(2)未来死

 人が沢山死んでいる構内を、「わたし」はサトーを伴って歩いていく。


 彼らはかつて人であり、

 そして今は、人ではないモノ達だ。


 だから彼らが学生達の目に止まることは無い。見えるのは「わたし」だけ。

 彼らを踏まないよう気を付けて歩いているのは、「わたし」だけだった。


 散々踏み付けられ、車に轢き潰された蛙のように平たくなった彼らの口から、苦悶の叫びが漏れる。

 そして誰も、その叫びに気付くことは無い。

 平気な顔で、仲間達と話をしながら、足早に歩き去って行く。

 血に塗れた廊下を、何事も無かったかのように平然と。


 ──それは酷く不自然な光景だったはずだが。


 毎日こうして歩いている内に、慣れてしまったようだ。

 最早彼らを見ても、一片の同情すら湧きはしない。

 多分「わたし」は、正常な感覚が麻痺してしまっているんだと思う。


 もっとも、そんなことは、とっくの昔に分かっていたことではあったが。



「お。かずら、遅ーい! 早く来ないと席無くなっちゃうよー!」

「うふふ。こんなこともあろうかと、かずらさんの席はちゃんと確保しておきましたのよ。ささ、こちらにどうぞ。……執事(バトラー)、席取りご苦労様でした。もう下がって宜しくてよ」


 講義室に到着すると、二人の女生徒が「わたし」に声を掛けて来た。

 一人は設楽木飛鳥(しだらき あすか)、そしてもう一人は御堂瑞希(みどう みずき)。共に「わたし」の同期であり、彼女達とは大学で初めて知り合った。


「ほらほら、後五分で授業始まっちゃうよ! さあ、座った座った!」


 飛鳥に背中を押され、瑞希が取ってくれていたと思しき席に座る。

 何故かは分からないが、この二人はやたらと「わたし」の世話を焼きたがる。

 気が付くといつも三人で居ることが多いのも、そんな二人の性分の所為だろう。


 活発な飛鳥と、淑やかな瑞希。

 この二人と一緒に居ると、不思議と心が落ち着いていくのを感じる。


 だから、か。「わたし」は第三者の存在について、迂闊にも失念してしまっていた。


「うっわ。背が高いねこの人。ねー、この人かずらの彼氏か何か? さっきからずっと、凄い目でこっちを睨んでるんだけど」

「そんな、かずらさんに失礼ですわよ飛鳥さん。確かに、気になる殿方ではありますけど……前に一度、かずらさんのお宅でお顔を拝見したこともございますし」

「えぇっ、それマジ!? そ、それって所謂同棲って奴ですかー!?」

「あ、だからそういうことは詮索しちゃ駄目ですってば。ほら、かずらさんさっきから黙っちゃって、一言も口を利いて下さらないじゃないですか」


 飛鳥と瑞希の会話は、聞いていて飽きが来ない。

 だからいつまでも聞きっぱなしで、こちらから話し掛けることは滅多に無いのだが。

 あまり黙り込んでいると心配されるので、適度に返事を返すように心掛けてはいた。


「か、かずら、あんたマジでこの人と、ど、同棲し、して」

「──え?」


 ふと我に返ると。目前に、頬を赤く染めた飛鳥の顔があった。

 吐く息が掛かる程に近くまで接近していた為、両手で彼女を押し退けた後で。

 「わたし」は飛鳥が言った言葉の意味を、ようやく理解していた。


「ヒムカイカズラ。俺はどこに座ったら良いのかな? よもや一時間余りの間、立ち見していろと言う訳ではあるまい?」

「きゃー! 喋った、喋ったよこの人! しかもかずらのこと呼び捨て! うわー、マジで恋人同士だったんだねオメデトウ! あんたの万年日陰人生にも、やーっと一つの光明が差し込んで来た訳だ! うんうん、お母さん嬉しいよぅ」

