第21話<戦いの儀式Ⅳ>
僕の――式守直也の敵は言うまでもない。
猿だ。
それもニホンザルをベースに製造され、
助教が猿渡という名字だから、猿と戦うというわけじゃない。
これは元々
狂ってる。
それもこれも、天羽の――いや、違う。
猿渡班長の所為だ。
天羽が代役になることを僕が選んだけど、もう少し上手くやればよかった。
精神的には最悪だ。
無駄に緊張している。
手足が震える。
喉が渇き、乾いた唇が張り付く。
僕は猿と戦うことにビビってる。
こんな立場に陥るのは運命なのか。
柄にもなく、代役を志願した。
これはなけなしの正義感を発露してしまった代償。
猿渡班長が、天羽を指名したことはただの虐めだ。
さすがにあれは見過ごせない。
だけど、僕たちはその状況を変えることが出来なかった。
だから、奴隷のように従うしかない。
行く当てもなく、そこに居座り続けしかない奴隷のような立場。
僕は本当に奴隷だろうか?
間違いなく、奴隷だ。
正真正銘、現代の奴隷。そうに違いない。
だから僕は
馬鹿馬鹿しい。
これは一体、何の真似だ。
古代ローマに実在したという奴隷の剣闘士?
僕はそんなに上等じゃない。
似ているのは戦うことだけだ。
猿に勝っても自由は手に入らない。
仮想現実空間におけるRPGゲーム?
それも違う。
そうであれば緊張しない。
もっと楽しく、気楽に出来る。
あの猿は本物だ。野生の猿より質が悪い。
ニホンザルをベースに遺伝工学により作り出された狂暴な
相手が、それほど大きくない個体なのが救いか。
一番大きい戦闘猿は同期が先に殺してくれた。
ありがとう。
担架で運ばれた、名前も知らない君のことは忘れない。
怪我人が出た程度では、このイベントは終わってくれない。
観客は血を見て、余計に盛り上がるだけだ。
別の同期が三〇分ほど前に手首を酷く噛まれて、悲鳴を上げて泣きじゃくった。
彼はそのまま担架で軍病院へ直行したらしい。
どうして、止めないんだ。
士官は威張るだけが仕事かよ。
猿と戦うのは僕たちだよ。
僕、特に僕なんだよ。
ああ、そうか、そうだよな。
だから止めないのか。
自分とは関係ないからな。
僕はやっぱり頭が悪い。
当たり前じゃ無いか、そんなこと。
今戦っているのは他中隊の名前も知らない同期。
このまま行くと、彼は間違いなく負けるだろう。
とてもじゃないが勝てそうにない。
数分後、僕は
檻の中に閉じ込められてワンラウンド5分、一本勝負のゴングが鳴る。
結果――勝者、
敗者、僕。
最低だ。
人類が霊長類の長なんて言葉は嘘だ。
少なくとも、僕の目の前には存在しない。
目の前にあるのは現実しかない。
戦闘猿は生身の人間より強い。
嫌だけど認めよう。
僕は勝てそうにない。
それでも戦うのは僕一人。
この上なく最悪で、これ以下が無いほど最低だ。
ここは数千年前のローマか?
僕はタイムスリップでもしたのか?
