三十四章
物見窓から領門を臨み、声を張る。
「開門‼」
風のような馬影は止まることなく外門、内門、城壁へと駆けてゆく。
「当主が戻られたぞ!」
待ちわびていた主の帰還に次々と歓声が上がった。
半月ほど前。珥懿の
戦端、残っていた数少ない伴當を叩かれたものの残りの者が善戦し、城を奪い返したが孤立。街への連絡も遮断され、城を明け渡すよう要求されていた時分に侈犧軍が到着し鎮圧した。さらに騒動の状況を知った民が耆宿院に抗議の波をつくり、形ばかりの平定を呼びかけていた
「おう。早かったな」
丈の短い
「おかげで良い
珥懿は
「これで全てか」
耆宿院の立つ丘の中腹に付属した牢房、もとは畜舎で屋根付きの広い空き地には埃だらけの院士と院生が縄を打たれて
「ああ。街の
「私も信じたくはなかったがな。――裏切り者は」
侈犧は頭を掻いた。「城だ。
そうか、と珥懿は息を吐き、隣に控えた
「
大耆は憂うように小さな目を閉じた。
「……
「ほざけ。城のやり方が意に沿わぬからと癇癪でもって従わせようとしているのはいつもお前たちだ。私にも堪忍の限界というものがある。
冷徹に言った当主に皺だらけの手を合わせた。
「私は彼らに賛成も反対もしておりませぬ。言いたいことがあるなら聞いてくれるまで粘るのみと言っただけでございます」
「耆宿の長であるお前が放任し静観を決め込んだのなら、それは立派な同調であり扇動で大罪だ。――追って沙汰を出す。天寿は全う出来ないと思え」
「無論、覚悟は決めておりまする」
みなまで聞かず、珥懿は身を
城の
「戻られたか」
「大事ないか、
「脚を刺されたが、なに、大したことはない。不在にこんなざまになって情けないことじゃ」
「養生せよ」
威勢の欠けた肩に手を置く。烏曚は頷いて頭を上げた。
「
「――ああ。まだ知らせていない」
烏曚はさようか、とだけ呟くと黙り込んで去って行った。それを見送り、珥懿ら三人はいつもの
扉のすぐ脇には監老の
「申し開きを聞こうか。――お前」
適当に指された一人がわなわなと唇を震わせた。それでも、口を開く。
「……当主は、独断に過ぎます」
「私の、どこが。――次、お前」
横のひとりは果敢にも睨み上げた。
「耆宿を
「己の問題を私に転嫁するのか」
「原因を作っているのは貴方様です!当主だけじゃない。伴當も、
そうだ、と叛逆者たちは口々に言い立てた。
「我らをどこにお導きになる。少しは下々の者の意見もお汲みくださればよろしかったのです!長年仕えてきた我らを遠ざけて小家の者を重用し、万騎に
光線が走り、少し遅れて剣が鞘走る音が響いた。空間が無音に包まれる。
「よく回る口だな。その舌切り取って失った者たちに継ぎ
声量は小さいのに鼓膜に突き刺さった。広房にいる誰もが殺気に
「なあ、貴様」
六感全てに畏怖を植えつける言葉が恐慌を
「
「自身の行いの結果を省みようともせず、ただただ鬱憤を募らせて爆発させる理性の欠片もない豚ども。
珥懿は徼火に連れて来られた人影に呼びかけた。
「お前もそのうちの一人だったとはな――――
鎖を鳴らし膝をついたのは細身の男。青白い顔で主を見返した。
珥懿は剣を向ける。額に青筋が浮かんだ。
「なぜ裏切った」
芭覇は
「……当主は、その
「お前も私が弱き者たちを無視して独裁を