「…………」


 多分その時の「わたし」は、酷く間の抜けた表情をしていたんだろうと思う。

 授業開始のチャイムを聞き逃してしまったなんて、今日が初めてのことだ。



 とりあえず、サトーには教室から出て行って貰った。


 その後飛鳥と瑞希には、ある程度の事情を説明した。

 サトーが暗殺者であることには触れていない為、中途半端な説明になってしまったが。

 それでもしないよりは幾分マシだろうと思って、出来るだけ事実に近い説明をするよう心掛けた。


 その結果。


「成る程、あいつストーカー野郎だったんだね! そういや如何にもストーカーやりますって位ヤバそうな顔してた気がする! 可哀想にかずら、あんなヤバい奴に追い回されていたんだねぇー。でも、もう安心して良いよ。これからはあたし達があんたを護ってあげるからねっ」

「もしもしバトラー、私です。直ぐに警備の者を何人かこちらに寄越して下さい。ええ、早急に、です」


 何とか、恋人でないことは分かって貰えたようだ。

 新たな誤解を招いてしまった気もするが、そこまでは「わたし」の知ったことではない。


 予め、サトーには言っておいたはずだ。

 ついて来るのは勝手だが、その後の責任は一切取らない、と。


 数分後。軍用輸送ヘリが一機中庭に着陸し、その中から迷彩服を着た男の人達が十人近く降りて来るのが講義室の窓から見えた。

 どうやらあの人達が、瑞希が呼んだ警備の人達らしいが。ガードマンにしては、装備がやたらと軍隊的なのは何故だろう。


 やがて、各所で銃声が聞こえ始める。どうやら本格的に戦闘が始まってしまったらしい。

 時折聞こえて来る爆音と悲鳴をBGMにしながら、「わたし」は黒板に書かれていく理解不可能な文字の羅列を講義ノートに書き写していった。



 サトーのことを思い出したのは、それから二時間後。

 上昇していく軍用ヘリを見送りながら、瑞希が「取り逃がしましたわ」と口惜しそうに呟くのを聞いた時のことだった。





 退屈極まりない、午後の講義が終わった。


 これで後は帰るのみとなったが、「わたし」が歩き出す前に飛鳥に止められた。

 曰く、「わたし」に練習を見ていって欲しいとのこと。

 特に断る理由も無かったので、彼女の練習に付き合うことにした。

 瑞希は居ない。彼女は茶道部に入っており、今日は丁度、週に一度のお茶会の日だった。


 飛鳥は陸上選手だ。種目は400m。

 でも大学の陸上部に所属している訳ではない。大学の看板を背負いながらも、彼女はあくまで個人として記録に挑んでいた。

 何故陸上部に入らないのか、答えは単純明快で「団体行動が性に合わないから」とのこと。加えて彼女は「自分だけの力でどこまでやれるか、試してみたいんだ」と、少し照れ臭そうに応えた。


