三十五章
「……え」
夭享が数歩
「……嘘、でございますよね……?」
老茹は静かに夭享を一瞥し、珥懿に正対する。侈犧がそうか、と得心し声をあげた。
「老茹も先代の彩影だったな」
「それも
至極落ち着いた様子で頷いた。
「炎を焚きつけたのはお前だろう。おおかた、二泉に口を利いてやるとでも言って丸め込んだな」
珥懿が冴え冴えと問う。老茹は溜息をついた。
「炎は
「そこにつけ込んだかうつけ者が」
「うつけ?分身の心痛に気づいていながら放っておいた紅珥さまこそ暗愚の極みと存ずるが」
平然と言ってのけた老茹に場が凍り、主はさらに
「何が目的だ。お前とて二泉に
「私も己の益を得るために動いたのではありませぬ」
腰の後ろに両手を回した。
「この十数年、牙族は激動の時代を過ごして参りました。一族として一丸となって団結するべき潮流、それなのにいまだ一族の中の格差、とりわけ由歩と不能渡の溝は埋まらないまま。このままでは、我々は近い将来に瓦解いたしまする。頼みの地下水脈とて、いつ、かの
「
「死ぬよりは、ましでございます」
「どうだか。死ぬよりも耐えられない屈辱だ」
老茹は首を振った。
「民はそうは思いませぬ。このまま人が増え続ければこの狭い土地で全員は暮らせない。由霧のなか孤立し他に行くあてもなく、苦しみ抜いた末の死が待っております。死ぬよりはその日一日を生き延びたいと思うのが人の
珥懿は
「お前のくだらない大義名分などどうでもいい。本心を言え。なぜ掟を犯し仲間を売った。白生ともあろうお前が」
老茹は皺を深くして静かに言った。
「私は由歩にござります」
「……なに」
これには一同呆気にとられて凝視する。
長くなります、と老茹は前置きして話し始めた。
「先代がお生まれになった年、牙族は飢饉に見舞われ、疫病が
初めて聞く老茹の過去だった。史書には、その年のことは凶荒ありとしか記されていない。
「ですから私は不能渡の中から選ばれた白生ではございませぬ。それは、育つにつれて私を大いに悩ますことになりました。私とて、皆と一緒に働きたかったのですから。先代が『選定』をお受けになって当主となった後、お
老茹は大きく息を吐いた。
「当主にとっては当たり前でしょう。しかし、私ひとりにかかる負担は大きすぎた。紅珥さまもそうお思いになられたからこそ、彩影を増やしたのでしょう?炎ひとりでは当主としての重圧に押し潰されてしまい、手に余ると」
珥懿は答えず、老茹の次の言を待つ。
「鬱屈とした思いを抱えたまま時が過ぎ、私は先代の四番目の
それが、と
「『選定』で失敗なされた。禁忌を犯した御子は掟によって密かに処刑され、私は絶望しました。そして一族の慣習に疑問を持つようになりました。あまりに厳しく人の心が無いように感じました。由霧を渡る聞得は総じて情に薄いところがある。そんなことでは人心は離れ、いずれ身を滅ぼす。
老茹は俯き、次いで毅然と頭を上げた。
「紅珥さま。はっきりと申します。はじめに二泉と内通し、十三年前に城を急襲すべしと耆宿院へ提案したのはこの私でございます」
なんてこと、と徼火が呆然と呟き、侈犧がありえないと首を振った。
「当初から、あなたさまの父上と母上を殺すつもりで、城に火を放つよう指示しました」
「――――丞必」
肩で息をした女は怒りでわななく
「この恩知らず!恥知らずが!白生として拾われていなければお前も死んでいただろうに、さも貧乏
そこまで叫んだところで呻き、口の端から鮮血を
「左賢!」
「無理するな。傷が開く」
老茹は起き上がってよろよろと床に肘をつき、血だらけの女を睨む。
「だからこそ、先代には死んでもらわねばならなかった。臣下の苦渋を当然と思う君主に未来はございますまい。本当は、そうして当主家以下伴當の力を弱め、一族を
「だからお前たちにとっては歯牙にもかけないが目障りだった歓慧をも排除しようとしたか。私の意気を
「あなたは、普通の当主ではない。
「それで二泉と結託し、領地を攻め、叛逆した」
ええ、と老茹は座り込んだ。
「もとより逃げるつもりはございませんでした」
