見られてますよ? 先輩。



「うおっ!」


 俺はまた、耳に言葉にできないような刺激を感じて、慌てて身体を起こす。


「あ、なおなお起きた。……おはよう。あーしの太ももの寝心地は、どうだった?」


 そして玲は、そんな俺の様子を楽しそうに眺めながら、弾む声でそう言葉を告げる。


「……おかげさまで、よく眠れたよ。起こし方さえ良ければ、完璧だった」


「ふふっ、それは良かった。……でもなおなおって、耳が弱いんだね。ちょっとはむってしただけで、毎回かわいいリアクションしてくれるんだもん。……あーしちょっと、癖になりそう」


「勘弁してくれ。そんな変な癖をつけられたら、おちおち昼寝もできなくなる」


 俺は肩から力を抜くようにそう言って、軽くため息を吐く。……けど実際、よく眠れたのは確かだ。寝不足だったからというのもあるのだろうけど、それでも玲の膝枕はとても寝心地が良くて、頭がかなりスッキリした。


「それじゃ、そろそろ出よっか? 今日はせっかくのデートなんだし、あんまり部屋に閉じこもってると勿体ないしね。……まあ、なおなおがこのままエッチなことしたいって言うなら、あーしはそれでも構わないけど……」


 玲は色っぽい目つきで、また俺の耳に唇を近づける。……だから俺は耳を隠すように抑えて、慌てて一歩距離をとる。


「やめろ。そんな溶け込むような瞳で、こっちににじり寄るな。……つーか、今日はやりたいことが色々あるんだろ? ならさっさと、外に出ようぜ? お前のおかげで良く眠れたから、ちょっと身体を動かしたい気分なんだよ」


「ふふっ、分かった。なおなおがそう言うなら、今はちょっと我慢するね?」


 ニヤリと含みのある笑みを浮かべる玲に、俺は呆れたような笑みを返して、ゆっくりとベッドから起き上がる。そして身体のコリをほぐすように、軽いストレッチをする。




 するとふと、背後に誰かの視線を感じる。



「────」



 だから俺は慌てて、背後に視線を向ける。





 ……けどそこにあるのは、綺麗に掃除された白い壁だけ。どれだけ目を凝らしても、彼女の姿は見えない。


「どうかしたの? なおなお。……あ、もしかしてお化けでもいた?」


「…………いや、ちげーよ。ただちょっと……いや、何でもない。それより、早く行こうぜ?」


 俺は余計な思考を振り払うようにそう言って、不思議そうに首を傾げる玲の手をとって部屋を出る。



 そうしてまた、楽しい1日が動き出した。



 ◇



「……すっげー、星空」


 そして、時間はあっという間に過ぎ去って、時刻は夜の8時過ぎ。俺はゆっくりと進むクルーザーに乗りながら、玲との1日を振り返っていた。



 玲の膝枕で昼寝したあと、俺たちはまた海へと繰り出した。そして日が暮れるまで、水の掛け合いをしたり子供みたいに走り回ったりして、時間を忘れて遊びまわった。



 だから午後の時間は、どこか友達と遊んでいるような感覚だった。



 ……まあ時折、玲はこちらをからかうように胸を押しつけてきたり、耳たぶに噛みついたりしてきたけど、それはアプローチというよりは、おふざけという感じだった。



 だからきっと今日はこのまま楽しく遊んで、友達と遊ぶような雰囲気で終わる。俺はどこかで、そんな風に思っていた。




 ……そんな風に、勘違いしていた。




 そしていつのまにか日が暮れて一緒に夕飯を食べたあと、玲は唐突にこう言った。


 


