第15話<リトル・キョートⅡ>
クリスティーナとフランチェスカは連絡艇を降りると、火星日本領第4航宙港――別名“
それは気持ちが軽いのではなく、物理的に軽いからだ。
火星は地球の約四割程度の重力しかないためで、
彼女らを始めとする選ばれた8名の成績優秀者――そのほとんどは
航宙港の内部――地球と変わらない太陽の光が差し込むように調整されたメインターミナルの巨大な吹き抜けの下で、クリスティーナは背伸びしながらゆっくりと周囲を見渡した。
ここで感じる太陽の光はもはや地球で感じるのと変わりがない。
その日を浴びて反射する磨き上げられた白い床と壁面は清掃が行き届いて、至る所に設置された観葉植物は視界に優しい緑と共に大事な酸素を大量供給する改良種ばかりだ。
大きな案内板の下では不慣れな乗客に案内嬢が対応しており、彼女の近くにある有機液晶パネルには軍民を問わず航宙機の離発着が表示されていた。
見渡す視界の先に建物の端はない。
それがクリスティーナに清々しさに似た気持ちを抱かせた。
視界の広さは宇宙船のような閉鎖環境に居ないという何よりの証拠。
つまり、それは己のちょっとしたミスで即死してしまうような行動の是非を――命の危険を考えなくて良いという証だ。
クリスティーナは重力を感じる嬉しさと、手足が重たいという微妙なだるさを全身で感じつつ、フランチェスカに向き直った。
「ねぇ、ホテルにチェックインする前に、どこか行かない?」
クリスティーナにはフランチェスカ以外、暇潰しの相手がいない。
そして、それはフランチェスカも同じ。
日々軍事訓練に明け暮れる
否。
生まれた時から過酷な競争社会に生きる
「何をする気?」
フランチェスカは首を傾げた。
狙っているわけでは無いのだろうがその仕草は小動物のようで、同性のクリスティーナから見ても可愛げがあった。
フランチェスカにとっては、久々の空気と水の心配の無い、楽園のような地上での休息だ。
今日はホテルの大浴場の湯船に飽きるほど浸かるか、ホテルの小さな日本庭園で森林浴しながら和菓子でも食べようかと思っていた。
正しくはそういう休日の過ごし方しか思いつけない。
予定もあるにはあるが、急ぎのものはなく、明日にでも片付けることが出来るものばかりだった。
「行ってみたい店があるんだよね」
「何の?」
「お茶」
クリスティーナの短すぎる回答は軍人としての癖なのかもしれない。
「緑茶?」
「私なんだから紅茶メインに決まってるでしょ。というか、たまには、ちょっとおしゃれなカフェに行ってみたいし」
クリスティーナは紅茶好きだが、フランチェスカは緑茶好きだ。
「新店舗への威力偵察?」
「そうよ。地球産のインド茶葉と正真正銘本物の牛乳で煎れた美味しいロイヤルミルクティーが飲める珍しい店なのよ。ケーキも美味しいって評判だし、あ、特にミルフィーユの口コミ評価が良いの。あとストロベリーケーキもなかなかの評判。あ、もちろんイチゴも水耕栽培の本物。店内のインテリアも古い年季の入った木で作ったようなアンティーク調で、LEDや有機ライトじゃないの。本物の白熱灯で、ちょっと暗めの照明もとっても良い感じに見えるでしょ。ね、ね、これが店内の写真!」
クリスティーナが早口気味に言いながらスマートフォン型情報端末に、観光ガイドに紹介された店内画像を全画面表示でフランチェスカの目の前に出した。
確かに説明通りの雰囲気で、なかなか上品そうな喫茶店に見えた。
「ここから、どれくらい?」
時間と値段を含めて聞いてみる。
「タクシーで8メーター。宿泊予定のホテルまで徒歩約10分。ケーキセットは食べる種類によるけど大体4200クレジットから5600クレジット」
クリスティーナが立て板に水と言わんばかりに一息に答えた。
ケーキセットの料金で考えれば相当高額な部類だが、彼女たちは気にしなかった。
少女たちの口座に毎月振り込まれている給料は正規の士官よりは少ないが、それでもそれなりの金額になる。
まして、自分のために自由にお金を使える機会など月に数回も無い。
高いとは思っても、払えない金額ではないし、払わないで娯楽と休暇を無為にするのは受け入れがたいとさえクリスティーナは考えていた。
説明を聞き終えたフランチェスカは頭の中で今日の予定を組み替えた。
入浴と森林浴を深夜に回す。
腕時計のような個人用情報デバイス――今でも単に腕時計とよく呼ばれるが、それで現在時を確認する。
今は火星時間で一三時を少々回ったところ。
