#γ「紅い夢──Nightmare──」
(1)観察者の罪 / バラバラ
人が死んだ。
知っている人じゃない。
「わたし」が殺した訳でもない。
「わたし」はただ、夕食に何を作ろうか考えながら部屋の掃除をしていただけ。
そんな時に、ふとそんなモノが見えた。
ただ、それだけの話。
死んだのは十歳位の女の子だった。
熊の縫いぐるみを抱いたその子は、何故か檻の中に居た。
彼女は独りだった。誰も見にやっては来ない。
ただ独り取り残された少女は、縫いぐるみの中に隠しておいた短剣を取り出した。
胸を一突き。
それで、女の子の短い人生は終わっていた。
でも彼女の死に顔は安らかで、そこで映像が途切れていた。
情報が少な過ぎて、何が起こったのか良く分からない。いつものことだった。
だから「わたし」は「彼ら」に対して、何の感慨も抱けずに居る。
恐らく「わたし」程多くの人の死を見た者は居ないだろう。
「わたし」にとって、死は日常そのものだった。
だから──日向蔓(ひむかい かずら)にとっての死とは、取るに足らない絶望に過ぎなかった。
部屋の掃除は割合早く終了したので、少し仮眠を取ることにした。
白い天井を見上げていると、また何か奇妙なモノが見えてしまいそうな気がして。
「わたし」は目を閉じ、意識を闇に委ねた。
▼
どうも最近、寝覚めが悪い気がする。
ほんの十分程度仮眠するつもりで、一時間以上過ぎてしまうことがしばしば。
酷い時には三時間寝てしまうこともある。
今日など、その最たるもので。
時計を見ると、十時を回っていた。
──朝の十時を。
「おはよう、ヒムカイカズラ。昨夜は良く眠れたみたいだな」
「……おはようございます、サトー」
半日以上眠り続けていたせいか、関節が思うように動かない。
それでも何とか身体を起こし、同居人と挨拶を交わした。
恐らくサトーが掛けてくれたのだろう、布団を畳んで立ち上がる。
と、その時になって初めて「わたし」は、自分がパジャマを着ていることに気が付いた。
青と白のチェック模様のパジャマ。
一見してそれは、男性用の物だった。
「サトー。貴方が、これを着せてくれたんですか?」
「あ──ああ。服に皺が寄ると思ったんでな。着ていた服なら洗っておいたから、何も心配する必要は無いぞ」
「それは良いんですけど。……見たんですね」
そう訊いた途端に、サトーは「わたし」から顔を背けてしまった。
そして二度とこちらに目を向けようとはせず、ちびちびと手にしたカンパンを齧り始める。
どうやらそれが、彼の朝食のようだった。
「わたし」ですら足りないと感じる程の量で、サトーは満足しているというのか。
軽くシャワーを浴びて戻って来ると、彼はまだカンパンを齧り続けていた。
仕方ないので、彼の分の朝食も用意してやることにする。
味噌汁とご飯、それから焼き魚を出してやると、サトーは驚いたように「わたし」の顔を見上げて来た。
「どうぞ。これは、貴方の分です」
「いい、のか?」
「? 何がですか? ああ、お口に合わないようなら無理に食べなくても結構ですから」
「いや、そんなことは無い。いただきます」
言って、黙々と食べ始めるサトー──変だ。今日のサトーは、いつも以上に奇妙な言動を繰り返している。
これも「わたし」が異常に長い時間眠り続けたことと関係しているのだろうか。因果性は今一つ見出せないでいるのだが。
彼の食べる様子を観察しながら、「わたし」もまた箸に手を付ける。
空っぽだった胃の中が、少しずつ満たされていくのを感じる。こういう感覚のことを、人は至福の幸せと表現するのかも知れないな。
などと「わたし」が思っていると。
「……見るつもりは無かったんだが。寝巻きを着せる為にはどうしても、君の身体を見ない訳にはいかなかった」
今更のようにサトーは、そう切り出して来た。
