#DREAM「透明な絵本─the Observer's Eye─」
(1)殺人者、大学へと至る
月を見ていた。
その行為自体に意味は無く。
その行為に対してさえ、価値を見出せないでいる「わたし」という存在が居る。
青白い面の上に生じた黒い亀裂(クレーター)は、まるで眼と口の様で。
丁度、笑みの形に刻まれている。
少なくとも「わたし」には、そう見えた。
──月が、嘲笑っている。
でも、誰を?
「わたし」には「わたし」ではない別の誰かであると応えられる自信が無い。
ある意味、「わたし」が最も相応しいとさえ思えてしまう。侮蔑の対象としては。
「わたし」は確かに、月を見ていた。
半死人のような顔で、月もまた「わたし」を見つめているように思える。
黒い亀裂が、徐々にその面積を増していく。
ますます、笑っているように見えて来る。
気味の悪い笑顔と共に、闇が、月を侵していく。
やがて、月は完全に闇に包まれ、夜空から光が消えた。
だけど「わたし」には未だに見えていて。
そして「わたし」はようやく、その正体に気付いたのだ。
アレは、人の顔などではなかった。そんな、大それたモノではなく。
──それは、一個の眼球だった。
大きな黒い眼球が、「わたし」をじっと見下ろしていた。
「あら、こんな所に居たの。かずらちゃん」
声が、聞こえた。良く通る、少し高い声。
誰の声なのか、今はもう思い出せない。
月のモノではないことは確かだ。眼球に、言葉を発する機能は無い。
ただ見ることしかできないから、眼はより正確な多くの情報を主に伝えようとするのだ。
それは何も、姿形や色彩には留まらない。時には感傷を、時には感動を。そして時には、絶望や希望をも。
水晶体(レンズ)を通して、人は多くの情報を得、一喜一憂する。
それならば。現在空に浮かんでいるあの眼球もまた、何らかの情報を、その持ち主である誰かに伝えているのだろうか。そしてその誰かもまた、自らの眼から得た情報によって喜んだり悲しんだりしているのだろうか……?
それ以上のことは、「わたし」には幾ら考えても分からなかった。
「外は寒いでしょう。さあ、早くお家に入りなさいな。温かいシチューが出来ているわよ」
また、声が聞こえた。
促すような、震えた声。
その声を聞いて初めて「わたし」は、寒いと言う感覚(モノ)を知った。
寒さとは、針で刺されたように痛くて、その内痛みさえも感じなくなる不思議な感覚である、と──そう、認識する。
痛いのは嫌いだ。
「わたし」は忠告に従い、家に戻ることにした。
その途中、一度だけ月を振り返って。
青白い光に晒され、「わたし」は思わず目を閉じていた。
──皆既月食。
滅多に目にすることのできない、束の間の天体ショーは、こうしてあっさりと終わりを告げ。
「わたし」こと日向蔓(ひむかい かずら)は、ごく普通の日常へと戻っていった。
◆
いつか、何処かで目撃した筈の光景。
その印象が強ければ強い程、鮮明に思い出せる確率は高くなる。
尤も、強過ぎる印象は逆に、元の記憶を壊してしまう原因となりかねない危険性を秘めている訳だけれど。
大抵の思い出は曖昧で、それ故に脳の許容量を超えることは無い。
「わたし」が今垣間見たのも、そんな思い出の一つに過ぎなかった。
大したことではない。ただ月を見ていただけだ。
朝食を取っている時に思い出す分には一向に問題無い、無害な記憶だ。
確かにあの時の月は印象深かったけど、それで現在の日向蔓という人格が壊される訳ではない。そう、所詮は些細な思い出の一つに過ぎない筈。
「ヒムカイカズラ」
「…………」
「ヒムカイカズラ」
「…………」
「──飯のおかわりを頼みたいのだが。今日は駄目なのか?」
「あ、ああ。はい、どうぞ」
サトーの声で、我に返った。同時に、自分が酷く考え込んでいたことに驚いてもいた。
渡された空の茶碗一杯に白飯を盛り、彼に返す。
それを文句一つ言わず受け取った後。
「今朝の君には平時の余裕が無い。心此処に在らずといった感じだ。
ヒムカイカズラ。君は一体、何を見た?」
と。彼にしては珍しく、そんなことを訊いて来た。
つまり現在の「わたし」は、彼に心配されてしまう程に、精神状態が乱れているという訳だ。
尤も、そんな自覚は全く無いが。
サトーの職業は殺し屋だ。
「わたし」は近い将来彼に殺される予定で、本来なら彼が「わたし」の体調を案ずる必要は無い。
彼が危惧しているのは、「わたし」が彼以外の要因で死ぬこと──病死や事故死、或いは自殺等で「わたし」が彼の手の届かない場所に逝ってしまうことだ。
そうなってしまえば、彼は「わたし」を殺せなくなり、依頼を果たすこともできなくなる。だから今、「わたし」に死なれたりしては困るのだろう。
「昔見た、黒い月を思い出しました。それだけです。ご心配には及びません、サトー」
出来るだけ簡潔に、要点のみに絞って応える。その言葉に嘘は無い。
サトーに嘘が通じないのは既に立証済みで、「どうして嘘だと分かったの?」と訊くと「心拍数が僅かながら上昇した。若干ながら発汗も確認している」と涼しい顔で応えられたものだった。
