羨ましいです。先輩。
「今からなおなおにはね、あーしを口説いてもらおうと思うんよ」
玲は本当に楽しそうな笑みを浮かべながら、そんなことを言ってのけた。そして疑問を挟む暇もなくすぐに車に乗せられて、気づけば別荘に戻ってきていた。
「じゃあ、あーしは自分の部屋に戻るから。なおなおは、準備ができたらあーしの部屋にきてね」
そして玲は早口にそう言って、スキップしながら自分の部屋に戻ってしまう。
「……いや、どうしろって言うんだよ……」
だから俺の口からは、そんな言葉しか出てこない。
……いやまあ、玲のこういう無茶苦茶な行動は、今に始まったことではない。だから別に本気で困っている訳じゃないし、それに何より今日は1日玲に付き合うと決めている。
「だからまあ、口説いてやるか。どうせ玲のことだから、色々と考えてのことなんだろうし」
俺はそう呟いてから、思考を切り替える為に冷蔵庫からミネラルウオーターを取り出して、一気に飲み干す。そして大きく深呼吸をしてから、玲の部屋の扉をコンコンと軽くノックする。
「入っていいか? 玲」
「あ、なおなお? ごめん、ちょっと待って。今シャワーから、出たばかりだから」
「あ、ああ。そうか、悪いな」
玲は俺が来るのを知っていた筈なのに、どうしてシャワーなんて浴びたんだ? ……なんて疑問を、今更口にしたりしない。
だから俺はそのまま、少しドキドキしながら扉が開くのを待つ。……そしてしばらくしてからゆっくりと扉が開いて、まだ濡れている髪をバスタオルで乾かしている玲が、姿を現わす。
「入っていいよ? なおなお」
「悪いな、間が悪くて」
「なに言ってんだし。なおなおなら、いつだって大歓迎だよ」
玲はそう言って、にこりと花のような笑みを浮かべる。
……なんていうか玲はもう、完全に演技してるって感じだ。だから俺もとりあえずは、本当に玲を口説きに来たという体でいくことにする。
「それで? あーしに何か用があるの?」
玲はベッドに腰掛けて、ショートパンツから惜しげもなく晒された脚を見せつけるように、脚を組む。
「いやちょっと、話がしたいと思ってな。……でもとりあえずは、髪を乾かしてからでいいよ」
「別に、気を遣う必要なんてないし。あーしの髪の毛なんかより、なおなおの方がずっと大切なんだから。……というか、なおなおもこっち来て座りなよ。そんな所で、突っ立ってないでさ」
「……そうだな」
そう言って俺は、玲の隣に腰掛ける。……けどなんていうか、俺が玲を口説きに来たという設定の筈なのに、もう既に玲にペースを掴まれている。
「なあ、玲。俺が髪、乾かしてやろうか?」
だから俺はそう言って、玲に揺さぶりをかけてみる。
「別いいけど。……どうしたのさ、急に。もしかしてなおなお、あーしの髪に触りたいの?」
「そうだよ。お前は……俺に触られるのは、嫌か?」
「そういう言い方は、ずるいし。……分かった。じゃあそこにドライヤーあるから、それ使って」
玲はそう言って、机の上に置かれたドライヤーを指差す。だから俺はそのドライヤーをコンセントにさして、優しく玲の髪を乾かしていく。
「お前、髪……綺麗だよな。染めてるとは思えないくらい、サラサラしてる」
「そうかな? まあ結構、気を遣って手入れしてるしね。だから……褒めてくれるのは、嬉しいかも。ありがとね、なおなお」
「……別にいいよ。思ったことを、そのまま言っただけだしな」
「…………」
「…………」
そしてそこでなぜか俺も玲も黙り込んでしまって、この場にはただドライヤーの音だけが響き続ける。
「よしっ。これで乾いたかな。……どうする? ブラッシングとかも、してやろうか?」
「ううん。それよりあーし、そろそろ聞きたいかな。なおなおがここに来た、理由を……」
そう言って玲は、上目遣いで俺の顔を覗き込む。だから俺は、考える。
そもそも女の子を口説くのって、一体どうすればいいんだ? と。
「…………」
……しかしいくら考えても、答えは一向に出てこない。だから俺はしかたなく、強硬策に出ることにする。
「……玲」
俺は囁くように彼女の名前を呼んで、包み込むように背中から優しく抱きしめる。
「……ちょっ、え? なおなお? どうしたのさ、急に抱きついたりして……」
「急じゃねーよ。……本当はお前も初めから、気づいてたんだろ? 俺がここに来た、理由を。……それとももしかして、嫌か?」
「だから、その言い方はずるいし。……分かった。なおなおがそこまであーしを求めてくれるなら、いいよ? あーしの全てを、なおなおにあげる。…………でもあーしこう見えて初めてだから、優しく……してね?」
そして玲は熱い掌で俺の手を握って、そのまま俺の手を自分の胸の方に引き寄せる。だから俺は、そのまま玲を──。
「って、あぶねっ! なんかそのまま、流されるとこだった!」