──本当に今更だ。
折角人が、気持ち良く朝ご飯を味わっていると言うのに。
「事故みたいなものでしょう。気にしてませんから、わたし」
「いや。俺が男で君が女性である以上、こういうことはきちんとけじめを付けておくべきだと思う。もっとも、謝って済む問題ではないかも知れないが……軽率な行動を取ってしまい、本当に申し訳無いと思っている」
「だから、気にしてませんから。そんな、頭を下げないで下さい。困ります」
「だがしかし、俺は男として君に償わなければならない──」
そこまで言われて、「わたし」はふと、彼の矛盾点に気が付いた。
「何を言っているんですか。償うも何も貴方、わたしを殺しに来たんでしょう? だったらそんな些細なこと、気にする必要無いじゃないですか」
「──っ──!」
思ったことを口にしてみると、ようやくサトーは黙ってくれた。
そう、裸を見られることなど、これから殺されることに比べれば瑣末事に過ぎない。
「わたし」が日向蔓で彼がサトーである以上、そう遠くない未来、「わたし」は彼に殺害される。
それは既に決定されたことであり、変えようの無い事実だ。この眼でそれを見たのだから、間違いであるはずが無い。
──「わたし」には、本来見えないはずのモノを映し出すことのできる眼がある。
「観察者の眼(オブザーバーズ・アイ)」と呼ばれるそれは、「わたし」の意思とは無関係に、無秩序に、理不尽に何かを見せ付けて来る。
何か。それは過去であり、現在であり、未来であり。「わたし」には到達し得ないはずの場所でもある。
あるいは、現実には起こり得ない現象等々。
大抵の場合、見たモノと現実の間に因果関係は無い。
だが、未来視だけは例外だった。この眼で見た未来は、絶対に、何が起ころうとも変えることはできないのだ。
言うなれば未来を確定する能力を、「観察者の眼」は持ち合わせている。
つまり。一度でも目撃してしまった以上は、いつか必ず「わたし」はサトーの手に掛かることになる訳だ。
「前々から、訊こうとは思っていたんだが」
再び彼が口を開いたのは、二人とも食べ終えて片付けをしている時だった。
「君は、本当にそれで良いと思っているのか? 俺が君を殺して、君の人生は終わる。君が今まで築き上げて来たもの、その何もかもが終わってしまうことになる。本当にそれで良いのか、君は」
本当、今日のサトーはどうかしている。訊くだけ無駄と分かっていることを、暗黙の了解として納得していることを、今更のように訊いて来るだなんて。
何て、意味の無い質問なんだろうと思った。
「だって、仕方ないじゃないですか。だって、貴方は殺害を望んでいるんでしょう? だったら、仕方ないじゃないですか。そんなこと訊くの、おかしいと思います」
「違う。俺がどうしたいかじゃなくて、君自身がどうしたいのか知りたいんだ。ヒムカイカズラ、君は本当に死を受け入れるつもりなのか?」
「…………」
サトーの質問には答えが無い。どうしようも無いことを、どうしようも無く訊いて来るだけの愚問だ。
だから「わたし」は応えようとせず──応えることができなかった。
「もう、行かないと」
ようやく、それだけを伝えて。
「わたし」は、沈黙が支配する部屋から抜け出した。
どうかしているのは、サトーだけじゃない。
あんな質問に即答できなかった、日向蔓もどうかしている。
いつもなら。そういつもの「わたし」なら、簡単に肯定できたはずだ。
「それが運命であるのなら。わたしは喜んで、それを受け入れましょう」
そう、応えることができたはずなのに。
何故か今日の日向蔓は、そう応えることに抵抗を感じていた。
本当、どうかしているとしか思えない。
──あるいは、それが普通の感覚なのか、と。
一瞬でも、そう疑ってしまって。
すごく、死にたく、なった。
▼