「そうか……だが、どのような些細なことであれ、それが君の死に繋がる原因となり得るモノであれば、俺は黙って見過ごす訳にはいかない。確認する。本当に、君は大丈夫なのか? そう、断言できるのか?」
「ええ。だから貴方は、いつものように家で大人しくして居て下さいね。大学について来ると言うのなら止めはしませんが、その後の責任は持ちませんよ」
そう言って席を立つ。
どうにも食が進まないと思ったら、味噌汁の中に豆粒程の小さな赤蛙が入っていて、金切り声を上げていた。
それが煩わしかったから「わたし」は、味噌汁ごと流しに捨てた。
「いってきます」
と挨拶すると、
「君の生還を、神に祈っているよ」
と、十字を切ってサトーは言葉を返して来た。
──まるで戦争に赴く兵士のような気分で、「わたし」は家を出た。
サトーは大袈裟だ。
「わたし」に何か起こると危惧しているのだろうが、それが杞憂に過ぎないことは「わたし」自身が一番良く分かっている。
何故なら「わたし」は、自分自身の死を既に見てしまっているのだから。
既視により得た既死感。
本来見えない筈のモノを見ることができる眼──「観察者の眼(オブザーバーズ・アイ)」という能力を、幸か不幸か、「わたし」は持っている。
過去も現在も未来も、「わたし」には全て見通せる。だから知っている。
「わたし」を殺すのはサトーだ。
逆に言えば彼以外の人間には殺されないし、病死も事故死も自殺も考えられないことになる。穿った考え方をしてみれば、ちょっとした無敵状態な訳だ。
だから「わたし」は死なない。
今は、まだ。
本当に、サトーは大袈裟だと思う。
◆
大学に着いた。
講義の始まりまで少し時間があったので、購買で昼食用のパンとお茶を買った。
その後しばらく、木陰で涼んでいると。
また、奇妙なモノが見えた。
今朝の赤蛙の何百倍もの大きさの牛蛙が、此方に向かって飛び跳ねて来る。
その背中には、無数の子赤蛙がひしめき合っていた。
──勿論そんな生物が現実に存在している訳ではない。
たとえ彼らが居たとしても、普通の人々の目に映ることは無いだろう。
彼らは「観察者の眼」を持つ「わたし」だけが目視できる、本来ならば見えない筈の存在なのだ。
でも、彼らの方は「わたし」達の姿がはっきりと見えているらしく。
たまにこうして、報復にやって来ることがある。
「無理も無いか。ただ鬱陶しいからという理由だけで、貴方の子供を下水に流してしまったんだもんね……いいわ。好きにしなさい」
子犬程もある親蛙の舌が伸び、「わたし」の頬を舐める。
ぞわりとした舌の感触に、鳥肌が立ちそうになる。
けれどそれだけだ。こんな目に遭うのも、もう慣れた。
舌が引っ込み、代わりに親蛙の赤い口から覗いたのは、研ぎ澄まされた二本の白い牙だった。どうやら親蛙は「わたし」を食べることに決めたらしい。
「わたし」の喉元目掛けて、「彼」は飛び掛かって来る。その急な動作に対応できなかったのか、何匹かの子蛙達が「彼」の背中から零れ落ちていくのにも構わずに。
大丈夫。この前みたく毒蛇に内側から身体を食い破られるよりは、ずっとマシな筈だ。
あの時は痛みは無く、肉体的な損傷も特には残らなかった。今回も、きっと大丈夫な筈だ。
それは何の根拠も無い、ただの予感に過ぎなかったけれど。
「わたし」の喉を食い破るよりも早く、親蛙は四散していた。
跡形も無く、子蛙達と一緒に消え失せる。
そして、その代わりとでも言うようにそこには、
「やはり、こんなことになったか。ついて来て正解だったようだな」
右手を此方に向けて翳した、サトーが一人立っていた。
──知らなかった。彼にも本来見えない筈のモノが見えるのか。
「不可視体(インビジブル・マター)か幻像(イリュージョナー)か。いずれにせよ、善くないモノの気配がした。一応気配は絶った筈だが、もう何も見えてはいないか?」
違う。サトーには蛙の姿など見えてはいない。気配だけを頼りに、彼は腕を振るい、そして倒したんだ。
どうやって目に見えない相手を殺したのかは「わたし」には分からない。ただ分かるのは、完全に蛙の姿が見えなくなったという事実だけで。
「わたし」が頷くと、サトーはようやくかざしていた右手を下ろした。
「では俺は帰るとしよう……いや、今ので根源を断ち切れたという保証は無い。今日一日は尾行していた方が賢明か」
「どうでもいいですけど、今日はやけに饒舌ですね、サトー」
「ヒムカイカズラ。それは、お互い様だろう」
そう言って、サトーは少し笑った気がした。
でもそれは平常使っていない表情筋を酷使した結果であり、「わたし」には彼が怒っているようにも見えた。
だけどそれも一瞬のことで、直ぐにサトーはいつもの無表情に戻る。
結局彼は帰らなかった。
監視と警護、二つの名目の為に、彼は今日一日を大学で過ごすことになる。
退屈な日常。現役の大学生である「わたし」ですらそう感じてしまうキャンパスライフを、果たして暗殺者であるサトーが耐えられるのか。
少しだけだが、興味が湧いた。
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