(2)夢の世界 / 籠の鳥

 生きている。


 そう感じたのは、強過ぎる照明に瞬きをした瞬間だろうか。

 気が付くとそこはアスファルトに覆われた地面ではなく、見知らぬ部屋の、ベッドの上だった。


 どうやら「わたし」は今回もまた、生き延びることができたらしい。


「ああ、お気づきになられたようですね。良かった」


 誰かの声がする。顔を確かめようと身体を起こそうとして、腕に走るちくりとした痛みに気付いた。


「あ、まだ動かない方が良いですよ。いくら点滴を打っているとは言っても、完全に熱が下がった訳じゃありませんから。今日の所は安静にしていて下さいね?」

「……瑞希?」

「はい、私ですよー。あはは、気が付きませんでしたか?」


 布団を掛け直される時に初めて、彼女の顔が見えた。

 彼女、御堂瑞希(みどう みずき)は「わたし」が通う大学の知り合いで、良家の一人娘でもある。


 そんな彼女が、何故ここに?

 などと考えるまでも無く、答えは分かり切っていた。


「貴女が、助けてくれたんだ」


 「わたし」が尋ねると、瑞希は「ええ」と頷いてみせた。


「びっくりしましたよ、いきなりかずらさんが飛び出して来たんですから。執事(バトラー)の腕じゃなかったら、危うく轢いてしまう所でした。おまけに凄い熱で、何度呼び掛けても返事してくれませんでしたし」


