四十一章



 門前で激しい戦いを繰り広げた牙族軍と四泉軍は曾侭城へ入城し、ひとまずここで祝杯を挙げた。昏倒していた沙爽は翌日宵に目を覚まし、臥室しんしつへやって来た珥懿を牀榻しょうとうの中で迎えた。


「待たせた」

 素っ気なく言った客人は椅子に腰掛ける。呆れるほどときをかけ薬湯を浴び完全に汚れを落とした顔はどことなくほっとしているように見えた。

降勅こうちょくしたとか」

「お前が寝ている合間にな」

「本当でしょうか」

 自信なさげに俯いたのにやれやれと頬杖をついた。

血璽けつじを確認すればそれは分かることだ。悠浪平原の二泉兵は完全に撤退を始めている。瓉明軍はその後片付け、穫司の儀同三司ぎどうさんしはこちらに向かっている」

燕麦えんばくには、かなり負担をかけてしまった……その、牙公」

 沙爽は頭を下げた。

「――――申し訳ない」

「私の伝令を無視したことか。すでに何が起こったかは聞いた」

 もう一度謝った旋毛つむじを眺めて珥懿は溜息をつき、卓の上に用意された茶をしばらく見つめ、一口だけ含んだ。

團供だんきょうでのことは避けられた犠牲だったが、戦とはそういうものだ。全員生き残り手を繋いで仲直りというわけにはいかない。それに、お前がヒョウを動かして正直助かった面はあった」

「やはり牙公が猋たちに指示を出していたのですか」

 それには答えはなく、腕を組んで見つめられた。

「戦はまだ終わっていない。斉穹朋嵒を断罪し、牙領でいまだ裁いていない背反者たちを処し、完全に同盟を成立させなければ我々の平穏は取り戻せない」

 沙爽は額に手を当てた。

「あまりに多くの血が流れた。本当に……私のしたことは正しかったのか」

「くだらん反省はするな。公主の死んだ今、四泉の王はお前以外に有り得ない。降勅もした。それがただ唯一お前の正当性を示すものだ。逆に言えば理由はそれだけでいい。しっかりしろ、四泉六百三十万の命をまさにお前はあずかったのだぞ」

 珍しく励まされて弱々しく微笑んだ。

「二泉主の、処遇は」

「訊きたいことがあるのだろう」

「その後のことです。……殺すのですか」

「お前は反対のようだが?」

 腫れの引かない赤い目をつむった。死に際の彼女の顔が浮かぶ。

「彼は、二泉主です。いまだに五百万の民の王だ。その王を我々が勝手に殺していいものかどうか」

「二泉朝廷はすでに王太子を昇黎しょうれいさせると決めたのだろう。予想と願望でしかないが、四泉の血を引くといえど他国を侵犯した泉主と次代の泉根、どちらを重んじるかと考えると、おそらく王太子に降勅する。斉穹朋嵒は名実共に用無しというわけだ」

「そうだとしても……我々が私憤において殺していい理由にはならない。禅譲するならば一応、それなりの手順がありますし」

「私は間接的にではあれ、先代当主である父と母をあいつに殺されている。二泉の間諜も矢的やまとにされ、仲間を多く失った。これは正当なる復讐だが?」

 沙爽は被衾ふとんを握り締めた。

「私だって、撫羊を…………殺されました」

 つい昨日のこと、いまだ実感なく口にするのはまだ辛い。苦渋して黙り込んだ姿を珥懿はしばらく見つめ、面倒臭そうに溜息をついた。

「良いだろう。同盟相手でいまや天子てんしになったお前に免じて命までは取らないと保証する。殺さない分も同盟の見返りに上乗せだ。私だけでなく、兵たちの彼奴きゃつへの怒りも冷めやらんからな。その鬱憤も報酬に入れさせてもらうぞ」

 なんだかひどく優しく思えて、首を傾げる。

「牙公、なにかあったのですか?」

「何を言っている」

 立ち上がった。染みのついた懐剣を差し出す。

「これは……」

「公主の遺物だ。お前が持っているべきだ」

 両手で受け取り胸に抱いた。見上げればふいと顔を逸らされる。その仕草で、珥懿が妹を失った自分に少しだけ同情してくれているのだと、勘違いかもしれなかったがそう感じた。つんと向けた背に、改めて呼び掛ける。