軽い絶望感なら、今まで何度も味わって来た。
死という絶望も、その程度のものだと思っていた。
でも、現実は違っていて。
突き付けられた死は重くて、苦しくて。
忘れていたはずなのに、改めてそれを思い知らされて。
「仕方が無いって、諦めていたのに、な」
込み上がって来る感情に、吐き気がした。
▼
雨が降っていた。
ぽつ、ぽつ、ぽつ。頬に当たる雨粒も、今は気にならない。
天気予報を見てなかったことも、傘を持って来なかったことも、授業に遅れそうだと言うことも、今は全く気にならない。
ただ気になってしようが無いことは、今朝あんなことを言ったサトーが、今どこで何をしているのかということだった。
「……卑怯者」
呟き、果たしてどちらがそうなのかと考える。あるいは両方か。
暗殺者のくせに人を気遣うような真似をするサトーと、受け入れていたはずの死を前に苦しむ「わたし」。
どちらも、同じくらいに卑怯なのかも知れない。
──人並に生き、人並に死ぬ。人並みに生きることさえ叶わなかった人達を、「わたし」は大勢目にして来た。だからきっと、「わたし」は幸せな方なのだろうと思う。
大した意味の無い人生であったにしろ、それなりに生きた感触は残っているのだから。後はただ、いずれ訪れるであろう死の瞬間を待つだけだ──そう、思っていたはずなのに。
なのに「わたし」は苦しんでいる。人並に死ぬことに、抵抗を感じ始めている。
仕方が無いことであるはずなのに、助かる可能性が無いか模索し始めている「わたし」が居る──。
「一人だけ、助かろうって言うのか? ずるいよ、そんなの。俺のことは、あっさり見捨てたくせに、さ」
「……あ」
見覚えの無い青年が、雨の中、傘も差さずに「わたし」の顔をじっと見つめていた。それだけで、胸が苦しくなる。何メートルも離れているのに、息苦しくて堪らなくなる。
「本当、酷いよねかずらってば。そのくせわたし達のこと、簡単に忘れちゃうんだもんね。これじゃあ、誰のために死んだか分かったもんじゃないわ」
青年の隣には、見知らぬ少女の姿が在った。
怒っているのか泣いているのか、あるいは笑っているのか。
表情の掴めない顔で、彼女は「わたし」を見つめて来る。
──どうしてだろう。この二人を見ていると、酷い後ろめたさを感じてしまう。
逢ったことも無いはずなのに、見ているだけで辛くなって来る。
「「卑怯者」」
青年と少女、二人の声が重なった。
否、二人だけではない。
「卑怯者」「卑怯者」「卑怯者」「卑怯者」
老若男女、いくつもの声が重なり、辺りに反響する。
「わたし」が今まで見て来た人達、限り無い絶望の底で死んでいった人達。
彼らの無念の思いが今、見殺しにして来た「わたし」に向かって返って来る。
見ることしかできず、やがてそれにも慣れ今まで平然と生きて来た「わたし」のことを、彼らはどう思っているのだろう。
見られる側の気持ちを、「わたし」は一度も考えたことが無かった。「わたし」が見てしまったせいで、彼らの死が確定されてしまったのかも知れないというのに。
間接的に、彼らを殺したのは「わたし」なのかも知れないというのに。
何て無責任だったのだろう、「わたし」という人間は。
「そう。貴女は物事の生死を見通す力を持ちながら、誰一人として救おうとはしなかった。それなのに貴女は今、自分だけ助かりたくてもがいている。わたし達からすれば、酷い裏切り行為だわ。だってそうでしょう? 同じ絶望の未来を見たって言うのに、貴女だけ眼の持ち主ってことで生き残ってしまうだなんて。そんなの、不公平じゃない。
だから、ね? わたし達、貴女に教えに来てあげたのよ。どんなにもがいたって苦しんだって、結末は変わらないんだってことを、ね。努力するだけ無駄なんだから、大人しく死になさいって、そう伝えてあげようと思ってやって来たの」