 そうか、瑞希の家の車だったんだ、あれ。

 どうりで、乗用車にしてはなかなか見ない形をしていると思った。

 あ、だとするとここは瑞希の家の中か。

 どうりで、やたらふかふかしたベッドだと思った。羽毛布団かな、これって。


 つまりは、結局。

 「わたし」は瑞希に、相当の迷惑を掛けてしまったみたいで。


「ごめん、なさい」


 謝ることしか、「わたし」にはできなかったが。


「いえいえ、謝らなくて良いんですよ。あんな雨の中を傘も差さずに歩いてたら、お風邪を引かれるのも仕方の無いことだと思います。てゆか、そんなことよりもですねっ」


 瑞希にとっては些細な出来事だったのか、あっさりと流してしまった。

 それから彼女は、急に身を乗り出して来る。


「水臭いじゃないですか! 傘を忘れてらしたのでしたら、私に一言連絡を下されば良かったのに! そしたら迎えに参りましたよ、ええ即座にね!」


 どうしてだろう。瑞希、今にも泣き出しそうな顔してる。


「なのに貴女はいつもいつも、お一人で解決なさろうとするんですから……こちらからすれば、心配で気が気じゃありませんでしたのに。

 私だけじゃないです、飛鳥さんだって。皆、貴女のことを気に掛けてるんですよ? なのに、貴女という人は。どうして一言、相談して下さらないんですか」

「ごめん」


 彼女の言うことは良く分からない。「わたし」の抱えている問題は瑞希には無関係で、関わり合う必要性の無い事柄だ。いやむしろ、関わってはいけない問題であるはずだ。

 「わたし」は彼女や他の人間を巻き込む気なんて無いし、首を突っ込んで欲しくも無い。恐らくそれが、最も賢い選択であるはずだ。


 なのに彼女は、それが間違いだったと言うのか。

 何故そんなことを言うのか、「わたし」にはとても理解できない──理解できないが、どうしてか反論する気にはならなかった。


「ですから、謝る必要は無いんです。ただ、約束して欲しいだけで。かずらさん、もしまた今度何かあったら私と飛鳥さんにも声を掛けると、約束して下さいませんか?」


 駄目だ、それだけは約束してはならない。

 理性がそう警告して、


「はい……分かりました」


 感情が、そんな言葉を紡いでいた。


「約束、ですよ? 守ってくれなかったら、針千本飲んでもらいますよ? それでもいいですか?」

「は……はい」


 本当に飲まされそうな気がして気後れしながらも、「わたし」が頷くと。

 途端、花が咲いたように、瑞希の顔が明るくなった。


「かずらさん、私は嬉しいです!」

「わっ」


 抱き付かれて、思わず悲鳴を上げる。

 飛鳥はともかく、お淑やかな瑞希がこんなにくっ付いて来たことは今まで一度も無い。予想すらしていなかっただけに、完全に不意を突かれる形となってしまった。


 そんなに、嬉しかったのだろうか。「わたし」には分からない。

 他人の不幸に巻き込まれることが己の幸福に繋がるとは、到底思えないのだ。そんなの、「わたし」は御免だ。

 ましてや自分から巻き込んでくれとお願いするだなんて、正気の沙汰とはとても思えない。


 ──だけど、まあ。

 瑞希や飛鳥のように、そういうのが好きな人間が居ることもまた事実で。「わたし」には、彼女達を否定する権利は無い。


 だから結局「わたし」は、瑞希の為すがままになっていた。

 それで彼女が満足なら、私がどうこう言っても意味が無いし、それに。

 悪い気はしなかったから。


 死ななくて良かっただなんて、馬鹿なことを考えてしまっていた。



 ▼



 熱が下がらなかったせいもあって、その日は瑞希の家に泊まることになった。


 彼女と一晩、色々な話をした。今まで話さなかったこと、話せなかったこと。

 中でも瑞希が興味を示したのは、我が家の居候、サトーのことについてだった。


「あれから私どもの方でも調べてみてはいたのですけど、あの方に関する情報はほとんど得られませんでした。我が御堂財閥の総力をもってしても、わかったことと言ったら好物がカレーということくらいで。どうやら、完全に過去を抹消してらっしゃるみたいですね。

 かずらさん。一応確認しておきますが、本当にサトーさんは危険人物ではないのですね?」

「ええ。人畜無害、だと思います」


 本当は暗殺を稼業としているだなんて言ったら、また私設の軍隊を呼ばれそうなので伏せておくことにする。


「そうなると気になるのは、貴女とサトーさんのご関係です。その、大変申し上げにくいのですが……かずらさんはサトーさんと、そ、その……ど、同棲なさっている訳ですよね?」

「違います。サトーはただの居候で、わたし達の間に恋愛感情なんてものはありません」

「えー、本当ですかー? た、例えばうっかり手と手が触れ合っちゃったり、うっかり抱き合っちゃったりしたこと無いですか? あ、いえ、無いなら無いで全然全く構わないのですけれども!」