「牙公……ありがとう」

 そうして頭の上に捧げた。





 二泉主斉穹朋嵒は使者が責任をもって連れ帰ることになった。彼には自国で相応の扱いがなされる。到着まで、厳重な見張りのもとに拘禁していた。


 幾人かのしもべたちを伴って曾侭城の牢へと足を運んだ主二人は鎖で繋がれた斉穹と檻の鉄柵を挟んで向かい合った。


「まだ何か用なのか」

 嘲笑ったのを無視して珥懿は隣を見る。沙爽は深呼吸すると問いかけた。

「二泉主。あなたには答えて欲しいことがあります。まず、由歩ゆうほの傀儡をどうやって生み出したのか。あのように長期間、不能渡わたれずを由霧に耐えられるようにする薬など私は聞いたことがないが」

 そんなことか、と斉穹は投げやりに桎梏しっこくを鳴らして手を振った。「作り方を知っている奴に教わった。ただそれだけだ」

「その者とは」

「知らぬ。我はその者に直接会ったことがないからな。使者の言う通りにしたまで」

 ただ、と暗がりで髭の伸びた顎をさすった。

「これが最初は上手くいかなくてな。傀儡を仕立てるには主泉しゅせんの水を大量に使う。しかし手順通りにしてもはじめは三日とたなかった。試行錯誤を繰り返してやっとましになったのだ」

 珥懿と臣下たちが横で殺気立つのが分かった。牙領に攻め入ったもと不能渡の兵以外に、いったいこれまでどのくらいの人が犠牲となったのか、沙爽はあえて訊くのをやめた。

「それで何年も前から牙族の内乱を手助けしながらも、直接には進軍しなかったというわけか」

「二泉には由歩が多いと言ってもたかが知れておるからな。牙領攻めの機会はいくらでもあったが、内通者の増えた頃を見計らっていた」

 沙爽は平静さを保とうと息を深くした。

「あなたがそれほどまでして牙族の地を奪おうとしていたのは、あそこが地下水脈の湧く地であるというのが最もの理由だな。ならばお訊きするが、あなたという正当な泉主がいながら、二泉の泉水はなぜああも濁りきっているのか。その理由をご自身で了解しておられるのか」



 斉穹はしばらく無言だったが、ひとつ息を吐くと、沙爽を見つめて口を開いた。



「沙爽鼎添、泉主になれる条件を言ってみるがいい」

「今さら何を。泉国の国主として神勅を受けられるのはその国の王族、現泉主の血を受け継ぐ王統だけだ」

「そうだ。黎泉の降勅はそう考えるとかなり限定的なものだ。基本は直系嫡子ちゃくし子孫で男子。しかし王が泉根こどもをもうけずして崩御ほうぎょした場合は特例として血を分けた弟またはその子孫に受け継がれる。王の最大にして最善の偉業とは泉根せんこんを絶やさぬこと、これに尽きる。どの国も王の即位後、また王太子である時分から妃嬪ひひんを多数あてがい多く子をもたらすことが国の第一の関心事だ」


 しかしそう考えれば現在の大泉地は少しばかり不穏のかげが射す。昨今、どの国も泉根にあまり恵まれていないからだ。永く栄華を極めてきた四泉でさえ先帝の子は庶子の瓉明さんめいを入れても六人ばかりだった。


「なぜ泉根にしか降勅しないのか。これは王統に接してきた者なら誰でも一度は考えることだ。だが、我らは長い系譜の中で次王の選出は男子の泉根ならば嫡子が生存する状態でも次子以下に降勅する場合があるということにも気づいている。まあ、手っ取り早いのは年上を排除することだがな。だからこそ今回の四泉の王位争いが起きた。では同じ泉根ではあるが本来継承権のない公主が、一定の条件下で降勅に与れる可能性はあるのか。撫羊はその問題を身をもって確かめることにした」

