(2)旧友(あおば)
屋敷の裏側には庭があった。
庭と言ってもちょっとした農園程もある大きさで、点々と果樹が植えられている。
「カズラ」の話によると、そのほとんどはオレンジの樹であるらしい。
夏には実が採れて、美味しい果汁が飲めるのだと言う。
その内の一本の樹の下で、「わたし」は「カズラ」と話をしていた。
と言っても、喋っているのはほとんど彼女だったのだが。
本当に、彼女は良く話した。
彼女が話すのは主に一緒に住んでいるという友人のことで、実に楽しそうに語っていた。
反面、自身のことについてはあまり語ろうとはしなかったが。
まあその辺のことについては興味無いし聞きたくも無かったから、丁度良いと言えば丁度良かったのだけれど。
自分自身のことについて、過去の自分の口から語られても面白くも何とも無い。
「でね、アオバってね」
「うん」
「カズラみたいに格好良いんだよ。背が高くて、すらっとしてて」
「格好良い……?」
地面に書かれた「木頭蒼葉」という文字を見つめ、「わたし」は考える。
キトウアオバ。
確実に知っているはずで、だけど頭の片隅にも残っていないその少女のことを。
──どうしてだろう。
彼女の名前に対して、妙に引っ掛かるものを感じる。
小学生の頃の友達のことなんて、ほぼ完全に頭の中から消え去ってしまっている。
だから「わたし」は、木頭蒼葉のことを覚えていないということ自体に引っ掛かりを感じている訳ではない。
違うのだ。
そんな瑣末なことではなく、もっと根本的で、もっと深い理由があったはずなのだ。
だけど、それが何なのか思い出せない。
「それにすごいんだよ。アオバはね、何も無い所に糸を作ることができるんだからっ」
「糸……?」
「そうだよ。手品みたいでしょう? でも、種も仕掛けも無いんだって。えーと……ノーブル・ラインアートって言ってたかなぁ。そういう力なんだってー」
「ノーブル・ラインアート」
和訳すると「高貴なる線形芸術」と言った所か。
何も無い空間に糸を作り出す能力。確かに不思議な力ではある。
でも「わたし」自身「観察者の眼」という一般人には無い能力を持っているので、それ程のインパクトは感じない。
「わたし」が木頭蒼葉という人物に興味を抱く原因は他にある筈だ。
だがそれを「カズラ」の口から聞き出すのは困難だろう。
ならば、取るべき手は一つだ。
「カズラ。頼みたいことがあるんだけど」
「ん? いいよ、何でも言って」
「木頭蒼葉に、逢わせてくれないかしら?」
「え」
思い切って言ってみた途端に、「カズラ」の表情が強張った。
困ったように、彼女は「わたし」から視線を逸らしてしまう。
「駄目なの? 是非逢ってみたいんだけど……ああ、もしかして今お出掛けしてる?」
「う、ううん。アオバなら家の中に居るよ。でも」
「面会できる状態じゃないってこと?」
鎌をかけて言ってみると、「カズラ」は辛そうに頷いた。
「ごめんね」と応えて来る辺り、どうあっても無理ということだろう。
残念ながら、諦めるしか無さそうだった。
「あ、でもアリカワ先生の話じゃもうすぐ起き上がれるようになるんだって。そしたら三人で一緒に遊ぼう? ね、いいでしょ?」
「うん。そうしようね」
──何て愚かな約束をしているんだ、「わたし」は。
恐らくもう二度と、この過去を覗くことは無いのだろうに。
決して叶うことの無い約束をして、一体何になると言うんだ。
どうもこの少女と一緒に居るとペースを乱されてしまう。
本当にこれが過去の「わたし」なのか? と疑ってしまう程に、「カズラ」は明るかった。
それにしても有川先生。
こんなにも昔から、「わたし」に絡んでいたのか。
こうなると先生の口癖「ぎりぎりまだ二十代」も怪しくなって来る。本当はもう四十過ぎているんじゃないだろうか。
などと失礼なことを考えていると。
「あー! かずらちゃんこんな所に居たー! 駄目じゃない、勝手にベッドを抜け出しちゃー」