「…………」


 そんな風に言われてみると、今朝そんなことがあったばかりのような気もする。


「事故なら、それなりに」

「そ、それなりにですか!? あ、あの、それってどういうレベルのっ」

「はいはい。子供はもう寝る時間ですよー」


 瑞希の言葉を遮るように、誰かが部屋に入って来た。

 白衣を纏ったその人物には見覚えがある──どころではなかった。


「や、かずらちゃん。ご機嫌いかがかしら?」

「有川先生。どうしてここに」


 朗らかな笑顔で話し掛けて来る女性、有川有栖(ありかわ ありす)こと通称アリアリは「わたし」の専属医、のはずだ。

 本来なら、こんな場所に居る訳が無いのだが。


「……まさか先生。掛け持ちしてたんですか?」

「うっ。や、やぁねぇ、そんな訳ないじゃない。愛するかずらちゃんが心配で心配で堪らなかったからこうしてわざわざ参上しましたのよワタクシは!」

「ご心配無く。実家の方には、黙っておいてあげますから」

「ううう。そうして下さると大変助かります」


 たちまち涙目になる有川先生。どうやら図星だったらしい。

 要するに先生は、日向の家から支給される報酬だけでは満足できず、御堂家からも二重に給与をもらっている訳だ。

 これは明らかに契約違反だ。「わたし」が実家に一言連絡すればそれだけで、首が飛んでしまいかねない。


 だけど、まあ、しかし。


「先生が治療して下さったんでしょう? だったらわたしの方からは、何も言うことは無いです。ありがとうございました、有川先生」


 そう。有川先生がリスクを冒してまで「わたし」を助けてくれたというのもまた揺るがない事実な訳で。そのことに感謝こそすれ、密告する理由などは無い。


「え、いやそんな、医者として患者を助けるのは当然の義務な訳で、そのー」


 お礼を言われるとは思っていなかったのか。何故か頬を赤らめてそっぽを向く有川先生。


「ええと。状況が良く分からないのですが」

「恐らくきっと、分からない方が幸せなんだと思います」


 一人取り残され、困ったように訊いて来る瑞希に。「わたし」は正直な、今の気持ちを伝えておいた。



 しかし、それにしても。

 世間は狭いというが、まさか瑞希まで有川先生の患者だったとは思わなかった。


 「観察者の眼」をもってしても見通せないものは数多く存在している。

 そのことに改めて気付かされて、「わたし」は少し嬉しくなった。



 ▼



 どれくらい寝ていたんだろう。


 起きたらまたあのバラバラを見せられるのかと思っていたけれど、どうやら違っていたみたいだった。


 冷たい石の床の上で、わたしは背伸びをして起き上がる。

 何だろ、ここ。見覚え無いんだけど、あるような気もするから不思議だ。


 四方を柱で囲まれた、まるで鳥篭のようなお部屋。セキセイインコのピーちゃんになった気分がする。

 でも、わたしの身体にはどこにも羽なんか無いし、どこにも飛んで行かないのだから閉じ込めなくても良いじゃないと思うんだ。


「ねぇ、誰か居ないのー?」


 呼んでみても、誰もやって来ない。いつもなら、すぐに執事が駆け付けてくれるのに。

 そう言えばさっきわたしが男の人達に襲われた時だって、誰も助けに来てはくれなかった。


 ──鏡の向こうの世界では、ピンチになるといつも誰かが護ってくれるのに。わたしが助けを呼ばなくたって、お節介な人達が誰かしら構ってくれた。なのに、それなのに。


 どうして今、わたしをここから連れ出してくれる人は現れないんだろう。

 ずるい、そんなの、不公平過ぎる。


「どうして、わたしばっかりこんな目に遭わなきゃいけないの!」


 どんなに叫んでも、やっぱり誰も来てくれなかった。お父さんもお母さんも、執事も他の皆も。わたしがこんなに愛しているのに、誰もこっちを振り向いてくれない。誰もわたしを愛してくれない。そうだ、だから閉じ込めたんだ。そうだ、だから──。


「皆、死んじゃえばいいんだ」


 愛してくれないのなら、もう愛してあげない。愛してくれないのなら、もう欲しがったりしてあげない。愛してくれないのなら──捨ててしまっても構わない、よね? 要らない玩具は、ゴミと同じなんだから。


 さて、それなら、これからどうしようか。とりあえず皆には死んでもらうとして、まずはここから脱出する方法を考えないと。でも、うーん。


「どうしよう」


 さっきみたいな力が使えれば、こんな檻なんて簡単に壊せると思うんだけど。

 どんなに強く念じてみても、檻はビクとも動かなかった。


 ひとしきりやってみて、無駄だと分かって寝転がる。

 白亜の天井が、酷く遠くに感じられる。

 越えたい。あれさえ越えられるならわたしは、誰よりも高く自由に飛んで行けるのに。


「…………」


 だけど、やっぱり。どんなに手を伸ばしてみても、わたしにはやっぱり届かなくて。どんなに羽ばたきたくても、わたしには羽が無かった。


「だってわたし、鳥じゃないもの」


 呟いたって、誰も聞いてはくれない。そんなこと、分かっているけど。


「だってわたし、人間なんだもん。無理だよ、そんなの」


 それでも、何かを話さずには居られなかった。


 本当に一人ぼっちになってしまっただなんて。

 そんなこと、死んでも認めたくなかった。



 ──鏡の向こう側のわたしは、本当に幸せそうで。

 本当に、本当に幸せそうで。


 どんなに壊そうとしても、決して壊れることは無かった。



 そんな彼女が、羨ましかった。

 本当に、本当に羨ましくて。

 壊したくて、壊したくて堪らなくて。



 だから、わたしは。

 彼女になりたいと、心の底から思った。



 夢の世界へ。


 永遠に醒めることの無い夢の世界へ、わたしも行ってみたいと──。



 ▼



 翌朝になると、熱はすっかり下がっていた。

 どうやら薬が効いたらしい。


 もっともそれは、昨日の症状が風邪のせいと考えた場合の話だ。

 もしあれが、葉という少年に出逢ったせいだとしたら──そして彼に「眼球」を食べられたせいだとしたら、それは。完全に治った訳ではなく、一時的に沈静状態になっているだけで。