既に昼食――宇宙食で済ませている。
とはいえ、ケーキの一個ぐらいは入りそうだ。
「良いですわね。行きましょう」
フランチェスカは笑顔で応えた。
どうせ大した予定などなかったのだから、この方が休日としては良いのかもしれない。
「助かるわ~。正直アベックばっかりの店に、独りで行ったら物凄く恥ずかしいし……」
安堵の息を吐くクリスティーナに、フランチェスカが怪訝な表情を浮かべた。
「いつもの言動からは有り得ないことを……それを本気で気にしているのが驚きです」
「え……えっ? 普通、そういうこと大事でしょ? 気にしないの?」
共に不思議そうにお互いを見詰めて、それから同時に小さく吹き出した。
呆れ、迂闊さ、間抜けさ。そういったものを自分の中に見つけ、相手に感じた。
何よりも相手を理解していたような勘違いが、お互いに可笑しかったのだ。
相手も自分も同じようで、妙に安心感と親近感が増したような気がした。
「お互い、まだまだ知らないことばかりだよね。フランチェスカが一番親しい
「私もです。正直、クリスティーナ以外のデザインとは挨拶程度しか交わしたことがないもの」
再び、二人は笑い合った。
「じゃあ、予定通りにタクシーで行こう。時は金なりよ」
「そうしましょう。自由に出来る時間は、あと四時間ほどしか無いですもの」
二人は手荷物を持ち直すとタクシー乗り場へと足早に向かった。
基本的にこれらの施設は地球と変わらない。
ただ、タクシーとはいえ、低重力のため空気が少ない火星の地表を走る車両だ。
完全密閉型の車両は、二昔前の地球ならば軽装甲車と思われても不思議ではない厳ついデザインをしていた。
その中から人間の運転手がいるタクシーを選び、行き先を告げると料金支払機のセンサーに左手首の腕輪を軽く押し当てる。
これで前払い終了だ。
この先のことは軍の業務委託を受けている銀行が一切合切の手続きを行い、最終的には個人口座からお金が引き落とされる仕組みだ。
軍が支給してくれる交通費はバスを基準で計算されている。
支給金額以上の交通費は自腹となるが、躊躇うことはなかった。
クリスティーナがリトル・キョートのセントラル・ブロック西側にある西条町一三番通りにある茶店の名を告げると、中年で小太りの男性運転手は愛想良く「分かったぜ」と鷹揚に応えてから電動自動車を発進させた。
航宙港から市街地ブロックへは直線距離で約15キロ。火星の地形――主に砂嵐除けとなる天然の渓谷等――を最大限に活用して整備されたトンネルだらけの幹線道路を、電動自動車特有の静かさで走る。
低重力域では必須の、重いレアマテリアルで作られたハニカム構造の極太エアレス・タイヤだが乗り心地も悪くない。
航宙港があるリトル・キョートの外周部から、市街地のある内周部へはまだまだ時間が掛かるだろうが通行量は多くない。
ほぼ計算通りの時間で到着するだろう。
火星での休養としては申し分ない滑り出し。
時折遠くに見える赤い山の麓には何かしらの植物らしき緑が、地平線の先まで閑散ながらも見えた。
その上には色彩の薄い赤い空がどこまでも続く。
一見、サバンナ気候帯の風景と騙されても、疑いも無く信じてしまいそうな風景が続く。
しかし、それらを近くで見れば、遠くの緑は芝生でも草むらでも無く、品種改良された特殊な苔と小さくて頑丈なサボテン、そして火星用に特別に品種改良された地下茎植物群の僅かな針葉だということに気付くだろう。
「たまにこうやって眺めると、むかし人が住んでいなかったなんて信じられないですね」
フランチェスカが遠くを眺めながら、そう零した。
四方を囲む高い山々はいま彼女たちがいる場所が完全な盆地であることを示していたが、その盆地は地球上にあるような大きさのものではない。
直径200キロ以上、周囲を囲む山々は平野部からの標高差が6000メートルを超えるような巨大な盆地。
地球上では考えられない規模の盆地等は太古の昔、火星に無数の隕石が衝突した証。
それほどの盆地からでも見えるタルシス山地と、標高約27000メートルのオリンポス山などの盾状山脈群は、ただひたすらに見る者を圧巻する。そういった高山地帯は今も赤茶色の土と岩を曝していた。
「そうね。昔の人は偉大だよね。大昔の画像を見ると、苔もサボテンも無かったなんて信じられないもん」
「
フランチェスカはしみじみと述べた。
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