「貴方様は、皆の当主という存在は崇敬すべきものであるという感情を利用して我儘勝手に権を奮っているだけです。私は……認められません。まだ先代のほうが慎ましやかだった。出来ることなら、先代にお仕えしたかった!」
「要するに、自分たちの思い通りになる
「なぜお分かりにならないのですか!我らはこんなにも、一族を想って尽くしてきたのに!」
珥懿は嘆息し、剣を持ちなおした。
「今回も、二泉の手を借りたのか」
芭覇は怯んだ。
「どうなんだ。耆宿に渡した武器はどこから調達した」
「私は……
ほう、と再び殺気立つ。
「裏は取れている。二泉の銅興関を出て東まわりの抜け道から、驟到峰と
芭覇は大量の脂汗をかいた。
「わ、私は、ただ指示に従って武具の管理をしていただけで、本当に分かりません」
「二泉と交戦したおりに東門を開けたのも取引か」
「それは違います!間違っても民を失わせるつもりは毛頭もございませんでした!二泉は、民は
珥懿は彼の襟首を掴んで引き寄せた。人離れした美貌は今この時ばかりは悪寒を生じさせる。魔夢を誘う唇が奈落の底へと突き落とさんと囁いた。
「お前が殺したんだよ」
「違います!違います!」
「何が違う。自分の子と同じほどの幼き者たちを血溜まりに浮かせた罪はお前にある」
呻いた芭覇は顔を歪め、
「殺されはせずとも、民が奴婢になることは甘んじようと思ったのか。お前は何を約束されていた?王侯のような生活か?死ぬまでに使い切れないほどの宝か?もしや、二泉で厚遇してやるとでも言われたか」
声をあげて泣き始めた。珥懿は男を放り棄て、冷めた目で見渡した。
「よもやこんな愚か者どもを私の大事な翼たちに紛れ込ませていたとはな。目先のことしか考えられないお前たちに一族を担わせることはもはや出来ない」
他の叛逆者たちは一様に青い顔をして牢へと引き立てられていった。
さて、と珥懿は剣を収める。
「これまでに起きた一連の謀叛、今回の決起の時機、そして四泉主をおりよく奪取出来たこと、それらが二泉の後ろ盾あってのものだと考えれば、全ての辻褄が合う。が、十三翼と耆宿院がいくら結託したとしても妙に具合が良すぎる。芭覇、お前は嘘をつくのが元来下手だ。上からの指図を受けてはいたが誰からなのかは把握していなかったというのは信じてやろう」
石床に倒れ込んだほうは涙溜まりをつくりながら頷いた。
「とはいえ毎回の合議に出ていない院士らが詳細に城の動向を把握するのは無理がある。監老は逐一報告していたようだが、それでも限界はある」
夭享は弁明の為に口を開いたが手を振られた。
「お前は耆宿院に都合よく利用されていたにすぎん。それで、丞必と調べても尻尾を掴めなかった私はある賭けをした」
その場にいる全員が互いに顔を見合わせた。
「それは?」
侈犧が問うて、珥懿は腕を組む。
「四泉主だ。内通者が二泉と密に通じていると仮定するならば、当然あちらが今もっとも欲しがっているのは沙爽の身柄だ。つまり裏切り者は桂封侯とも繋がっている。思った通り我々の不在を突いて桂州と連絡を取り、沙爽を拉致させた。私はあれが
「どういうことだ」
「沙爽を隠匿していたのは城の地下、ただの僚班ではその入口さえ知らない。あれの居処を易々と見つけ、脱出の為の抜け穴さえも知っているのは代々の当主と限られた者だけだ」
徼火が驚きに目を
「当主…って」
「そうだ。そして我々にとって当主とは一人ではない」
砂熙が拳を握った。
「
「私には三人いる。私と全てを共有した片割れが」
「よせ!
