(3)トワニ
住み慣れたアパートに、一日ぶりに戻って来た。
部屋の戸を開ける直前、サトーにどう挨拶しようか数瞬考えたけど、結局何も思いつかなくて。
諦めて開けようとした所で、彼に出くわした。
「あ……あの」
これから買い物にでも出掛けようとしていたのだろうか。
いつになくラフな格好の彼を前に、「わたし」は掛ける言葉が見つからなくて。
だからサトーが「おかえり」と言った時にも、咄嗟に言葉が出て来なかった。
「? どうした? 具合でも悪いのか?」
「い、いえ。そうではなくて、ですね」
昨日あんなことがあったばかりなのに、どうしてそんな平然として居られるのかと、出来れば問い詰めたかったのだが。
いざ彼を目の前にしてみると、どうしてか呂律が上手く回らなくなってしまう。
「そうか。なら、もう一度だけ言うぞ」
「は、はい」
「おかえり、かずら」
「た……ただいま。サトー」
それだけ言うのが、精一杯だった。
後ろ手に戸を閉めて、ほっと一息つく。結果的にサトーを閉め出す形になってしまったが、彼もどこかに出掛けようとしていたみたいだし、別に問題は無いだろう。
それにしてもまさか、顔を合わせるのがあんなに辛いとは思わなかった。
これは、少なくとも後数時間は逢わない方が良いだろう。
「おい。入れてくれ」
「……え?」
だと言うのに、サトーは。
「君を探しに行こうと思っていたんだが、本人が帰って来た以上は出掛ける意味も無いだろう? 開けてくれないか」
そんなことを言って、また「わたし」を困らせようとする。
これじゃあ、昨日の繰り返しじゃないか。
仕方ない。
向こうがその気なら、こちらもそれなりの手を打たさせてもらうとしよう。
「駄目です。今日一日、外で反省して来なさい」
「は? 何を言っているんだ、君は? 俺が何を反省すると──」
「乙女の裸を覗いた罪です。忘れたとは言わせませんよ」
「なっ!? あ、あれは事故みたいなものだから気にしてないって、昨日言ってたじゃないか!」
「そうでしたっけ。忘れちゃいました、わたし」
言うだけ言って、鍵を掛ける。
戸の向こう側からサトーが喚くのが聞こえて来たが、それには構わず掃除を始めた。
一日放っておいただけなのに、やけに埃が積もっているような気がする。台所の流しには昨日の朝食の時使った食器が洗わずそのまま放置されているし、布団だって敷きっぱなしだ。洗濯物だって──考え出すと頭が痛くなって来る。
「はぁ。恨みますよ、サトー」
彼に手伝ってもらおうかとも思ったが、追い出した手前今更言い出す訳にもいかず。
「わたし」はとりあえず、布団の片付けから始めることにした。
そう言えばさっき、サトー。
「わたし」のこと、「かずら」って呼ばなかったっけ……?
▼
人が死んだ。
知っている人じゃない。「わたし」が殺した訳でもない。
「わたし」はただ、夕食に何を作ろうか考えながら部屋の掃除をしていただけ。
そんな時に、ふとそんなモノが見えた。
ただ、それだけの話。
死んだのは十歳くらいの女の子だった。
熊の縫いぐるみを抱いたその子は、何故か檻の中に居た。
彼女は独りだった。誰も見にやっては来ない。
ただ独り取り残された少女は、縫いぐるみの中に隠しておいた短剣を取り出した。
胸を一突き。
それで、女の子の短い人生は終わっていた。
でも彼女の死に顔は安らかで、そこで映像が途切れていた。
情報が少な過ぎて、何が起こったのか良く分からない。いつものことだった。
だから「わたし」は「彼ら」に対して、何の感慨も抱けずに居る。
恐らく「わたし」程多くの人の死を見た者は居ないだろう。
「わたし」にとって、死は日常そのものだった。
部屋の掃除は割合早く終了したので、少し仮眠を取ることにした。
「後悔しても、知らないからね」
誰一人として、救うことができないのなら。
そんなモノはいっそ、見えない方が良い、と。
そう、心から思うから。
──だからお願い、今は何も見せないで──
白い天井を見上げていると、また何か奇妙なモノが見えてしまいそうな気がして。
「わたし」は目を閉じ、意識を闇に委ねた。
▼
刺してみると、案外痛くなかった。
思ったよりもずっと簡単だった。
わたしは死んだ。
そう、死んだ。
心臓をナイフで突き刺したのだから、死なない訳が無い。
これでわたしも、鏡の向こう側に行ける。
皆がわたしを愛してくれる、夢の世界に向かって飛び立って行けるはずだ。
そうだ、こうして目を開けば、そこにはほら。
優しいあの人が / 冷たい白亜の石壁が
わたしに向かって微笑んでいて / わたしの血で赤黒く染まっていて
「どうし、て」
何も、変わってはいなかった。
「そっか。夢のわたしが、わたしを拒んでいるから」
夢は所詮夢。
決して辿り着けないから夢なのだと、そう思い知らされて。
「あは、あははは、あはははははっ……!
