#Σ「愚図の斜塔──No Future──」

(1)恋

 見えているのは死神の姿。


 彼の命を奪い、

「どうして──」

 今、「わたし」を殺しに現れた、

「……殺したんですか」

 純白の魔女。


 彼女は笑っていた。

 声も立てずに、嘲るように。

 それでも彼女は、笑っていた。


 それと同時に。

 ──何でそんな質問をするの、と。

 真紅の双眼が、「わたし」を責めるように見つめていた。


 その瞬間に、理解した。

 ああこの化け物に、「わたし」の言葉は届かないのだ、と。


 それが。

 観察者、日向蔓の限界だった。


 ──ああ。なんて、愚図。





 恋をすることなど、一生無いものと思っていた。

 ましてや愛されることなど、絶対にありえないと思っていた。


 だから彼が「わたし」の前に現れた時、殺意さえ覚えたものだった。

 何故なら彼は、いとも簡単に口にしてみせたのだから。


「日向。俺と付き合ってくれ」


 一生に一度聞けるかどうかも分からない台詞を。

 別にどうと思うことなく、一緒に歩いていた橋の上で。

 彼はさらりと、聞き逃しそうになるくらい自然に、そう言ってのけたのだ。


 ──この人は、一体何を考えているんだ。


 眩暈のする頭で、「わたし」は「わたし」をじっと見つめる彼の顔を、正面から視ていた。素朴な、疑うことを知らない真っ直ぐな瞳が「わたし」を捉えて離さない。

 直感的に、駄目だと思った。こういうタイプは「わたし」には合わない、と。

 そう思って、拒絶の言葉を放とうとしたその時。


 ──唐突に、見えてしまった。


 彼の最期。

 そして、彼の傍には日向蔓の姿が在った。


 「わたし」には、本来見えないはずのモノを映し出すことのできる眼がある。

 「観察者の眼」と呼ばれるそれは、「わたし」の意思とは無関係に、無秩序に、理不尽に何かを見せ付けて来る。

 何か。それは過去であり、現在であり、未来であり。「わたし」には到達し得ない筈の場所でもある。あるいは、現実には起こり得ない現象等々。

 大抵の場合、見たモノと現実の間に因果関係は無い。


 だが、未来視だけは例外だった。

 この眼で見た未来は、絶対に、何が起ころうとも変えることはできないのだ。

 言うなれば未来を確定する能力を、「観察者の眼」は持ち合わせている。


 そう。その時、彼の未来は確定されてしまったのだ。


 なら、仕方無い。

 それならせめて、最後まで付き合ってやろう、と。その位の責任は果たしてやろう、と。

 その程度の気持ちから、「わたし」は彼との交際を承諾した。


 今から思えば。

 あの時「わたし」は、きちんと断っておくべきだったのだ。

 あんな軽い気持ちで、付き合うべきではなかった。

 そうすれば、こんな思いをせずに済んだのに。


 ──失うものなど何も無いと、いつまでも思い込んで居られたはずなのに。


 いつまでも。

 そう、「わたし」が死ぬ、その瞬間まで。





 彼の名は佐々木と言った。


 下の名前は知らない。

 講義の度に教授が毎回受講者全員の出欠を取っているから、聞いたことが無い訳ではない。単純に覚えていないだけだった。

 「わたし」がそう言うと、佐々木は酷く凹んだ様子を見せたけど。

 それは、お互い様だろう。

 何故なら彼も、「わたし」のことを「日向」としか呼ばないのだから。

 と言って、「わたし」も別に蔓と呼んで欲しい訳ではない。

 むしろ日向の方が、佐々木には似合っている気がした。何故なのかは良く分からなかったが。


 とにかくそういう訳で、佐々木は「わたし」と同じ大学に通う学生である。年は一つ上。何でも一年浪人していたらしい。

 人畜無害な人柄のせいか、友達は比較的多いようだ。

 もっともそれは「わたし」と比べてのことなので、一般的にどうなのかは分からない。


 でもまあ確かに、善人ではあるようだ。

 彼はお節介な程に世話を焼いてくれたけれど、どうしても触れて欲しくない事柄には突っ込んで訊いては来なかった。

 例えばサトーの存在。たまにふらりと大学に出没する暗殺者を見ても、佐々木は黙って傍観するだけだった。こちらとしては説明するのが面倒だし、彼を巻き込まずに済むので助かる。


 逆に、訊いても差し支えないと判断した事柄については、まるで容赦が無かったが。


「なあ日向。お前って誕生日いつだっけ?」

「…………」


 試しに嘘の誕生日を教えてみようかとも思ったけど、隠す意味も無かったので正直に応えた。

 佐々木のことだ。「わたし」がそうだと言えば、彼は何があってもそれを信じるのだろう。疑うことを知らないと言うよりは、「嘘」という概念を知らないのか。あるいは「わたし」が佐々木の彼女だからなのか。それは分からない。