「――なぜだ。我々は四泉と同盟した。それを老茹、お前はお前が望む泉国との融合の機会として捉えなかったのか」
「いまさら二泉を裏切れませぬ。それに、四泉主に一体どれほどの力があるでしょう。四泉王家は
珥懿は笑った。言い切ったのがおかしかった。
「随分と見くびったな。確かに、あれは
弱腰だが真摯な瞳の少年を思い返す。
「自らの
「この先上手くいくとは到底思えませぬ。四泉が裏切らないという確信も持てませんし、何より民が置いてきぼりです」
「お前はさも自分が民意を代表しているかのように振る舞うが、ただ独善において一族を破壊しているだけだ。分かっていてやっているのならなお救いようがない。お前は主を裏切った。間諜たちまでをも売って二泉に媚びた。罪なき仲間を殺した時点で、お前に正邪を語る資格はない」
老茹は皺を深く刻んで目を
珥懿はそれを見送ると、侈犧に支えられている女に歩み寄って膝をつく。
「丞必」
「……申し訳、ございません。お留守の間、必ず城を守ると誓いましたのに」
衣の上から滲んで
「紅珥さま、左賢は我らを守るために
丹も
「お前たちが無事で良かった。丞必を運んでくれ。
「
「すぐ呼べ。この血は止めねばまずい。それと侈犧、牢の見張りを増やしておけ」
珥懿はぐるりと頭を巡らす。
「誰も、歓慧を見ていないのだな」
皆が頷く。そうか、と立ち上がった。
「――どこへ」
「じき夜になる。負傷者は中へ収容し、薬師は交替で休息を取らせろ」
問いには答えず、主は一人で出ていこうとする。砂熙がそんな珥懿を呼び止めた。
「当主、あの」
「城内には気配はなかったのだろう。問題はない。私が帰ってきたから」
確信を込めた言葉に頷く。お願いします、と頭を下げた。
紺青の
月はまだ昇ったばかりで地平近くにあり、玻璃の天井からは淡い光が落ちる、その光輪を浴びて独り座り込み、珥懿は煙を長く吐いた。油火も
床の一角から石擦れが響き、敷いていた
「おかえりなさいませ、姉上」
「……やはり地下に
珥懿は
口端だけが笑んだかたちの顔は白く照らされた。まだ幼さを残すが、結っていない乱れた前髪が額に垂れかかって影を落とし、えも言われぬ妖しさを
人形のように微笑する少女はしかし、大きな両の瞳から音もなく、光の粒をとめどなく
「おいで」
広げた腕の中に、妹はゆるゆると入り込む。
「心配した」
それだけ言った珥懿に震える手が
「姉上、歓慧はまたひとりで逃げてしまいました」
「それでいいと、何度言ったら分かるんだ?」
「鼎添さまをうまくお逃がし出来ませんでした。私のせいで捕まってしまいました」
顔の表情が死んだまま妹は泣き続ける。
「読んでいたことだ。地下には誰が来た」
「老茹が」
珥懿は頭を撫でた。
「知っていたのか?」
正体を。しかし歓慧はいいえ、と頭を振る。
「……感じたか」「はい。気持ちの悪いものが身の内に来ました」
「叛逆者とはけりをつけた。
歓慧は俯き、意を決して思い詰めた顔を上げた。腕から離れ、正座する。
「姉上。私は全てを思い出しました。十年前犯した、
黒い瞳は黙って見つめる。
「本当に、なぜ忘れていたのか自分でも分からないのです。ただ、この戦も何もかもすべてが、もしかしたら私のせいかもしれません」
歓慧は胸に手を当てた。小さな体は細かく震えている。
「……まだ聞かない。全て片付けた後にじっくり聞いてやる。歓慧、とにかく今のお前には休息が必要だ。一体、何日寝ていない」
珥懿は妹の目の下にくっきりと浮く濃い
そのまま両耳を
「できません。わかりません」
「できる。大丈夫だ、私がいる。だから出て来てくれたのだろう?」
歓慧は
「……やってみます」
瞼を閉じ、深呼吸を繰り返す。摩耗して荒れた六感をゆっくりと時をかけて
抱え上げると、ふと、当たった腹に固い感触がして目を向けた。
「……よくやった。さすがは私の妹」
静かに寝息を立て始めた顔を誇らしく見つめて囁いた。涙の跡を拭ってやり、共に幽庵を後にした。
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