 何回か見ている内に、飛鳥のフォームがどんどん綺麗になっていくのが、素人目にも分かって来た。練習を重ねることで彼女は確実に上達している。

 来年の国体に出るのが当面の目標だと言っていたが、このまま記録を伸ばしていけば実現も夢ではないだろう。


 ──もっともそれは、来年があれば、の話だったが。


「かずら、どうかな。あたしの走り」


 息を切らせ、汗だくになって。それでも笑顔で訊いて来る彼女に、「わたし」は頷きだけで応えた。こんなに一生懸命頑張っている飛鳥に、掛ける言葉などは無い。


 ──どんなに頑張っても、その努力が報われることは無いだなんて。そんなこと、「わたし」にはとても言えなかった。

 何の努力もしていない「わたし」に、彼女の頑張りを否定する権利は無いと思う。


「へへ、そっか。目標タイムまで後少しだし、もう一分張りしてみようかな」


 飛鳥は再び走り始める。400m走の場合、ただ単に速く走るだけではなく、速度を一定に保つことも重要なのだと彼女は言っていた。


 ──来年の日の出を迎える前に、彼女は死ぬ。

 死因は、首吊りによる自殺。

 何故今こうして明日を夢見ている彼女が自らの死を望むことになるのか、断片的にしか未来を見ることのできない「わたし」には分からない。

 見てしまった事実だけが、「わたし」の中に既死感として記憶されてしまっているのだ。


 悩み事があるかどうか、それとなく訊いてみたことはある。

 結果は、特に無し。元々飛鳥は明るい性格で、ストレスを内に溜めるタイプではない。

 そんな彼女の自殺だからこそ、妙に気になった。だが幾ら調べても有力な情報は得られず、また眼の力を以ってしても決定的な現場を見ることはできなかった。

 そして、今に至っている。


 大体、原因が分かった所で「わたし」にはどうすることもできないのだが。

 既に確立された未来が「在る」のだから、今更変えられる筈が無い。

 変な言い方になるが、時既に遅し、なのだ。

 そう、一度見てしまった後では、未来を変えることはできない。


 子供の頃、何度か試してみたことがある。

 例えば交通事故に遭う予定の人が居たとして、前もってその事実を教えておいたらどうなるのか、とか。

 結果として、その人は事故に遭い一週間程入院する羽目になった。

 「わたし」の忠告を聞かなかった所為ではない、事実その人は事故現場には近寄らないよう注意していたそうだ。

 だが、それでも事故に遭ってしまった。防ぎようの無い事態が起こってしまった為だ。


 ──その人にとって最も大切に思っていた人が、事故が起きた日に突然倒れて危篤状態に陥ったのだ。

 原因は不明、あまりにも早過ぎる病状の進行だったと言う。

 愛する人の死を前に、その人は冷静な判断力を失っていた。病院への最短ルートを全速で走行中に、ハンドル操作を誤って事故を引き起こしてしまったのだ。

 そしてそれは、「わたし」が見た未来と全く同じ光景だった。


 その人の話によると、事故の翌日になって、恋人は嘘のように回復したらしい。


「あはは、馬鹿みたいな話だろ? でも何か、俺が駆け付けないとあいつそのまま死んじまうような気がしたんだよな……ゴメンな、折角注意してくれてたのによ」


 その話を聞いて、「わたし」は確信した。

 一度見てしまった未来は、絶対に、何が起ころうとも変えることはできないのだと。

 いやむしろ、変えてはいけない──こちらが抵抗すればする程、未来はそれを上回る力で自らを修正しようとするのだ。

 過去を変えることができないように、未来もまた変えることはできない。そのことを知って、「わたし」は自身が持つ能力の危険性に、初めて気付いた。


 だから。「わたし」はただ、見ることしかできない。それ以上を望んではいけない。飛鳥には出来れば生きていて欲しいけど、それも叶わぬ夢。


 飛鳥だけじゃない。瑞希だって何年か後には死ぬ。

 死因はまだぼんやりとしか見えていないけど、ああ死んだな、と分かってしまったから、きっと死ぬのだろう。


 サトーは……まだ見ていないけど、いずれは見えてしまう気がする。少なくとも「わたし」が死ぬ前に命を落とすことは無い筈だが。

 彼がどうなろうと「わたし」の知ったことではない。何しろ彼が居る所為で、「わたし」は死んでしまうのだから。


 走り込みを終えて軽く屈伸運動をした後、飛鳥は「そろそろ帰ろうか」と言って来た。

 夕暮れの太陽を背景にした彼女の姿は、まるで蜻蛉(かげろう)のように薄ぼんやりとしていて。


 何だか酷く、儚く見えた。



 帰り道、ふと考える。


 一度見た未来は、観察者である「わたし」が死んだ後でも有効なのだろうか、と。

 もし「わたし」が死ぬことでリセットされるのなら、飛鳥や瑞希には助かる可能性がある。恐らくサトーは来年まで見逃す気は無いだろう。

 いや、「わたし」から頼んで、殺す順番を早めて貰う手もある。

 そうだ、それなら早速、今夜にでも頼んでみよう──。


「無理だ。君一人の命で、償える未来は無い」


 いつの間にか、隣にはサトーが居た。「わたし」の思考を読み取ったように、彼はあっさりとそう言って来る。

 それは反論の余地を与えない、確信的な断定だった。


「ヒムカイカズラ。君のその眼は、何も君だけの特権という訳ではない。同じような眼を持つ人間は世界に何人も居るし、君が死んだ後もその眼だけは生き続けて、次の持ち主に受け継がれていく。その眼はただのレンズという訳じゃない、見たモノを記録する記憶端末の役割をも果たしているんだ。