どうしよう。こんなに痛いのに、わたし死ねない」
鳥篭のような檻の中。
翼の無い小鳥は今日も、絶望の歌を口ずさむ。
永遠に、永遠に。
トワニ トワニ
▼
随分と、昔の夢を見た。
しかし、いつ見ても酷い夢だ。
正直、あまり良い気分にはなれない。
だけど、まあ。
あの忌まわしい出来事も、教訓としては活かされているのではないだろうか。
そう、夢は所詮夢に過ぎない。
どんなに夢見た所で、決して手に入れられはしないのだから──なら最初からそんなモノ、見ない方が良い。
鳥篭の外に出た、今ならば真に理解できる。わたしが追い求めた夢の世界は、腐り切った現実世界に侵食されているのだと。
そうだ、鏡の向こう側のわたしだって、現実的にはわたしが思い描いていた程幸せそうではなかった。友人として接していると良く分かる。
ただそれでも、今までわたしが味わって来た苦しみに比べれば、彼女はずっと平穏な人生を送っている訳だけれども。
だから、そう。幸せなはずの彼女が辛そうにしているのを見ると、どうにも我慢できなくなる。何度バラバラにしてやろうと思ったか分からない。
許せなかった。一人で問題を抱え込んで、わたしには何の相談もしてくれない彼女を、わたしは心底憎んでいた。
同じはずなのに。わたしと彼女は、元々同じ一つの起源から分岐した、同種の存在であるはずなのに。
──どうしてあなたは、わたしを拒むの?
「葉。居るのなら声くらい掛けて下さい」
部屋の片隅、闇が最も深い場所に向かってそう言うと。
「これはこれはお嬢様。ご機嫌麗しゅう」
なんて、大袈裟に礼なんかして見せて、少年は姿を現した。
燃えるような紅い瞳と、雪のように真白な髪が特徴的な、わたしよりも強い力を持った少年──葉。
彼こそ、わたしをあの白い牢獄から解放してくれた張本人だ。
「見ていたんですか。……悪趣味ですね」
「あはは、生憎と観察するのがボクの仕事なものでね」
「それで? まさか私の寝相を覗くためだけに、レディの寝室に侵入した訳でもないでしょう? 何か、進展があったのですか」
「うん。ま、君の寝顔を見ているだけでもボクは充分満足なんだけどね」
皮肉混じりのわたしの問い掛けに対しても、少年が笑顔を崩すことは無く。
「君のご友人に逢って来たよ。いやー、想像していた以上の逸材だった。是非とも欲しくなるね、ああいう娘は」
なんて、平然ととんでもないことを口走ってくれた。
「な、何ですって。貴方、かずらさんに逢ったのですか!?」
「ああ、うん。もっとも、ほんの挨拶程度だけどね。本当はもっと色々話したかったんだけどな。ボクのこと、彼女自身のこと。そして勿論、君のことも、ね」
「……殺しますよ?」
「あはは。君はいつだって予想通りのリアクションをしてくれるから好きだよ」
どこまでも笑顔のままで、少年はわたしに背を向ける。
──なるほど。
彼女が言っていた不審な男の子とは、葉のことだったのか。
「さて、伝えるべきことは伝えたからボクは行くよ。じゃあね、ミズキ。今度があれば、また逢おう」
「…………」
最後にそう言って、少年は部屋を後にした。今度があれば、か。
いつもの決まり文句に、わたしは苦笑する。
それにしても。葉を彼女に逢わせるだなんて、上は一体何を考えているのだろう。しかも、直に彼女と接する機会のあるわたしには何の連絡も入れずに、だ。
まるでわたしはもう用済みだと、暗に言われているみたいじゃないか──。
よそう。あんまり考えていると、どんどん思考がネガティブになって来る。
今はただ、与えられた役目を果たすことだけを考えるべきだ。
ベッドから降りて、鏡の前に立つ。
──御堂瑞希。
それが現在の、わたしの名前だ。
「おはようございます、かずらさん。今日も一日、頑張りましょうね」
こうして目を開けば、そこにはほら。
優しいあの人が、わたしに向かって微笑んでいてくれる。
それはきっと、夢の続き。
果てることの無い、永遠の夢の続き。
トワ ニ ツヅク ゼツボウ ノ ウタ
了
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