降り続く雨の中、少女の言葉は微塵の狂い無く「わたし」の耳に届いて来る。
それは断罪を告げる声。罪を背負いし者に逃れる術は無いのだと、彼女は宣告する。
──そんなこと、言われなくても分かっていた。
元より「わたし」は、逃げるつもりなど無い──はずだった、のに。
それならば、何故。
見覚えの無い少女の言葉がこんなにも深く、胸に突き刺さって離れようとしないのだろうか。
「わたし、は」
「貴女は、死ぬのよ。さあかずら、これを」
差し出されたのは、一本の果物ナイフ。どこにでもあるありふれた、ただの調理器具に過ぎず──そんなものでも突き立てられれば、人は容易く命を落としてしまう。
「簡単よ。首に刺して、真横に引くだけで良い。それはただのナイフだけど、貴女を失血死させるには充分過ぎる程の効果を持っているわ。さあかずら、おやりなさい」
「わたし、は」
死ぬのだろうか。ナイフを手に取り、しばらく見つめている内。
その光沢が、「わたし」の首筋に食い込み鮮血を噴出させるのだと、想像できてしまった。
そうだ、死ぬ。サトーに殺されなくたって、「わたし」は自分の意思で死を選ぶことができる。
簡単だ。彼女の言った通りにすれば良い、だけのこと。
そろそろと、刃を首に近付けていく。
死ぬ。「わたし」は「彼ら」の望み通りに、「彼ら」と同じように死ぬのだ。「彼ら」の目の前で、無様に血を撒き散らして──。
首筋に、ひんやりとした冷たいものが当たった。
もう少し。もう少し強く力を込めて突き刺せば、それで終わりだ。日向蔓の人生は、それで終わりを迎える。
死。絶対の終焉。意味の無い人生の、呆気無い幕引きだ。
「君は、本当にそれで良いと思っているのか? 俺が君を殺して、君の人生は終わる。君が今まで築き上げて来たもの、その何もかもが終わってしまうことになる。本当にそれで良いのか、君は」
なのに。この後に及んで脳裏をよぎるのは、今朝のサトーの言葉だった。
「ヒムカイカズラ、君は本当に死を受け入れるつもりなのか?」
ああ、全く。どうしてあの男はいつもいつも、「わたし」の心を揺さぶるようなことばかり言うのだろう。せっかく死ぬ気になっているのに、どうして邪魔をするのだろう。
殺したいくせに。サトーにとって「わたし」は、単なる狩りの標的に過ぎないはずなのに。
どうして、さっさと殺してくれなかったのだろう。
最初に現れた時に殺してくれていれば、「わたし」はこんな迷いを持たずに済んだのに。
「わたし、は」
「どうしたの? さあ、早く自害なさいよ。卑怯者と蔑まれたくないのなら、罪に対する罰を下しなさい。その、貴女自身の手で」
「……できません」
ナイフを、捨てる。濡れたアスファルトの上を滑っていったそれは、雨で増水した排水溝に落ち、消えた。
「わたし」の心に潜む、迷いと共に。
「何故? 生きることに意味が無いということは、貴女自身分かっているはずだけど。無意味な生にしがみ付いて、そのためにまた多くの命を殺して。そんなことを続ける必要性がどこにあると言うの? 死ぬのが怖いから? 大丈夫、痛くて苦しいのは一瞬だけよ。すぐに楽になれるわ。死んでしまえば、後には何も残らないんだもの」
「それは、違います」
確かに、死ぬのは怖い。怖くない訳が無い。怖くない振りをしていただけで、そう思い込んでいただけで。「わたし」だって、本当は怖いんだ。
サトーの言葉に、それを気付かされた。
きっと、誰よりも死を恐れているのは、他でもない「わたし」自身なのだろう。
でも、そんなことは理由にならない。生きている以上は、誰だっていつか死ぬんだ。
怖いけど、いつかは必ず受け入れなければならないものなのだから。
いつか。
そう、それは未来であって、現在じゃない。
「わたしは、今死ぬ訳にはいきません。わたしは、サトーに殺されないといけないんです」