「わたし」達の前に、有川先生当人が姿を現した。
過去だから当たり前なのだが、今よりずっと若く見える。
そのせいか、医者というよりは看護士に見えてしまうのだが。
「ここに居たら日射病になっちゃうわよ? さあ、先生と一緒に戻りましょう」
「うん。……あ、もう少しだけ、居てもいい?」
「ダーメ。かずらちゃんは病気なんだから、しっかり休んで早く治療しないと。さ、行きましょ」
そう言って、有川先生は「カズラ」を連れて行こうとする。
やはりというか、「わたし」に気付く様子は無い。
そうだ、「わたし」は実際に過去に行っている訳ではない。「眼」の力で錯覚させられているだけで、本当はここには居ないのだ。
だから。
悪戯に、過去を惑わせてはいけない。
「さようなら、カズラ」
別れの挨拶を告げてやると、ようやく「カズラ」は諦めたように、有川先生の後を追って行った。
最後に彼女は一度だけ振り返って、
「ばいばい、カズラ。また遊ぼうね」
手を振りながら、そう言って来た。
それが彼女との、永遠の別れの挨拶となった。
こうして。
過去の自分との邂逅は、呆気無く終わりを迎えたのだった。
──いや。
「カズラ」と別れた後もなお、「わたし」はその場に留まり続けていた。
今回はやけに長く見続けている。もうこの時代に用など残ってはいないというのに。これ以上の長居は全くの無意味──。
「……違う」
まだ、果たしておくべきことが残っている。
木頭蒼葉。現在に戻る前に、どうしても彼女に逢っておきたい。
それは「わたし」にしては珍しい、激しい衝動だった。
屋敷の鍵は開いている。そして、「わたし」を見ることのできる人間はもう居ない。
なら、堂々と屋敷に侵入しても問題は無い筈だった。
「待っていて、木頭蒼葉。今すぐ、貴女に逢いに行くわ」
決意を固めるように、そう呟いて。
「わたし」はゆっくりと、屋敷に向かって歩き始めた。
◆
思っていた以上に広い屋敷だったが、木頭蒼葉の部屋は割と簡単に見つかった。
部屋の戸に「木頭」と書かれたプレートが貼り付けられていたおかげだ。
逆に言えば、プレート無しでは見つけられない程に広大な屋敷だということになる。
本当に「わたし」はこんな所に住んでいたのだろうか、どうしても実感が湧かないのだが。
閑話休題。
「わたし」は静かに部屋の戸を引き、中に侵入した。
そして、「彼女」を見た。
凛とした、強い意志を感じさせる漆黒の瞳。
同色の髪を肩まで伸ばし、真白い着物を着た「彼女」は、ベッドの上で静かに正座していた。
微動だにせず、中空の一点を睨むように見つめて「彼女」は。
「誰」
と、明らかに「わたし」の存在を察知して訊いて来た。
冷たく、清らかに流れる声で。
見えてはいないはず、なのにそれでも、「彼女」は侵入者に気付いている。これは一体どういうことなのか。
時空を超えた訪問者を探知する能力でも持っているというのか。
でも「わたし」が「カズラ」から聞いた限りでは、蒼葉の能力は「糸」を生み出すだけのもののはず。
それ以上でも、それ以下でもないはずだった。
──そこまで考えて、「わたし」はやっと気が付いた。
糸、それも目に見えない程の極細の糸が、部屋中に張り巡らされているということに。これではまるで、蜘蛛の巣だ。
そうだ、蜘蛛。
蜘蛛は巣に掛かった獲物の存在を、糸が発する振動によって察知すると言う。
もしかしたら「彼女」は蜘蛛と同様、「わたし」が部屋に入る際に発した振動を糸を通して感じ取ったのではあるまいか。
だとすればこの糸は、ただの糸ではないということになる。
そう言えばさっきから、身体が上手く動かない。
見れば両手両足、そして胴体に何百本もの糸が絡み付いているのが分かった。
「へぇ。貴女、この糸が見えるの。かずら以外には、見えないものとばかり思っていたのに」
くすりと、「彼女」は笑う。