『ねぇ、なおなお。今からちょっと、夜風に当たりに行かない?』



 だから俺はてっきり、夜の散歩にでも行くのかと思って、軽い気持ちで首を縦に振った。


「……けどまさか、夜風に当たる為に船まで出すとはな……。やっぱり金持ちは、スケールが違う」


 散歩だと思って外に出た俺は、あれやこれやという間に船に乗せられ、小型のクルーザーで夜風を存分に浴びていた。


「お待たせ、なおなお。……星、見てたの?」


 そしてそんな俺の呟きに返事をするかのように、綺麗な金髪を風になびかせた玲が、夜の闇から姿を現わす。


「ああ。お前も見上げてみろよ。すげー綺麗だぜ?」


「……ううん。あーしは、いいよ。それより、なおなお。乾杯しない? あーしのお気に入りのジュース、持って来たからさ」


 玲は昼間より幾分か落ち着いた声でそう言って、淡いオレンジ色のジュースが入ったグラスを俺に手渡す。


「……一応確認するけど、これアルコール入ってないよな?」


「なおなおは疑り深いなぁ。大丈夫。なおなおとの楽しいデートに、そんなつまんない真似しないよ。……酔って船から落ちたりしたら、洒落にならないしね」


「だな。悪い、つまんないこと言った。それじゃあ、乾杯するか? ……あーでも、何に乾杯するんだ?」


「ふふっ。そんなの決まってるし! 今日の楽しい1日と、なおなおの瞳に乾杯!」


 玲は花のような笑顔を浮かべて、俺のグラスに自分のグラスを軽くぶつける。


 だから夜空に似つかわしくないキンッとした音が響いて、俺たちは同時にグラスに口をつける。


「うん、美味い。……でも俺の瞳に乾杯するくらいなら、お前の瞳に乾杯した方が良かったんじゃないか?」


「そう言うなら、今度はなおなおが音頭をとってよ」


 玲は楽しそうな笑みで、グラスを前に差し出す。だから俺は、失言だったなと思いながらも今更なしとは言えないので、覚悟を決めて口を開く。


「じゃあ楽しい1日と、その1日を作ってくれた玲の瞳に乾杯!」


「いえーい! かんぱーい!」


 そしてまたグラスを合わせて、ジュースを飲む。


「…………」


 玲とこうやってふざけていると、自然と頬が緩む。……きっとそれは、今の彼女が誰よりも真っ直ぐに、笑ってくれるからなのだろう。だから俺も余計なことは忘れて、笑うことができる。


「じゃあなおなお。ジュース飲み終わったら、グラスはそこのケースに入れといて。落としたら危ないしね」


「分かった」


 俺はそう言葉を返して、言われた通りにグラスをしまう。そしてもう一度、視線を空に移す。


「…………」


 そこに広がっているのは、昨日と同じ遠い夜空。……だからそんな夜空を眺めていると、どうしても……思い出してしまう。昨日の夜の美綾のことを……。


「あ、なおなお。今、他の女のこと考えてたでしょ? ……ダメだよ? なおなお。今のなおなおの隣にいるのはあーしなんだから、今はあーしのことだけ見て」


「…………悪い。そうだよな」


 俺はそう言って、思考を切り替えるように息を吐く。そして視線を、遠い空から隣の玲に移す。


「…………」


 玲はただ真っ直ぐに、俺を見つめている。頭上には、落ちてしまうんじゃないかってくらいの星空が広がっている。なのに玲はその美しい景色には目もくれず、ただ真っ直ぐに俺だけを見つめ続ける。


「ねえ、なおなお」


「なんだ?」


「ふふっ。なおなお。なおなお」


「なんだよ、それ。もしかして、ふざけてるのか?」


 そう俺が軽く笑うと、玲も同じように笑みを浮かべる。そして彼女は何かを確かめるように、1本1本丁寧に自分の指を俺の指に絡めていく。


「ねえ、なおなおは知ってる? あーしがなおなおのことを、なんでなおなおって呼ぶようになったのか」


「どうしたんだよ? 急に。……いやでもそういえば、聞いたことなかったな。その理由……」


 中学2年の夏。とある事件をきっかけに、久し振りに玲と話をした。そしてその時から玲は、なぜか俺のことを『なおなお』と呼ぶ。


 小学生の時は『直哉』と呼ばれていたから、当時はかなり違和感を覚えた。けど、今となってはもう馴染んでしまって、わざわざその理由を尋ねようとは思わなかった。


「あーしはね、怖かったんよ。だから初めは、言い訳だったの。なおなおって、呼び方は……」


 満天の星空。心地いい潮風。ゆらゆらと揺れる船。しっかりと繋がった温かい掌。



 そして、その全てを感じなくなるくらい儚い声で、玲はゆっくりと自分の想いを語り出した。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る