堂々巡りだ。
さっき考えたことをまた考えてる。
分かってる。
言われなくても分かってる。
ここは火星だ。
嫌になるくらい、現実の火星。
改造されて、なんとか人が住めるようになった惑星。
ストレスで正気の向こう側へ行ける程度の精神力なら、もっと人生は楽しいだろう。
「――クソったれ!!」
悪態吐いても誰も気にしない。気にするわけがない。
目の前の戦いに、周囲の馬鹿騒ぎは天井知らずだ。
こんちくしょう。
偉大な先人達が、叡智を結集して作り上げた、人類第二の故郷。
ごく一部だけとはいえ緑地化が成功した星。
それなのに、僕がいるのは煙草の煙と零れたアルコールと汗の匂いがむせる体育館。
折りたたみ式の長机とパイプ椅子が並び、スナック菓子やピーナッツが床に転がり、机の上にはアルコールが山と積まれた、上品とはいえない打ち上げの宴。
やっていることは古代ローマと変わらない。
戦いと血と酒に塗れた空間。
ファッキン・ジーザス。
神様なんて死んじまえ。
人間なんて進化しない。
僕らは遺伝子を弄くり回されて、改造されただけだ。
大昔の地球でやっていたことを、未来の火星で繰り返す。
人類は今も昔も馬鹿なままだ。
ああ、僕自身が馬鹿だから仕方が無いのか。
再確認。
頭が良ければ、大学に逃げれたはずだ。
僕には軍隊しか選択肢がなかった。
いや、今の時代なら、これが当たり前か。
みんな、仲間だ。
赤信号、みんなで渡れば、怖くない。
僕でも俳句を詠めるんだ。
ああ、骨の髄まで日本人。
主に文化的に、そして特に遺伝子的に。
これから行うのは、ただの誰かの、娯楽のためだけの戦い。
痛い思いをするのは僕だけだ。
焦燥を重ねた思考は、タイムキーパーが鳴り響かせる甲高いホイッスルにより唐突に断ち切られた。
儀式が一つ、終わったのだ。
「時間切れ!! 止めッ!!」
アナウンスの声が古ぼけたスピーカーが音割れした雑音と共に鳴り響く。
その音量に負けないぐらいの罵声が酷さを増した。
その多くは挑戦者への不甲斐ない戦いをなじる言葉であり、それは賭けに負けた博打打ちの憂さ晴らしに過ぎない。
アナウンスと同時に跳ね回っていた猿が短い悲鳴を上げて檻の隅っこへと飛び退いたが、それはタイムキーパーが持つリモコンにより首輪から電気が流されたからだ。サルに特段驚いた様子は見えなかった。
しっかりと躾けられている証拠と言えるだろう。
名前も知らない同期が猿を殺し損ねた。
馬鹿野郎。
死ねよ、馬鹿猿。
くそったれ。
今さら逃げることなんて出来やしない。
いや、出来なくもないが、怪我をするよりも悪い結果が降り掛かってくる。
猿と戦うのは今日だけだけど、逃げたら先輩たちに毎日いびられるだろう。
まさに、奴隷というべき立場。
僕は現代の奴隷。
軍隊の奴隷。
社会の奴隷。
まさに由緒正しく、奴隷オブ奴隷。
考えるだけ無駄だ。
奴隷は何も考えなくて良い。
代わりに選択肢が存在しない。
だから、今の僕には選択肢が無い。
選ぶ自由が無い。少なくとも、今はない。
訂正する。
今回だけは自分で捨てた――天羽の代理になったから。
ああ、クソ。
さすがに、僕でもこれだけは口に出来ない。
なんて女々しい性格だ。
式守はベンチから腰を、引き剥がすように立ち上がった。
踏み出す一歩目がやけに重く、遅かった。
それでも、真っ正面を睨んで無理矢理歩き出す。
ここから逃げる惨めさと、猿と戦う痛みを天秤に掛けて、後者を選んだ。
途中で敗北した同期とすれ違う。
目を向けなかった。見たら負けてしまうような気がした。
だから見ない。慰めの言葉も掛けない。
今は自分のことだけに集中したい。
親しくない奴のことなんてどうでもいい。
皆の声援が聞こえる――。
「式守! 怪我しないで!」
罵声の中でも、天羽の声はよく届く。
「私が絶対治すからね!」
彼女の傍にいるのは椎名か。
「式守! ファイトぉおお!! ファイトぉぉおおぅうっ!!」
聞き慣れた汚いダミ声は同期の野郎ども――。
「式守ぃいい! エテ公ごときに負けんじゃあねぇぞ!」
「君なら勝てる! 自分を信じて!」
「気合いだ! 気合い! 気合いいれてけ!」
「アッラー! アクバル! アッラー、アクバル!」
「あの猿を殺せぇええッッ!!」
ああ、ボブの野郎、マジでうざってぇ。
馬鹿みたいに騒ぎやがって。
慣れない人助けはするもんじゃない。
僕には全く似合わない。
恐怖と興奮に駆られて叫びたい……なんだ――結局、僕も変わらない。
出来ないことを選んだ、ファッキン・ジーサスな愚か者だ。
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