それはとても十歳とは思えない、大人びた笑い方だった。
なるほど、本来は不可視の糸か。
恐らくその正体は幻像に近いものなのだろう。
「わたし」は幻像に干渉できないが、向こうからはこちらに自由に干渉できる。だからこそ、こうして「わたし」を捕えることができた訳だ。時間も、空間さえも超越して。
「…………」
話し掛けようとするも、声が出ない。見ると糸の一本が喉を貫いていた。
声帯を潰されたのか。しかしそれにしては、異物感を抱くだけで痛みを全く感じない。
「喋らなくても良いわ。今、貴女の脳に糸を繋げたから。なるほど、貴女は十年後のかずらと言う訳ね。確かにあの子の能力なら、一時的な時間退行を引き起こすことも可能かも知れない。うん、でも……。
ねぇ貴女、本当にかずらなの?」
全てを読み取った上で、なお「彼女」は訊いて来る。
「わたし」が本当に日向蔓なのか、と。
分かり切っているはずなのに、それでも信じることができないのか。
恐らくは、「彼女」が知っている「日向蔓」との間に、あまりにも大きなギャップがあることを感じて。
実際の所、「わたし」自身にも良く分からない。
自分が日向蔓であるという実感が、過去に遡っても得られない──にも関わらず、確かな記憶は存在しているのだ。証拠もある。
だけど、なら、どうして。
「わたし以外のことは、ちゃんと覚えているのにね」
そうだ。ならどうして、「彼女」のことだけを忘れてしまっていたのだろう。
昔の記憶をほとんど覚えていないというのなら理解できる。だが、忘れているのは蒼葉のことに関するものばかりなのだ。
他の記憶は、実感こそ伴わないものの、鮮明過ぎる程にはっきりと思い出すことができるというのに。
蒼葉に関する記憶だけが、何故かぽっかりと抜け落ちてしまっていた。
「記憶喪失、って訳でも無さそうね。アレは元在った記憶が鳴りを潜める類のものだから。意図的に抜き取られたか、あるいは、初めから存在しなかったのか。どちらにしても、今のわたしに処置できる代物じゃなさそうね。もっと早く来てくれたら、何とかなったのかも知れないけど」
その時初めて、「彼女」は「わたし」を正面から見た。
「彼女」には「わたし」の姿は見えていないはずなのに。
哀れむでもなく蔑むでもなく、ただひたすらに静かな視線が「わたし」を射抜く。
ああ、どうして「わたし」はこの子のことを忘れてしまっていたのだろう。
こうして再会して、どうして未だに思い出すことができないのだろう。
今更懺悔するのは遅いかも知れない、だけどどうしても謝りたかった。
一言。そう、一言話すことさえできれば。
だけど蒼葉は、首を横に振った。
そんなものは要らない、とでも言うかのように。
「わたしは、貴女に忘れられてしまったことが悲しい。でも、わたしを忘れてしまった貴女がわたしに逢いに来てくれたことを、それ以上に嬉しく思っているの。だからかずら、貴女が謝る必要なんて無い。ねぇ、かずら。お願いだから、そんな風に悲しまないで」
何故蒼葉に逢いたかったのか、やっと分かった。
記憶の穴を埋める為には、どうしても「彼女」の存在が必要だったのだ。
たとえそれが束の間の邂逅に過ぎないとしても、「わたし」はここに来る必要があった。
だから来た。そして気付いた。
──木頭蒼葉は日向蔓にとって、かけがえのない親友だったのだ、と。
「そうだ。右手、酷い怪我してるよね。待ってて、すぐに治してあげるから」
何本もの細い糸が、包帯を突き抜けて「わたし」の体内に侵入して来る。
でも、嫌な感じはしない。蒼葉が神経を傷つけまいと気遣ってくれているのが分かったからだ。
「動いちゃ駄目だよ、糸が切れちゃうから……って、縛って動けなくしていたんだっけ。ごめんね、神経線維の縫合が終わったら、すぐに解放してあげるから」
蒼葉の糸は優しく、そして繊細だった。
決して相手を拘束したり貫いたりする為だけの能力ではない。