昨日、美綾にも言った通り、俺は軽々しく誰かに手を出すつもりは無い。けど、なんていうか今は、思わず場の雰囲気に流されてしまいそうだった。
「あ、バレちゃった。流石なおなお、鋭いね」
「いや、鋭いとかじゃねーだろ。つーかお前は一体、なにを考えてるんだよ? 一旦区切りもついたし、そろそろ説明しろよ」
「ふふっ。理由もろくに分かってないのに、ちゃんとあーしの言った通りに口説いてくれるなおなおは、やっぱり可愛いよね」
「うるせーよ。あんまふざけてると、お前の頭をぐりぐりするぞ?」
「あ、なおなおが怒った。……ふふっ。そんな顔で睨まなくても、ちゃんと説明するから大丈夫だし。……じゃあネタばらしするとね、あーしは一度でいいから、なおなおに口説いて欲しかったんよ」
「……それだけ?」
「うん。それだけ」
玲はそう言って、素直に頷く。
「いやお前……って、まあいいか。文句を言うのは、やめておいてやるよ。何だかんだで、俺も楽しかったしな」
「ふふっ。意外と楽しいもんでしょ? ……なおなおはさ、さっきあーしたちは辛い思いをしてるとか言ってたけど、なんだかんだで楽しいもんなんよ。色々考えて、好きな人に言い寄るのは」
「……かもな。……つーかじゃあお前の方は、どうだったんだ? 俺に言い寄られて、ドキドキしたか?」
正直自分では、あまり上手くできていたとは思えない。かなり無理やりだったし、少しわざとらしかったような気もする。
……けど玲はそんな俺の想像に反して、自分の心音を確かめるように胸に手を当てる。そして顔を赤らめながら、照れたように笑みを浮かべる。
「……うん。すっごいドキドキした。想像してた10倍以上、ドキドキしてる。たとえ嘘でも、なおなおに背中から抱きしめられてエロいことされそうになったら、流石のあーしでもくるものがあるし」
「……そう言ってもらえるのは嬉しいけど、でもちょっとわざとらしくなかったか?」
玲のはにかむような笑顔を見ていると、こっちまでドキドキしてしまう。だから俺は誤魔化すように、そんなことを口にする。
「…………疑うんなら、自分で確かめてみるといいし」
そして玲はまるでこちらの隙をつくように、俺の顔を掴んで自分の胸に押しつける。
「…………」
……確かに言葉通り、玲の心臓はすごい速さで脈打っている。けどそんなことより、顔全体に押しつけられた胸の感触に、こっちがドキドキしてしまう。
「ふふっ。なおなお、顔赤くなってる。あーしの胸……意識してくれてるんだ……」
「……当たり前だろ? つーかいい加減、離しくれ」
「まだダメだし。……それより、なおなお。1つだけ訊きたいんだけどさ、昨日点崎ちゃんと……したの?」
顔を胸に押しつけられているから、玲の表情は分からない。けれど玲の声はさっきよりずっと真面目な響きで、だから俺も茶化さず真面目に答える。
「してないよ。……昨日、美綾にも言ったけど俺は好きだって胸を張れないうちは、そういうことをするつもりはないんだよ」
「…………そっか。じゃあここでいくらあーしが迫っても、抱いてもらえないんだね」
「ああ。……ごめんな」
「謝んないでよ。あーしでもそれはちょっと、傷つくし」
「…………」
そう言われると、返せる言葉が無い。だから俺はただ黙って、玲の激しい心音を聴き続ける。
「ふふっ、なんて冗談だし。あーしはそれくらいじゃ、傷つかないよ。……てかそれよりなおなお、ちょっと眠くない? 朝はあーしが無理やり起こしちゃったけど、ほんとはすっごく寝不足なんしょ?」
「いやそうだけど、別にそれくらい何ともないぜ?」
実際、昨日は2時間くらいしか眠れていない。だから本当はかなり寝不足の筈なんだけど、玲といるのが楽しくて眠気なんてどこかに消えてしまった。
「ほんとに? ……でもまあちょっと、お昼寝しよっか。あーしがこうやって膝枕しててあげるから、1時間くらい眠りなよ。なおなおにはこれからもっと、頑張ってもらわないといけないしね」
「……いいのか?」
「うん。でも、あーしだって明日の鏡花に気を遣ってやるつもりは無いから、今日眠れるのはこの1時間だけになると思うよ? ……だから今は、ちょっと眠るし」
玲はそう言って、俺の頭を自分の膝に乗せる。そして優しく、俺の頭を撫でてくれる。
「…………」
少し肌寒いくらいの、冷房。温かな、玲の膝。そして昨日の疲れもあってか、意識してしまうと少しうとうととしてしまう。
「……ごめん、玲。じゃあちょっと、眠らせてもらうわ」
「うん、いいよ。……おやすみ、なおなお」
そして俺は、玲の温かさを感じながら短い眠りにつく。
……玲の思惑に、最後まで気がつかないまま……。
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