 気を抜けば、昨日のような発作が襲って来るのかも知れない。


 まあでもそれは、死ぬことに比べればずっと些細な苦しみなのだろう。

 ある意味それは、「わたし」が生きていることの証拠にもなる。

 そう思って、我慢することにした。


「駄目駄目そんなの! 病因が分かってるなら、それを断たなきゃ! 待っててかずらちゃん、先生がその男の子見つけて何とか説得してみせるから!」


 ──「わたし」はそれで良かったのだが、有川先生は納得してはくれなかった。

 凄い勢いで飛び出していく先生の後姿を、「わたし」と瑞希は呆然と見送っていたが。


「……私も、出来るだけの協力はするつもりです。もしもその男の子がかずらさんの大切なものを奪ってしまったのだとしたら、私はその子を許せないと思います。御堂財閥の総力を挙げ、必ずや居場所を突き止めてみせましょう!」


 瑞希も概ね、有川先生と同意見のようだった。

 本当、お節介な人達だ。



 だけど。どうやら「わたし」は、そのお節介を心のどこかで心地よく感じてもいるみたいだった。



 ▼



 コツ、コツ、コツと足音が聞こえて来て、わたしは目を覚ました。


 誰かが、檻の外で何かをしている。


「あ……」


 わたし、助けて、と言おうとしたんだけどその前に、


「ごめんなさい」


 と言って、その人は離れてしまった。


 コツ、コツ、コツという足音が、だんだん遠ざかっていく。


 どうして? やっと誰か来てくれたと思っていたのに、どうして助けてくれないの? あなたも他の人達と同じなの? ねぇ、ねぇ……お願いだから、助けてよぉ……。


 とうとう、何も聞こえなくなった。

 恐る恐る、格子の隙間から外を覗いてみると、手の届きそうな場所に縫いぐるみが置かれているのが見えた。

 わたしの大好きな、熊の縫いぐるみだ。

 誕生日にお母さんがくれた、大切な思い出の──。


「……うっ……うぇっ……えっ……」


 ねぇお母さん、わたしそんなに悪いことしましたか?

 こんな所に閉じ込められて、お仕置きを受けるような酷いこと、しましたか?


 わたしはただ、意地悪なヒト達をモノに変えただけなのに。

 痛くて苦しくて怖かったから、怖くなくなるように頑張っただけなのに。


 それが、そんなにいけないことなんですか?

 だったら最初から、教えておいてくれたら良かったのに。


 そしたらわたし、あんなことしなかった。こんな場所に閉じ込められなくたってわたし、分かるもの。

 お父さんもお母さんも言ってたじゃない、わたしは聞き分けの良い頭の良い子供なんだって。


 だから、お願い。どうかわたしを、ここから出して下さい。縫いぐるみと一緒なら寂しくないなんて嘘なの。本当はわたし、モノよりヒトの方が好きなんだから。だから、お願い。こんな所に、一人きりにしないで。


「い……いや……いやだよ……こわい……ひとりは、こわいよぉっ……!」


 縫いぐるみを抱き締めて、わたしは泣いていた。泣きたくはなかったけど、ひとりでに涙が溢れてしまった。

 だって、怖くて怖くて怖くて怖くて、たまらなかったんだもん。


 ──夢の世界に、行きたい──


 固い感触が、縫いぐるみの中に在った。ぴかぴかと綺麗に光る、銀色のナイフが中に入っていた。

 そうだこれ、お父さんが大切にしていたナイフだ。

 前に悪戯のつもりで、縫いぐるみの中に隠しておいたんだったっけ。



 ……そうだ。


 これを使えばわたしも、鏡の向こう側に行けるかも知れない。

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