ありがとう。先輩。
そして夕方。俺は1人でぼーっと、夕日を眺めていた。
「…………」
点崎にマッサージをしてもらってから、2人で一緒に昼食のサンドイッチを食べた。そしてその後は、手を繋ぎながら海辺を散歩したり、足だけ海につけて水の掛け合いをしたりしながら、のんびりとした時間を過ごした。
……せっかく2人きりなのに、こんなにのんびりしていていいのか?
そう思わなくも無かったが、俺はそうやって点崎とのんびりするのは楽しかったし、点崎も楽しそうに笑っていた。なので問題は、無いのだろう。……それに夜には何か、サプライズを用意してくれているみたいだし。
だから昼間はただのんびりとした時間が流れて、そして空が茜色に染まる頃。点崎は唐突に、
『先輩、ちょっとここで待っててください!』
そう言って、駆け足で別荘に戻ってしまった。だから俺はそんな点崎が帰ってくるのを、のんびりと夕日を眺めながら待ち続けていた。
「……にしても、遅いな」
しかし、いくら待っても点崎が帰ってくる気配がない。スマホは部屋に置いてきたから正確な時間は分からないが、それでも点崎が姿を消してから15分以上経ったのは確かだ。
「……ちょっと、様子を見に行ってみるか」
だから少し心配になって、そう呟いて別荘の方に足を向ける。……けど、まるでそれを遮るように、背中にむにっとした感触が押し付けられて、視界が手で塞がれてしまう。
「だ〜れだ」
そして作ったような可愛らしい声で、凄くベタな台詞が響く。
「…………」
その声は、どう考えても点崎の声だ。多少は声を作っているようだが、それで間違えるような俺じゃない。だから俺は素直に、点崎! と答えようかと思ったけど、それだと少し面白みに欠ける。
なので俺は少し頭を悩まして、面白い答えはないかと考えてみる。……けど、ここで下手に変なことを言ってしまうと、
『もしかして先輩。私の声が、分からなかったんですか?』
と、点崎がヘソを曲げてしまうかもしれない。
いやまあ、点崎はそこまで狭量な奴じゃ無いんだけど、それでも今日は少しでも点崎の機嫌を損ねるようなことはしたくない。
……そう思ったのだけれど、ふと名案が閃いたので、俺はニヤリと笑みを浮かべながらその名案を言葉に変える。
「美綾。お前は……美綾だ」
「……!」
「……って、あれ? なんで黙るんだよ。もしかして、違う人だったりする?」
「し、しません。でも……え? どうして急に……下の名前で呼ぶんですか……?」
そして点崎……いや美綾は、酷く動揺したように俺から手を離して、驚いた声でそう呟く。
「いやそれは、だってお前だけ……って、点崎お前、なんで水着を着て来てるんだよ?」
「…………」
俺の問いに、点崎は答えを返さない。彼女はただ夕焼けのように顔を赤くして、照れるように俺から視線を逸らしてしまう。
「……美綾」
……そして彼女は、とてもとても小さな声でそう自分の名前を囁く。
「どうしたんだよ? 点崎。急に自分の名前を呼んだりして」
「……違います! なんでさっきは下の名前で呼んでくれたのに、すぐに点崎に戻るんですか!」
「あ、そうか。確かに戻ってたな。悪い、つい癖でな。……というか、いきなり下の名前で呼んだりして、嫌じゃなかったか?」
「嫌なわけないです! だって……鏡花先輩やギャル先輩のことは下の名前で呼ぶのに、私だけずっと苗字で……少し不満だったんです。だから……だから私のこともこれからは、下の名前で呼んでください!」
点崎……じゃなくて、美綾は凄く照れたように顔を真っ赤にしながら、それでも真っ直ぐに俺の瞳を見つめてくる。
「ああ、分かったよ。……じゃあこれからは、美綾って呼ぶけど……いいよな?」
だから俺も、美綾の瞳を真っ直ぐに見つめて、そう言葉を返す。
「……はい。いいに決まってます!」
「…………」
「…………」
そして2人して何故か、黙り込んでしまう。
だからざーざーと、この場には波の音だけが響いて、俺たちはそんな音を聴きながらただ黙って見つめ合う。
「……その、黙り込まないで下さいよ、先輩。ちょっと……ドキドキするじゃないですか……」
けど美綾は、そんな沈黙が身体に染み込む前に、ゆっくりと口を開く。
「……そうだな。……じゃあ聞くけどさ、何で今になって急に水着を着て来たんだ?」
今日2人で海辺を歩いたりした時は、美綾は頑なに水着になることを拒んだ。だから俺は勝手に、この合宿で食べ過ぎてちょっと太ったのかな? なんてことを思ったりしていたのだが、美綾は今になって急に水着を着て来たので、少し驚いてしまった。