本当の意味で、犯した罪を償うつもりなのならば。「わたし」は「観察者の眼」が見せた未来通りに、死ななければならないのだと思う。
全てを受け入れ、日向蔓として死ぬこと。それが、日向蔓の出した結論だ。
仕方ないから、じゃない。「わたし」がそうなることを、望んでいるからだ。
だから、その時が来るまでは。
「わたし」は絶対に、死ぬ訳にはいかない。
「……そう。後悔しても、知らないからね」
そう言い残して、少女の姿が消えた。青年や、他の人達と一緒に。
後に残されたのは、ずぶ濡れになって立ち尽くしている「わたし」と。もう一人。
「なるほど。噂には聞いていたけど、存外にしぶといね、君」
──白髪の少年が、紅い瞳をこちらに向けて笑っていた。
「意思の強い女の子なら今まで何人も見て来たけど、誰一人としてボクの力には逆らえなかった。どんなに固い基盤が在った所で、それが耐え切れない程の強い負荷を掛ければどうしようも無いものね。どんなに抵抗した所で、いつかは必ず崩れ落ちる。物事に永遠なんてモノは無いんだから。
ところが君の場合は、そういうのとは少し違うみたいだね。意思が強いというより、持つべき意思が存在していないようだ。生きたいのか死にたいのか、方向性が曖昧で良く分からない。だから負荷の掛けようが無い。初めから存在していなかったのだから、崩しようも無い訳だね。
いや、実に興味深い。面白いね、君。道理で、彼女がてこずる訳だ」
少年──見た感じのままで言うならば、小学校高学年くらいの彼は、大人びた口調でそんなことを言って来た。
「貴方は、誰」
かすれた声が、喉から漏れた。
先程まで感じていたつかえるような胸の痛みの代わりに今は、全身にピリピリとした痺れが走っている。
痛くは無い。だが少しでも無理に動かそうとすれば、その部分が身体から分離してしまうような錯覚を覚えていた。
何故だろう。
眼前の少年との間に、恐ろしい程の距離を感じてしまうのは。
「ふむ。その状態で喋れるなんて、流石だね。なるほど、人格と精神とが乖離し掛けていると言うのは本当だったみたいだね。君に精神的なプレッシャーは効かないようだ。
──と。ああ、自己紹介がまだだったね。ボクの名前はヨウ。漢字で書くと葉っぱだね。名字は……そうだな、全部を一気に教えちゃうのも芸が無いし、次の機会に伝えるってことでどうかな? もっともその様子じゃ、次の機会まで君が生きている可能性は五分ってとこか。君が何もしようとしない以上、君の生死は全て、気まぐれな暗殺者の手に委ねられているのだから。
そうだ。だったら今の内に、もらうべきものはもらっておこうかな?」
ふと思いついたようにそう言って、葉(ヨウ)と名乗った少年は、こちらに向かって近付いて来る。
彼が一歩踏み出す度に、「わたし」の身体を衝撃が突き抜ける。
身体の奥底から、何かが噴き出して来ようとしていて。身体はそれを、必死に抑えようとしている。
だけど、ああ。
そんなに近付かれてしまったらもう、止めようが無い。
「……っ……!」
吐いた。声を立てること無く、「わたし」は「わたし」の中に在った何かを吐き出して。
少年はその様子を、終始笑顔で見守っていた。
「────」
濡れた地面に撒き散らされる大量の吐瀉物。その中に、微かに光る何かが見えた。
黒光りのする、真珠のような──いや、真珠にしては大き過ぎる。
「眼、球」
呟きが、胃液と共に漏れた。
手足の力が、急激に失われていく。
駄目だ、立って居られない。
倒れる。
己が体内より生まれた汚物溜まりの中に、「わたし」は頭から突っ伏した。
「無様だね。もっとも、感受性の高い人間はボク達の姿を見ただけで失神すると言うし、君は持ち堪えた方なのかな? まあ何にせよ、この展開は望ましい」
そう言って、少年は眼球を拾い上げた。