そう、「高貴なる線形芸術」の名が示す通り。本来は、芸術的なタッチで以って、繊細に描写されるべきものだったのだ。だから、このようなこともできる。一度切れた神経線維を再び繋ぎ合わせるという、神業のようなことも。
「はい、これで終わり。糸は切っておいたから、もう動かせるようになってるはずだよ」
「……ほんとだ」
呟きは、口から漏れた。喋れる。
右手の包帯を解き、指を一本ずつ動かしてみる。動く。
元通り、いや前以上に滑らかに動いている。
「凄い。貴女、天才ね」
称賛の言葉が、口を突いて出た。
それに対し「彼女」は微笑みで応える。
初めて蒼葉が見せた、年相応の少女らしい、屈託の無い微笑み。それはつられてこちらも笑ってしまう程の、素敵な笑顔だった。
「さて。そろそろお別れの時間ね」
笑顔は一瞬で、すぐに元の無表情に戻った。でも、それで充分だった。
一瞬でも「彼女」の笑顔を見ることができたのなら、「わたし」は。
きっともう、二度と蒼葉を忘れることは無いだろう。
消える瞬間。
「さようなら、かずら」
と「彼女」は言って。
「さようなら、あおば」
と「わたし」は応えた。
かつて、何度も繰り返して来たはずの挨拶を。
「わたし」達はここに来てようやく、交わすことができた。
◆
部屋に戻った時、「わたし」を迎えてくれたのはサトーの恨めしげな視線だった。
その彼に抱き付いて、有川先生はすっかり眠りこけてしまっている。
目を覚ます様子は無い。
──床に転がる数本のビール瓶が、全てを物語っているような気がした。
恐らくは話し掛けても反応しない「わたし」を見て、酒でも飲んで待とうと先生辺りが言い出したのだろうが。
「本気で、死を意識した」
「ご愁傷様」
有川先生の酒癖が悪いのは周知の事実だ。
だが初対面のサトーにそれが分かる訳もなく、つい飲ませてしまったのだろう。
「わたし」が居たら、間違い無く止めていただろうが。
結果、悲劇はサトーの身に訪れた。
「触らぬ神に祟り無し、アリアリにお酒は禁物です。死にたくなければ、良く覚えていて下さいね」
「アリアリ?」
「有川先生の昔からのあだ名です。ちなみに禁句ですから、先生の前では決して口にしないで下さいね」
「……了解した」
疲れたようにサトーは応え。それで全ての気力を使い切ったのか、仰向けに倒れてしまった。
それきり、ぴくりとも動かなくなる。後はもう、有川先生の為すがままだろう。
サトーに合掌し、「わたし」は酒臭い部屋から一足先に脱出した。
独り、外を歩いていく。
特に行く当てがある訳ではない。
何をするでもなくただぼんやりと、早春の並木道を下っていった。
気が付くと、「わたし」は。
一面を桜に覆われた、公園の中に居た。
桜の樹の下には死体が埋まっている。
誰かがそう言って、根元を掘り起こそうとした。
当たり前だが、すぐに止められた。
だから結局、桜の樹の下の死体が発見されることは無かった。
知っているのは「わたし」だけ。
だけど「わたし」は掘り返そうとは思わない。
誰かに掘り返して欲しいとも思わない。
何故なら。
当の死体本人が、それを望んではいないからだ。
美しい桜の栄養分となることを、「彼女」は自ら選んだ。
だから「わたし」は、「彼女」の遺志を尊重することにしたのだ。
少なくとも「彼女」には、意味のある死が訪れたのだと。
そう、無理矢理にでも自分を納得させて。
さようならと、別れの挨拶を告げた。
「彼女」が木頭蒼葉なのか、それとも別の誰かなのか。
それは「わたし」には分からないし、きっと分かる必要も無いのだろう。
だって桜は、あんなにも綺麗で。
いつだって、そこに咲いているのだから。
もっとわたしを見て、と。
いつだって、咲き誇っているのだから。
了
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