが例え過去の女でも、もうどこにも居ない誰かでも、負けたくないって思うものなの。……都合よく誰かを忘れてるから、好きだって言ってもらえた。……そんなの、私だって嫌よ」


「あーしは、それだけじゃないし。あーしは凄くわがままだから、なおなおに向けるに想いの強さでも、誰にも負けたくないって思ってる。なおなおのことが1番好きなのはあーしだって、そう胸を張りたい」


 2人の熱い言葉と熱い肌の感触で、俺の心臓は更にドキドキと高鳴る。


「…………」


 でも俺は、何も言えなかった。玲の……いや、2人の想いは、何となくではあるが理解できた。つまり2人は、ささなとの約束があるからでも、その点崎って子を忘れているからでもなく、ただ心から自分だけを愛して欲しいと、そう言っているのだろう。


 ……でも俺は今更、その点崎とかいう子の為に時間を使おうとは思わない。


 だって俺にはもう、あと10日しか時間がない。……いや、そんなことより、ここまで真っ直ぐに俺を想ってくれる2人が、こんなにそばに居るんだ。なのにわざわざ他の女を探そうだなんて、どうしても思えない。


「ふふっ。なおなおは、可愛いなぁ」


 玲は唐突にそう言って、また俺にキスをする。


「ちょっ! 何やってるのよ、玲ちゃん! あたしの前で直哉にそんなことするなんて、許さないわよ!」


「鏡花にはその無駄にでかい胸があるんだから、これくらい別にいいっしょ?」


「よくないわ! ほら直哉、こっち向いて? あたしが玲ちゃんより100倍気持ちいいキス、してあげるから。ほら、早く!」


「……って、鏡花。分かったから、無理やり首を引っ張るな。痛いって!」


 そんな風に3人でわちゃわちゃしていると、いつの間にか空が明らんできていた。


「ねぇ、なおなお」


 すると玲はようやく俺から手を離して、遠い空に視線を向ける。


「あーしはね、最近すごく楽しいんだ。ちょっと前までは、なおなおと仲良くできてた昔のことばかり考えてたのに、今はもう昔のことなんて思い出さない」


「…………」


 玲のその言葉に賛同するかのように、鏡花もまた空を見上げる。


「でもきっと、こんな生活は長くは続かない。なおなおがあーしか鏡花を選んだら、どうあれ今の生活は終わっちゃう」


 でもね、と玲は笑う。朝焼けのように眩しい笑みで、彼女は笑う。


「でも、あーしはも鏡花も強い女の子だから、大丈夫。振られたって傷ついたって、絶対に諦めない。今がダメなら明日があるって、そう思ってまたなおなおの所に行くから」


「それは少し、怖いな」


 俺は軽く、息を吐く。


「それくらいあんたは、愛されてるのよ」


「そうだし、なおなお」


 2人は俺に笑いかけて、手を伸ばす。だから俺はその手を握って、空を見上げる。


「夜が明けたな」


 つまり残りあと、9日。笑っても泣いても、もう9日しか時間がない。……だからやっぱり、点崎って子のことより、この可愛くて優しい2人と一緒に居たいと俺は思ってしまう。


「…………」


 ……でも同時に、それと同じくらいの親しみを、点崎って名前に感じてしまう。きっと2人には、そんな俺の心なんてお見通しなのだろう。


「さて。じゃあ行こっか、なおなお」


「……どこにだよ?」


 玲の唐突な言葉を聞いて、俺は呆れたように息を吐く。


「そんなの、決まってるっしょ?」


 しかし玲はそんな俺の態度なんて気にもせず、当たり前のようにその言葉を口にした。



「青い桜を、探しにだよ」


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