なだれるように躍り出たのは
首を羽交い締めにされた
「この、卑怯者…………‼」
「なんとでも言え」
超然と刃を向けるのは炎、その目は静かに一同を見渡した。ぴたりと珥懿と視線を交わらせる。
「……いつから気づいてた」
「さてな。しかしお前が歓慧を嫌っているのは薄々分かっていた。どんなに親しそうに呼んでもだ。だからもしやと。お前は自分が思っているより隠すのが下手だ」
「……黙れ」
茜の目下から垂れた布が鋭利なものに当たって裂けた。
「炎、なぜこのようなことを……」
「お前が二泉の為に尽くしたところで、十分な見返りがあるとは思えない」
すると、はっ、と笑って馬鹿馬鹿しいと丹を横目で睨んだ。
「俺が二泉のために?なぜそんなことしなきゃならん。俺はそんなもののために
「なぜ。物心つく前から当主と双子のように育ってきたお前が」
「だからだ」
「だから……?」
ああ、そうさ、と炎はさらに睨んだ。
「俺はかつて
周囲が予想もしなかった発言に驚く。砂熙が混乱して助けを求めるように皆を見た。
「うそ……でも……蕃家筋の生き残りは
「あれはもとは分家の
茜も丹も息を飲んだ。彩影は過去を捨てて当主に仕える。互いに身の上話などしたことはなかった。
「あの日はちょうど
忘れもしない、と吐き捨てた。
「俺は蕃家を継がせてくれと先代や伴當たちに頼み込んだ。でもそれは叶わず、俺は引き続き白生として生きることを強要され、まだ五つだった妹は土楼を追い出され耆宿院に預けられた。身寄りのない妹は院で腫れ物扱いされて育ち、今じゃ妓女になって春を
「だからお前、よく妓楼に」
「それしか会う方法がないからだ」
炎は初めて突きつけた刃を揺らした。
「俺が行くといつも泣くんだ。独りは寂しく仕事は辛いと。俺はせめても七日に一度会いに行ってやることしか出来ない。血を分けた兄貴なのに、助けてやれない」
歯を食いしばって珥懿を憎悪する。
「全て、紅家と城の由歩のせいだ。紅珥、お前の父と母が俺を白生にした。お前の
「私にはお前が必要だと思ったからだ」
「嘘をつくな!」
片割れは唾を飛ばして激昂した。
「茜も丹も彩影に加わり、俺なんてもう不要だったはずだ!お前にはなんでもあった。権も、力も、支えてくれる仲間や妹も。俺には、何も無い。何も持つことを許されなかった……だから、俺は壊してやろうと思った。なにもかも崩れればいいと思った」
侈犧が険しい顔をした。
「だから二泉に手を貸したって?征服されれば、お前だって泉賤にされてたかもしれんのに」
「だが妹とは一緒に暮らせる」
「それだって、今のまま方法がないわけじゃないだろう」
聞いて
「紅珥は俺を解放する気がさらさらない。それに、俺は彩影だ。
どうだ、と炎は珥懿を見た。
「少しは俺のことが憎くなったか?泳がせていたつもりだったろうが、俺は最初からお前とこうなりたいと思ってたぜ」
「お前はよくやってくれていた。だから思い直してくれるのを待っていた。憎いというより、残念でならない」
片割れがそう返せば声を上げてひどく愉快そうに笑った。
「それはありがとうよ。じゃあ、ちゃんと俺を憎めるようにお優しい当主さまにもうひとつ教えてやる」
剣を正面へ向ける。
「十年前、
言うやいなや、炎は茜を突き飛ばす。そのまま珥懿の瞬速の居合いを受けた。
拮抗して小刻みに震える白刃を挟み二人は睨み合った。
「あれには、何の罪もない」
「いいや、あるね。――ひとつ、
炎が力任せに払って突く。
軌道を読み飛び
「身の程を
激しい剣撃の応戦。珥懿に加勢しようとした徼火が侈犧に肩を掴まれた。
ぶつかり合い、毛先を散らし合い、風を起こして間合いを取る。
「三つめは、いまだ暁さま自身が持っている」
「――――わけの、わからないことを、言うな!」
撃ち据えながら、初めて珥懿が吠えた。
「本人に訊いてみるといいさ。暁さまはお前が思ってるほど無垢じゃない」
炎は屈んだまま鬼の追撃を鼻先にかかるすんでのところで受けた。全てを凍らす漆黒の瞳が彼を射る。
「お前ごときが
「は。やっと怒ったか。お前も先代も、変に甘いところはそっくりだ」
それに、と押し返す。
「当主のくせして、砂人の女ごときに骨抜きにされたのも瓜二つだな!やはり血は争えないか!」
何かが外れたようにひときわ甲高く笑ったやいなや、
「……どうした。殺せよ。今までやってきたみたいに首を
いまや面紗は剣先に掛けられ吹き飛び、荒い息で仰向けにひっくり返り泣き出しそうに口を歪ませ、それでもせせら笑う。しかし、珥懿は答えることなく無言でしばらく見つめ、そしてふいと得物を
「なんっ…」
言いかけたところを逆手で持った鞘で容赦なく殴る。一瞬ののち昏倒しぴくりとも動かなくなったのをさらに黙って見届け、ようやく剣を収めた。
しんと静まり返るなか、疲れたように上向く。乱れた髪を掻き上げ、珥懿は背を向けたまま後ろの一人に呼びかけた。
「ここまで見ておいて、まだ黙っているつもりか。老茹」
思考の追いつかない間があり、追いついて絶句した間が満ちた。
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