「あ、そうでした。急に名前を呼ばれたので、ビックリして忘れちゃうところでした。……先輩。1度、目を瞑ってもらってもいいですか? ちょっと、やり直したいので」
「いいけど、やり直すって何を?」
「それは内緒です。……いいから先輩は、早く目を瞑って下さい!」
「……わかったよ」
美綾は必死なってそう叫ぶので、俺はその言葉に従う形で目を瞑る。……すると波の音に混じって、すーはーと深い深呼吸の音が聴こえてきて、少し緊張してしまう。
「…………」
ドキドキと、心臓が跳ねる。だから俺も落ち着く為に、大きく深呼吸をする。……しかしそれでも胸のドキドキは全然収まらなくて、だから俺は諦めたようにもう一度息を吐く。
するとそれに返事をするかのように、美綾が声を響かせた。
「もう大丈夫です、先輩。……目を開けてもいいですよ?」
その言葉を聞いて、俺はゆっくりと目を開く。
「────」
……するとそこには、先ほどと変わらず当たり前のように美綾の姿があった。
けど俺はそれだけで、酷く驚いてしまった。
夕焼けを背にした美綾は、その夕焼けと同じような茜色の水着を着ていて、花のような笑みを浮かべている。そして彼女はそんな水着姿を見せつけるように、その場でくるりと回ってみせた。
「どうですか? 先輩。私の水着姿……ドキドキしてくれますか?」
そう問われて、思い出す。そういえば初日のあの時から、美綾の水着姿を褒めてやれてなかったな、と。
茜色の夕焼け。同じく茜色の水着。そして美綾の、花のような笑顔。
その全てが綺麗に合わさって、一瞬時が止まったのかと思うくらい、俺は美綾に見惚れてしまった。
「……綺麗だよ」
だから俺の口からは、そんな素直な言葉だけがこぼれる。
「えへへ。……やったっ! 先輩に褒めてもらえた。ずっと私の水着だけ褒めてもらえてなくて、少しショックだったんです……。でも……ふふっ、こうやって2人きりの時に褒めてもらえるなら、待った甲斐がありました。 だから……ありがとう、先輩!」
きっと今日1日は、この時の為にあったのだろう。そう思うくらい、美綾は嬉しそうに笑ってくれた。
……そしてそんな彼女の笑顔を見ていると、なぜか俺の心臓は痛いくらいの鼓動を刻む。
「……なあ、美綾。少し、側に行ってもいいか?」
「……! は、はい! その……優しくしてくださいね?」
「バカ。別に変なことはしねーよ。……ただ……なんだろ? ちょっともう少しでいいから……いや、ただ一緒に夕焼けが見たいんだよ。だからもう少し、お前の側に行きたい。……ダメか?」
「なんだ……ううん。今は私も、そうしたいです。だから……側に来てください、先輩……」
そうして俺たちは砂浜に腰掛けて、どちらとも無く手を繋く。そしてただ、暮れていく夕日を惜しむように眺める。
「直哉先輩」
「なんだ?」
「……その、話してくれませんか? 過去のこと。この前、一緒に寝た時には聞けなかった……先輩の1番大事な過去の話。私はそれが、聞きたいんです」
「……どうしたんだよ? 急に。……いや、話すのは別に構わないんだけど……でも、楽しい話じゃないぞ? 寧ろ、せっかく楽しいこの時間に……水を差すことになるかもしれない」
「いいんです。だって……私だけでしょ? 先輩の過去を知らないのは」
「…………」
美綾の問いに、俺は言葉を返さない。だからそのまま、美綾が言葉を続ける。
「他の人たちは皆んな、先輩の全てを知ってます。そしてその上で……先輩のことを、好きだって言ってます。だから私も、知っておきたいんです。私のこの想いは、どんなことがあっても変わらないって、先輩に分かって欲しいから……」
「……分かったよ。でも……いや、分かった。じゃあ、話すよ」
きっと今までの俺なら、美綾が唐突に俺の過去の話を聞きたがる理由なんて、分からなかったのだろう。
でも今は何となく、それが分かる。
……好きな人と2人でいると、凄く温かくて幸福なんだけど、でも偶に……不安になる時がある。もしこの人が急に居なくなってしまったらどうしようと、不安で不安で堪らなくなるんだ。
そしてそういう時は、知りたくなる。少しでいいから……いや、少しじゃ満足できないくらい、愛しい人の全てを知りたくなる。
……今の俺が、美綾のことをもっと知りたいと思うように。
だから俺は、ずっと目を背けてきた過去に目を向けて、それをゆっくりと言葉に変えていく。
……そう。あのとき俺たちは、縋るように青い桜を探していた。
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