 つまり。君がいつ死のうが生きようが、一度確定された未来は何も変わらないんだよ」


 本当に、容赦の無い言い方だった。

 彼は、「わたし」が死ぬことに何の価値も無いと決め付けているのだ。

 それは、分かっていたことではあったけど。自分で漠然とそう思うのと、他者から断定されるのとではやはり違う。


 だけど、おかげですっきりした。


 無価値で無意味な日向蔓という存在には、死にすら一片の希望も与えられはしないのだと、はっきり自覚することができて。


 今までもやもやとしていたモノが、鮮明になって。

 少し、嬉しかった。



 そう言えば。

 自分がサトーに殺される運命にあることを、「わたし」はまだ彼に告げてなかった。


 道理で、心配してくれる訳だ。

 未来が確定されていると分かっているなら、サトーは大学についてなど来なかっただろう。何を案ずることも無く、夜に備えて眠っていたはずだ。

 そのサトーが大学に来て、蛙を殺して、瑞希の警備隊と交戦し、そして何事も無かったかのように、こうして「わたし」と並んで歩いている。


 ──面白い。

 何故だろう。それは凄く、面白いことのような気がした。



 だから、これからも黙って居ようと。

 「わたし」は、密かに決意した。





 月を見ていた。


 その行為自体に意味は無く。

 その行為に対してさえ、価値を見出せないでいる「わたし」という存在が居る。


 青白い面の上に生じた黒い亀裂(クレーター)は、まるで眼と口の様で。

 丁度、笑みの形に刻まれている。少なくとも「わたし」には、そう見えた。


 ──月が、嘲笑っている。


 でも、誰を?

 「わたし」には「わたし」ではない別の誰かであると応えられる自信が無い。

 ある意味、「わたし」が最も相応しいとさえ思えてしまう。侮蔑の対象としては。


 「わたし」は確かに、月を見ていた。

 半死人のような顔で、月もまた「わたし」を見つめているように思える。


 黒い亀裂が、徐々にその面積を増していく。

 ますます、笑っているように見えて来る。

 気味の悪い笑顔と共に、闇が、月を侵していく。


 やがて、月は完全に闇に包まれ、夜空から光が消えた。

 だけど「わたし」には未だに見えていて。

 そして「わたし」はようやく、その正体に気付いたのだ。

 アレは、人の顔などではなかった。そんな、大それたモノではなく。


 ──それは、一個の眼球だった。


 大きな黒い眼球が、「わたし」をじっと見下ろしていた。



 思えばあの時から、奇妙なモノが見え始めた気がする。

 大した思い出ではない為、はっきりと思い返せた訳ではないが。


 もしかしたら「わたし」はあの時、月から「観察者の眼」を貰ったのかも知れない。


 だからどうした、という訳でもないけど。

 もう二度と、忘れることが無いよう、こうして日記に書き残している。


 窓から夜空を眺めれば、今宵も満月。

 だけど今日の月はあの時のような蒼月(ブルー・ムーン)ではなく。

 血のような赤色に輝く、紅月(レッド・ムーン)だった。


 それは、痛いのだろう。

 何しろ眼球を、抉り取られているのだから。


 ──返して欲しいのだろうか。


 「わたし」だって、返せるものならとっくに返却している。

 百害有って一利無し。こんな目玉、「わたし」には必要無い。


 だけど。月がどんなに欲しがっても、「わたし」がどんなに要らないと思っても。

 この眼は未だに「わたし」の中に在り、奇妙なモノを映し続けているのだ。



 星空を美しいと思うのも、眼の能力の所為なのだろうか。

 それとも、「わたし」自身がそう感じているのだろうか。

 それは、「わたし」には分からないことの一つだ。


 この眼を以ってしても、覗くことのできない一つの現象だ。



 サトーは仕事に出掛けてしまって帰って来ない。

 恐らく明日の朝にならなければ、戻っては来ないだろう。

 仕方なく「わたし」は彼の代わりに、


「おやすみなさい」


 と紅月に告げて、カーテンを閉めた。



 ただ、それだけで。

 今日一日が、終わった気がした。




 了

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