「わたし」の中から吐き出された、「わたし」のものではない黒い真珠。
それを満足げに見つめて彼は。
「手間が省けた。礼を言うよ、お姉ちゃん」
迷う事無く、飲み下した。
「回収完了。これで君の眼は、ボクのために活かされるようになった。
ああ、でも安心して良いよ? 別にこれで、君の力が失われたという訳じゃないから。指向性がよりグローバルになった、というだけの話さ。……とか言っても、君には何のことだかさっぱり分からないのかも知れないけど、ね」
何がそんなに嬉しいのか、にっこりと微笑んで、葉は汚れた「わたし」の身体を抱き起こした。
「君には感謝しているよ。おかげでボクは、より完全な存在に近付くことができる。もう逢うことは無いのかも知れないけど、次があったら、今度は君をボクのコレクションに加えてあげるよ。
だけど残念だな。折角興味が湧いて来た所だっていうのに、そろそろ戻りなさいって、怒られちゃった」
不意に、唇に何かが触れた。それが葉の唇だと気付いた時には、彼の身体は離れていて。
その顔には、酷く残念そうな表情が浮かんでいた。
「じゃあ、ボクはそろそろ帰るよ。またね、お姉ちゃん──次に逢う時までもしも君が生きていたなら、今度はもっと、楽しいことをしよう、ね」
次があったら。走り去っていく少年の背中を、「わたし」はしばらく眺めていたが。
すぐにそれも、雨に掻き消されて見えなくなってしまった。
降り続く冷雨の中。
唯一人、残される。
「後悔しても、知らないからね」
そう言ったのは誰だったか。
もう何も、思い出せない。もう何も、考えたくない──。
ぐらり、と地面が傾いた。したたかに顔を打つ。
滑っていく身体には、何を支える力も入らない。雨音だけが、「わたし」の耳に入って来る。
まるで雨が、この世界に存在する全てのものを洗い流してしまったような、そんな錯覚を抱いてしまって。
いつのまにか車道に出ていたことに、気付くのが遅れてしまった。
最後に見たのは、正面から迫って来る一台の乗用車。
眩い白光に照らされた、黒塗りの車体が妙に印象的で。
場違いにも、綺麗だな、なんて思ってしまった。
ああ、なんだ。
どんなに必死になって、生きようと足掻いてみせた所で。
死ぬ時は、こんなにもあっさりと死んでしまうんじゃないか──。
/
腹部に走った激痛で、わたしは目を覚ました。
何故だろう。
痛いのはお腹のはずなのに、頭がガンガンする。
周囲を見回すと、そこは大惨事だった。
血だらけだ。
「バラバラ」
まともなものが、何一つとして存在していない。
きっとここは元々部屋の中だったはずなのに、まるで台風に襲われたみたいに酷い有様だった。
その上、そう血だらけだ。
それにしても、頭が痛い。
お腹が痛いはずなのに、それ以上に頭が痛いから感じなくなってしまっているんだ、きっと。
「バラバラ」
鋭い刃物で切られたみたいに傷の付いたテーブルの上には、ソーセージのようなものが無造作に置かれていた。
試しに口に入れてみたら、変な味がしたので吐き出した。
良く見たらそれは指だった。
わたしのモノより、少し大きい。
気持ち悪くなって放り出すと、それはぽちゃんと血溜まりの中に落ちて見えなくなった。
ああ、血だらけだ。
「みんな、バラバラ」
思わず顔を背けたくなるくらい、酷い光景だった。
モノはモノとしての形を留めておらず、ヒトはヒトとして存在できてはいない。
皆どこかが欠けていて、中には原型を留めていないヒトまで居た。
ああでも、そんなモノはもうヒトとは言えないのだろう。
だって、血だらけなんだもん。
「あはは」
面白いな、と思った。
ヒトって、こんなにあっさりモノになっちゃうんだね。それって凄く面白いことだと思うんだ。
だってさ、どんなに大切にしてたモノが壊れたって、所詮モノはモノのままでしょ?