 斉穹の口から妹の名を聞くのは不快だった。それに気がついたのか、肩を竦めて言い直した。

「沙琴公主は正真正銘、先代四泉帝の子。女子が降勅した例は過去幾年いくとせ、どの時代を通しても史書にその事例はない。沙琴が謀叛を表明した時、お前はすでに昇黎を済ませていた。落血の儀を通過して霆撃いかずちで死なないということはほぼ泉主になったということだ。仮王かおうの状態のお前を殺し、王統が自分一人になったのなら、まあおそらく神勅はくだりはしただろうが、はたして国の災厄はしずまり泉が澄むのかというとそれはまた別の話だとあれは気がついていた。そう考えさせたのは我だ」

「おそらく降ったなどと、どうして言えるのだ」

「お前が死んだ時点で四泉の正当な継承者はいなくなったとみなされただろうが、黎泉にとっても泉の腐敗は避けるべきことだ。泉根が女とはいえ残っているのなら渋々神勅を与えただろうと我は予測する。しかしそれが泉柱せんちゅうに反する、本来ならば天がゆるしがたいと判ずるような経緯での降勅ならば、ただ泉を完全に涸れさせないためのその場凌ぎの防波堤程度の役割しか与えないだろう。真に安寧な状態とは言い難くなるのでは、とな。だからより正しい形で、掟にのっとって公主に降勅させるには、お前が泉主であるにもかかわらずその責任能力をうしなった状態にした上での践祚せんそが安全だと我らは結論したわけだ。二泉の禅譲の前例をもとにな」

「……それで、なぜ撫羊に自身の即位と泉の汚穢おわいを別問題としてあなたは考えさせることができたのか」

 斉穹は可笑おかしげに喉の奥を鳴らした。

「継承が泉根でなければならないのはなぜか。それは黎泉が認めない、ただそれだけの理由だ。では、黎泉が認めないとはどういうことか。いかに世間知らずな田舎の泉賤どれいでもこれだけは知っている。王様になるのは王様の子、長男の跡継ぎだと。だからそれ以外が王になったと聞けば不安になり必ず理由を知りたがる。それが真に正当な王なのかどうか。泉の質が落ちないこと、水が腐らないことが民にとっては正しい王ということの判断基準だからだ。……ということはだ」

 空に指を遊ばせた。くるくるとそれを回す。「逆なのだ」

「逆………」

「まだ分からないか?」

 さらにわらう。

「民が正当だと思える王以外を嫌がる、その気持ちこそが黎泉がその支配者を認めるか認めないかの指標なのだ」

 沙爽は音を立てて立ち上がった。

「それはない。あなたが言っているのはつまり、その国の民意によって黎泉はその者に降勅させるかさせないかを決めているということになる。それはおかしい。それなら別に泉根でも男でもなくていいということになる」

「そうだ。だからこの考えは少し飛躍している。だが、あながち見当外れでもない」

 斉穹は座り込んだまま片膝を立てた。

「その理由のひとつは、泉根が誕生したときの血判けっぱんだ。多くの子をす王族にとって、偽りの者を紛れ込ませない為にそれは有用だ。子は公子でも公主でもみな生まれて三日と経たずに血判をす。血を受け継ぐ者の血判はひと月前後は泉の色に変じている。それは直系ぼう系関わりなく、王統として血を受け継ぐ全ての者に現れる。そうまでして黎泉は金枝玉葉を守りたいのだ。であれば生まれた時には皆、泉根として王位を受け継ぐ資格を備えているのではなかろうか。まだ民の念の集まっていないまっさらな王族ならば。だかしかし、すぐにその瑞相ずいしょうは消失し、嫡子の血でさえあとは降勅してからの血璽のみでしか変化しなくなる。血判によって黎泉の眷属けんぞくだと証明される王統だが、以降は、昇黎して神雷で撃たれないのはなぜか継承権をそなえる泉根のみ。ではやはり、神勅を戴くに望ましいのは男子で間違いない」

 混乱する。ではなぜ民意の話が出てくる。横で珥懿が溜息をついた。

「いい加減簡潔に話せ。何を隠している」

 斉穹は鼻を鳴らすと一度顔を伏せ、それから暗闇の中で爛々と目を光らせた。



「――――我は泉根ではない」



 その言葉に沙爽は絶句した。




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