四十一章
門前で激しい戦いを繰り広げた牙族軍と四泉軍は曾侭城へ入城し、ひとまずここで祝杯を挙げた。昏倒していた沙爽は翌日宵に目を覚まし、
「待たせた」
素っ気なく言った客人は椅子に腰掛ける。呆れるほど
「
「お前が寝ている合間にな」
「本当でしょうか」
自信なさげに俯いたのにやれやれと頬杖をついた。
「
「
沙爽は頭を下げた。
「――――申し訳ない」
「私の伝令を無視したことか。すでに何が起こったかは聞いた」
もう一度謝った
「
「やはり牙公が猋たちに指示を出していたのですか」
それには答えはなく、腕を組んで見つめられた。
「戦はまだ終わっていない。斉穹朋嵒を断罪し、牙領でいまだ裁いていない背反者たちを処し、完全に同盟を成立させなければ我々の平穏は取り戻せない」
沙爽は額に手を当てた。
「あまりに多くの血が流れた。本当に……私のしたことは正しかったのか」
「くだらん反省はするな。公主の死んだ今、四泉の王はお前以外に有り得ない。降勅もした。それがただ唯一お前の正当性を示すものだ。逆に言えば理由はそれだけでいい。しっかりしろ、四泉六百三十万の命を
珍しく励まされて弱々しく微笑んだ。
「二泉主の、処遇は」
「訊きたいことがあるのだろう」
「その後のことです。……殺すのですか」
「お前は反対のようだが?」
腫れの引かない赤い目を
「彼は、二泉主です。いまだに五百万の民の王だ。その王を我々が勝手に殺していいものかどうか」
「二泉朝廷はすでに王太子を
「そうだとしても……我々が私憤において殺していい理由にはならない。禅譲するならば一応、それなりの手順がありますし」
「私は間接的にではあれ、先代当主である父と母をあいつに殺されている。二泉の間諜も
沙爽は
「私だって、撫羊を…………殺されました」
つい昨日のこと、いまだ実感なく口にするのはまだ辛い。苦渋して黙り込んだ姿を珥懿はしばらく見つめ、面倒臭そうに溜息をついた。
「良いだろう。同盟相手でいまや
なんだかひどく優しく思えて、首を傾げる。
「牙公、なにかあったのですか?」
「何を言っている」
立ち上がった。染みのついた懐剣を差し出す。
「これは……」
「公主の遺物だ。お前が持っているべきだ」
両手で受け取り胸に抱いた。見上げればふいと顔を逸らされる。その仕草で、珥懿が妹を失った自分に少しだけ同情してくれているのだと、勘違いかもしれなかったがそう感じた。つんと向けた背に、改めて呼び掛ける。
「牙公……ありがとう」
そうして頭の上に捧げた。
二泉主斉穹朋嵒は使者が責任をもって連れ帰ることになった。彼には自国で相応の扱いがなされる。到着まで、厳重な見張りのもとに拘禁していた。
幾人かの
「まだ何か用なのか」
嘲笑ったのを無視して珥懿は隣を見る。沙爽は深呼吸すると問いかけた。
「二泉主。あなたには答えて欲しいことがあります。まず、
そんなことか、と斉穹は投げやりに
「その者とは」
「知らぬ。我はその者に直接会ったことがないからな。使者の言う通りにしたまで」
ただ、と暗がりで髭の伸びた顎を
「これが最初は上手くいかなくてな。傀儡を仕立てるには
珥懿と臣下たちが横で殺気立つのが分かった。牙領に攻め入ったもと不能渡の兵以外に、いったいこれまでどのくらいの人が犠牲となったのか、沙爽はあえて訊くのをやめた。
「それで何年も前から牙族の内乱を手助けしながらも、直接には進軍しなかったというわけか」
「二泉には由歩が多いと言ってもたかが知れておるからな。牙領攻めの機会はいくらでもあったが、内通者の増えた頃を見計らっていた」
沙爽は平静さを保とうと息を深くした。
「あなたがそれほどまでして牙族の地を奪おうとしていたのは、あそこが地下水脈の湧く地であるというのが最もの理由だな。ならばお訊きするが、あなたという正当な泉主がいながら、二泉の泉水はなぜああも濁りきっているのか。その理由をご自身で了解しておられるのか」
斉穹はしばらく無言だったが、ひとつ息を吐くと、沙爽を見つめて口を開いた。
「沙爽鼎添、泉主になれる条件を言ってみるがいい」
「今さら何を。泉国の国主として神勅を受けられるのはその国の王族、現泉主の血を受け継ぐ王統だけだ」
「そうだ。黎泉の降勅はそう考えるとかなり限定的なものだ。基本は直系
しかしそう考えれば現在の大泉地は少しばかり不穏の
「なぜ泉根にしか降勅しないのか。これは王統に接してきた者なら誰でも一度は考えることだ。だが、我らは長い系譜の中で次王の選出は男子の泉根ならば嫡子が生存する状態でも次子以下に降勅する場合があるということにも気づいている。まあ、手っ取り早いのは年上を排除することだがな。だからこそ今回の四泉の王位争いが起きた。では同じ泉根ではあるが本来継承権のない公主が、一定の条件下で降勅に与れる可能性はあるのか。撫羊はその問題を身をもって確かめることにした」
斉穹の口から妹の名を聞くのは不快だった。それに気がついたのか、肩を竦めて言い直した。
「沙琴公主は正真正銘、先代四泉帝の子。女子が降勅した例は過去
「おそらく降ったなどと、どうして言えるのだ」
「お前が死んだ時点で四泉の正当な継承者はいなくなったとみなされただろうが、黎泉にとっても泉の腐敗は避けるべきことだ。泉根が女とはいえ残っているのなら渋々神勅を与えただろうと我は予測する。しかしそれが
「……それで、なぜ撫羊に自身の即位と泉の
斉穹は
「継承が泉根でなければならないのはなぜか。それは黎泉が認めない、ただそれだけの理由だ。では、黎泉が認めないとはどういうことか。いかに世間知らずな田舎の
空に指を遊ばせた。くるくるとそれを回す。「逆なのだ」
「逆………」
「まだ分からないか?」
さらに
「民が正当だと思える王以外を嫌がる、その気持ちこそが黎泉がその支配者を認めるか認めないかの指標なのだ」
沙爽は音を立てて立ち上がった。
「それはない。あなたが言っているのはつまり、その国の民意によって黎泉はその者に降勅させるかさせないかを決めているということになる。それはおかしい。それなら別に泉根でも男でもなくていいということになる」
「そうだ。だからこの考えは少し飛躍している。だが、あながち見当外れでもない」
斉穹は座り込んだまま片膝を立てた。
「その理由のひとつは、泉根が誕生したときの
混乱する。ではなぜ民意の話が出てくる。横で珥懿が溜息をついた。
「いい加減簡潔に話せ。何を隠している」
斉穹は鼻を鳴らすと一度顔を伏せ、それから暗闇の中で爛々と目を光らせた。
「――――我は泉根ではない」
その言葉に沙爽は絶句した。
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