だけどヒトは、壊れることでヒトからモノに変わっちゃうんだよ?
それって何か、凄くない?
そんなこと思ってたら、がたんて物音がした。
「あれ? 誰か居るの?」
「ひ……ひいいいいっ!」
見たら、まだモノになってないヒトが居た。男の人。
誰だったかな、と考えてみて。ああ、と手を打った。
わたしを襲ってひどいことした、男の人達の仲間だ。
そうだ、その人達のせいでわたし、お腹が痛かったんだった。
今はもう痛くないけど、さっきまで凄く痛かったんだから。
それに、すっごく怖かった。
「お、俺が悪かった! た、助けてくれ!」
あらら、泣いちゃってるよこのヒト。
ふぅん、こうして見ると少し可愛い、かも。
いじめたくなっちゃう、かな?
「ひぎぃぃぃっ!? や、やめてっ……うがあああっ!?」
ぷち、ぷち。ちょっと指を二三本もいでみたら、男の人は気持ち悪い泣き声を上げた。
あー、やっぱ可愛くない。やっぱ嫌い、こーゆーヒト。
だって、気持ち悪いんだもん。
「ねー、そんなに助けて欲しい?」
「あっ……は、はい、助けて、下さい……」
少し優しい声で言ってみると、案の定そのヒトはすがり付いて来た。たーんじゅーん。
「じゃあさ。わたしがされたこと、再現して見せてよ」
「え……?」
「だーかーらぁ。あなた達がわたしにした、痛くて苦しくてひどいことを、あなたの体で再現してみせてよ、って言ってるの!」
「あ……うあ……うああああっ!?」
ええと、まずは。ナイフで服を裂くんだよね。
面倒なので男の人の体ごと裂いちゃったけど、まあいいか。まだモノにはなっていないみたいだし。
次は、ええと。
あの気持ち悪いモノを、お口とかお尻に突っ込まれたんだったっけ。
「がっ……ごがあああああっ!?」
それらしいものが見当たらなかったから、代わりに別のモノを突っ込んでみた。壊れたテーブルや椅子の足とか。
とりあえず有りっ丈のモノを詰め込んでみたら、男の人はあの気持ち悪い声を出さなくなった。どうやら無事にモノになってくれたみたい。
ああこれで一安心だ。もう二度と襲われることは無いだろう。
「よかったぁ」
もうあんな、怖い思いをしなくて済むんだ。そう思ったら、凄く気分が楽になって来た。頭ももう痛くはない。うん、もう大丈夫。これでわたしは、元通りだ。
そう思って、鏡を見てみたら。
割れた鏡の向こう側で、ボロボロの服を着た十歳位の女の子が、ぼんやりと立ち尽くしているのが見えた。
──ああ、確かに血だらけだ、と思った。
紅く染まった自分の姿が面白いのか、その子は笑っていて。
何がそんなにおかしいのかと、無性に腹が立った。
「バラバラに、なっちゃえ」
そう呟いたら、鏡と一緒に、向こう側のわたし自身が粉々に砕け散った。
それで終わり。もうこれで、何も怖れるモノは無い。もうこれで、何も怖れるコトは無い。
わたしはわたし。これまでもこれからも、ずっと変わらない。
これまでもこれからも、何一つ変わること無く生きていくんだ。
──ヒトじゃないわたしは、永遠にモノになることは無い──
安心したら眠くなって来たので、横になって目を閉じた。
そうして意識を、闇に委ねる。
鏡の向こう側の世界に安らぎを求めて、乾いた心が落ちていく──。
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