 本当に、何もかも分からない。

 「わたし」は彼のことを何一つ知らないのだと、知り合って一ヶ月程経ってようやく気付いた。


 「観察者の眼」の力をもってしても。

 佐々木の心の奥底を覗くことは、決してできなかったのだ。





 ある日、佐々木がデートに行こうと言い出した。


 人込みは苦手だと「わたし」が断ると、彼は「わたし」の手を取って走り出していた。

 彼曰く、「わたし」に拒否権は無いらしい。


「痛いです。いい加減手を離して下さい。一人でも歩けますから」

 と「わたし」が文句を言うと、

「駄目。日向、今離したら帰っちゃうだろ? お前が怒ってるの、俺にはすっごく良く分かるんだ。だからもう、絶対離してやんない」

 と。何故だか嬉しそうに、佐々木は笑って応えた。

 憎らしい程に爽やかなその笑顔。何が嬉しいのか、何が楽しいのか。「わたし」には分からないし、分かりたくも無い。

 彼が言い出したデートは、「わたし」にとっては苦痛でしか無かった。


 だと言うのに。

 「わたし」にはどうしても、彼の手を振り解くことができなかった。


「ほら、見なよ」

 一体何分間歩き続けたのか、とっくに夕日は沈んでいて。気が付くと「わたし」達は、丘のてっぺんに居た。

 何のことは無い、大学のキャンパスを出て直ぐ裏側にある、こじんまりとした丘だ。年に何回かある奉仕活動で登ったことがあるので、特に物珍しくも無い光景のはず──だった。


 だけど、今。

 この丘から眺める風景は、いつもとは全く異なるものであった。


「な、凄いだろ。俺のとっておきの場所さ。ここからなら、町が一望できるんだ。これで雪でも降りゃあシチュエーションとしては完璧なんだが……流石にまだ早過ぎるよな」

 見慣れたはずの、町の夜景。それが、こんなにも美しく感じられるとは思わなかった。

 整然と幾筋にも並んだ光のイルミネーション。町の人々の営みを表す灯、一つ一つは何気ないものであるそれらが重なり合って、こうした神秘的な光景を作り出している。

 今まで「わたし」が気付くことの無かった、素朴なる美の世界──その存在を、佐々木は知っていた。特別な眼が無くても、彼には他人に見えないモノを見ることができたのだ。


 軽く、打ちのめされた気がした。

 「わたし」が物を見ることに関して遅れを取るだなんて、そんなことありえないと思い込んでしまっていたから。

 だから、素直に驚かされた。


「綺麗」

 思わず、呟きを漏らしてしまって。

「だろ? プレゼントに何を贈ろうか散々迷ったんだけどよ、自然のものには敵わないよな、やっぱ」

 後悔した。

 これでは、彼の思惑通りになってしまう。そんな展開、日向蔓は望んでいなかったはずなのに。

 彼は「わたし」には合わないタイプのはずで、「わたし」は彼のお節介じみたちょっと強引な所が苦手で──そんな彼を、少し羨ましく感じてもいた。


 だから、何だと言うのか。

 「わたし」が佐々木に対して、何らかの特別な感情を抱いているとでも言うのか……?

 ありえない。「わたし」に恋なんてする資格は無いし、する意味も無いのだから。

 それに佐々木だって、もうじきこの世から消えてなくなるのだ。具体的な日時までは分からないけど、死の瞬間の「わたし」も佐々木も、今より年を取っているようには見えなかった。

 近い将来佐々木は「わたし」の目の前で死に、「わたし」もまたサトーによって殺される。そんな二人に、愛し合う意味があるとは思えない。


 なのに佐々木は、「わたし」にとって止めとなる一言を放ってしまった。

「誕生日おめでとう、かずら」

 覚えていたんだ、「わたし」の誕生日。

 覚えていたんだ、「わたし」の名前。


 ──呼ばれて初めて、それが自分の名前なのだと実感できた気がした。


 淡い蒼月の下、町の灯に彩られた丘の上で。


 日向蔓は、佐々木の想いを受け入れた。

 志朗という、彼の名前と共に。


 全てが手遅れだと悟っていて、なお。

 いや。だからこそ尚更、彼の傍に居てやりたかった。

 最後までずっと、一緒に居てあげたかった。

 ──たとえそれが、意味の無い自己満足に過ぎなかったとしても。


 「わたし」は、佐々木志朗の恋人で居たかったのだ。

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