痛いです。先輩。



 抱いてくださいと、美綾は言った。それは彼女がいつか言った言葉と同じもので、でもその言葉は彼女自身が……否定した筈だ。



『私は同情で抱かれたくは無いんです。……先輩が私を好きって言ってくれたら、私が先輩を抱いてあげます』



 彼女は確かに、そう言った。だから俺も、好きだって胸を張れないうちは、絶対に誰にも手を出さないと心に固く誓っていた。



「…………」



 なのに美綾は、私を抱いてくださいと言った。今度は本気だって、そんな言葉まで添えて。



「なあ、美綾。お前はそれで、いいのか?」


「…………はい。私ずっと、決めてたんです。一緒にこの星空を見上げて、それでも先輩の心が動いてくれないなら、私自身を差し出そうって。そうずっと……決めてたんです」


「でもお前、言ってたろ? 好きだって言わせてみせるって。先輩が私を好きだって言ってくれたら、私が先輩を抱いてあげますって。なのに……お前はそれで、本当にいいのか?」


「…………」


 その言葉に、美綾は返事を返さない。だからこの場にはただ、波の音だけが響き続ける。


「……私、不安なんです。本当に……本当は、怖くて怖くて仕方ないんです。だって私は……絶対に忘れちゃいけない思い出を、忘れてしまった。なら……また忘れちゃうかもしれない。楽しかったこの時間も、他の先輩との思い出も全部……忘れちゃうかもしれないんです……! だから私は、確かなものが欲しいんです! 絶対に忘れられない傷を、この身体に刻んで欲しいんです……!」


 星が流れる時間は、もう終わった。なのに美綾の瞳からは、まるで流れ星のように一筋の涙が溢れる。



 ……何をやっているんだ、俺は。美綾が不安だったことなんて、初めから分かっていた筈だ。なのに俺はこんなに冷たい涙を、美綾に流させてしまった。



 でも……どうしても、言えなかった。



 こんなに側に居るのに。こんなに近くに居るのに。どうしても、好きだっていうたった一言が言葉にできない。



「美綾」



 だから俺は、美綾を強く抱きしめた。彼女の不安が少しでも和らぐよう、強く優しく美綾に触れる。


「…………温かいです、先輩の身体。でもも……足りないんです。これじゃ、ダメなんです。私は確かに……同情では抱かれたくないって言いました。ちゃん愛情で、私に触れて欲しいって……。でも……今だけは、同情でもいいです! だからお願いです! 今日だけでいいから、私を……先輩のものにしてください……!」


 美綾の身体は、震えている。それもいつかと同じで、でもあの時よりずっと美綾の心は追い詰められている。


「私……怖いんです……! 先輩は偽物でもいいって言ってくれたけど、それでやっぱり怖いんです! だってこの私は本当の私じゃないかもしれなくて、こうやって抱きしめてもらったことも忘れちゃうかもしれなくて、それで日が昇ったら先輩は別の女とデートするんです! こんなに怖いことがいっぱいあって、私もう耐えられないんです……!」


 痛いくらい強く、美綾の腕に力がこもる。溶け合うくらい近くで、俺たちは抱きしめ合う。



 でも俺は、口を開けない。



 ……だって違うんだよ、美綾。俺もお前と同じことをささなに言って、そしてささなはそんな俺を受け入れてくれた。



 でもだから俺は、ここに居るんだ。



「……分かってるんです。今の私は、先輩を困らせてるだけだって……。でも……今の私じゃ、届かないんです! 先輩にまだ、好きって言ってもらえないんです……! だからせめて、先輩の温かさを私にください……! そうじゃないと……私、怖くて怖くて仕方ないんです……。だから……ごめんなさい、先輩……!」



 美綾はそう言って、キスをした。



 冷たい唇を合わせて、お互いの熱を奪い合う。ドキドキしてふわふわするけど、そのまま倒れてしまいそうになるくらい、危ういキス。



 美綾は必死になって、想いを叫ぶ。

 美綾は必死になって、キスをする。



 そしてだから俺は、その全てを受け入れて優しく彼女を抱きしめる。……いつかの誰かが、俺に同じことをしてくれたように。そして美綾が、俺と同じ間違いを犯さないように。



「……なあ、美綾。俺もさ、お前と同じことを言ったんだよ。不安と後悔と恐怖で、逃げるように愛を叫んだ。……こうなるなら、ちゃんと話しておけばよかったな。中学の時に、俺が何をしたのか」


 あの時の俺も、同じようにささなに愛を叫んだ。ささなが消えてしまうんじゃないかっていう恐怖と、また願ってしまったことへの後悔で、俺は逃げるようにささなの胸に縋りついた。



 ……そして彼女は、そんな俺を受け入れてくれた。だから何度も何度も肌を重ねて、言い訳するみたいに、お互いの身体を貪りあった。




 でも、それで癒されたのはその時だけだった。次の日には、また俺の胸は痛んだ。何度愛を叫んでも、どれだけ身体を重ねても胸の痛みは消えてくれない。




 だから俺は永遠に、彼女を求め続けた。




 ささなはそんな俺の想いを、美しいと言った。そんな俺だからこそ、私は君が好きなんだって。……でも俺はそんな思いを、美綾にして欲しくはない。あんなに真っ直ぐだった美綾の想いを、言い訳になんてして欲しくないんだ。



「なあ、美綾。身体を交えることはさ、確かなことじゃないんだよ。俺とささなは……そういう関係を持った。けど、それでも俺たちは、同じ所にはいられなかった。……だから今俺がお前を抱いても、きっと明日の夜には今日よりもっと辛くなる。そして多分それは、俺が側に居ても変わらない」


「……じゃあ、じゃあ私はどうすればいいんですか! この……この痛みは、この不安はどうすれば、無くなるって言うんですか!」


「…………」


 その答えは、俺にも分からない。だから俺も未だにささなのことが忘れられなくて、気づくと胸が痛み出す。



 好きだって言うのは簡単だ。……身体を重ねるのも、そんなに難しいことじゃない。



 でも、心を……想いを重ねるのは本当に難しいことなんだ。




 自分の心は、自分1人じゃどうにもできない。俺が1人でどれだけあがいても、ささなのことを忘れられないように。美綾が1人でどれだけ苦しんでも、彼女を苛む恐怖は無くなってはくれない。



 でもどれだけ愛を囁いても、どれだけ身体を重ねても、心が通じ合う訳じゃないんだ。




 なら一体どうすれば、心を通わせることができるんだ?




 俺はそれを、ずっと考え続けてきた。でも、どれだけ考えても答えを出すことはできなくて、だから美綾を泣かせてしまった。




 ……でも、



 だからこそ俺は、





 ここで言うべきなのだろう。嘘でも言い訳でも逃避でもなくて、ちゃんとした自分の本心を。今度こそ間違わず、ちゃんと心を通わせる為に。






 だから俺は、その言葉を告げた。







「美綾。俺はお前が、好きだよ」




 そう言って俺は、冷たい唇を美綾の唇に押しつけた。



「────」



 そうして俺は驚きに目を見開く美綾に、後悔と恐怖に彩られた俺の本心を語り出した。


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