第七話 膝枕

 初めてのハグの感触は確かに体に残っていたけど、頭では全く覚えていなかった。時間も長くなかったし、頭が正気に戻る前に彼女が溶けてしまったから。


 ただ、確実にハグをした。その事実だけは目の前で真っ赤になっている彼女が明らかにしている。


「し、雫……?」


「だ、だい、だいじょうぶ……。でも、ちょっとハグは強すぎるかも……」


「ごめん。俺が勝手なこと言って」


「ううん。い、嫌じゃないから……えっと……」


 彼女は床に開いたままだったノートを持ち上げた。手の震えがノートにまで伝わっている。


「つ、次?」


「うん……」


 彼女はノートをぱたりと閉じると、立ち上がって机の上から何かを持って来た。


「こ、これかな」


 俺の前に差し出されたそれ。


「……綿棒?」


「そう、耳掃除、してほしい」


 み、耳掃除っ!? なんでっ!?


「い、いいけど……み、みみそうじ……?」


「うんっ。はい、これ」


 彼女は綿棒を一本取り出して俺に差し出した。俺は状況があまり理解できないままそれを受け取った。


「えへっ」


 彼女は悪戯っぽく笑って、床に手をつくといきなり横になって俺の太ももに頭を乗っけてきた。彼女のいい匂いが鼻をくすぐる。


「えっ、えっ……」 


 俺は綿棒を片手にたじろいだ。ハグよりは破壊力低めだろうけど、十分に緊張する。


 近くに開いて置かれた彼女のノートが目に入る。 



[膝枕をしてもらいたい]



 あ、耳掃除メインじゃないのかこれ……?


 耳掃除は膝枕をしてもらうための、なんかそういう、きっかけのようなもの?


「拓哉君っ、はやくっ」


 彼女は小さな腕を顔の前にかざしながら目を閉じていた。綺麗な黒い髪の間を縫うように見える彼女の横顔にドキッとする。


「あ、うん。わ、わかった……」


 俺は彼女の耳を少しつまんで優しく引っ張り彼女の耳の穴に綿棒を挿しこんだ。そのまま親指を人差し指でくるくる耳の中を探っていく。


 それに合わせて彼女は、時々ぴくっと体を震わせた。


「んっ、あっそこ……きもちぃ……」


「ちょっと」


 やめやめ。なんかいかがわしいことしてると思われちゃうでしょ。お母さん聞いてませんように。


「んーっ……」


 いくらか耳をいじった後彼女の耳から綿棒を引き抜いた。


「全然耳掃除なんて必要ないくらい耳綺麗なんだけど……」


 彼女の耳から引き抜かれたほとんど新品のままの綿棒を見て俺は彼女に言った。頭を預けたまま幸せそうに目を閉じていた彼女は、うっすら目を開けて首をひねって俺を見上げた。


 ばかみたいに可愛いんだな雫は。


「当たり前じゃんっ。好きな人に、耳垢とか見せられないよ……。昨日、お風呂上りに三十分かけて掃除したんだもん……」


「三十分っ!?」


 耳の中真っ赤っかになっちゃうよ。


 彼女はうふっと笑った。


「お掃除なんてどうでもいいのっ。拓哉君に触れて。触ってもらえて。それだけでもう、お腹いっぱいっ……。えへへ」


 彼女は俺の七分丈のズボンをきゅうっと優しく摑んだ。


 こんなの、好きになっちゃうな……恥ず。


「……反対、雫」


「えっ?」


 雫は瞳をぱちっと開けて俺を見た。


「反対の耳もやるから、向き変えて」


「い、いいの?」


「雫はお腹いっぱいかもしれないけど、俺は、まだ……雫に触ってたい……」


「え……」


 やばいやばい。これは完全にセクハラ発言。


 ひ、引かれたかなっ?


 顔がかんかんに熱くなる。それでも、本心だ。


「やったぁ」


 雫はふっと笑みを弾ませると頭をくるっと半回転させて、顔を俺のお腹の方へ向けた。彼女の左耳が目の前に来る。


「もうちょっと、このままでいられるなら、お願いしますっ」


「っ……」


 だめだ、可愛すぎる。


 俺は綿棒をくるっと返して、反対側の端を彼女の耳に入れた。


「んっ……」


 彼女はぴくりと跳ねて、俺のTシャツをつまんだ。


「雫って、耳、弱いの?」


「え?」


「いや、なんとなくねっ。さっきからぴくぴくしてるから、くすぐったいのかなって思って……」


「あぁ……」


 彼女はほっぺたに両手を当てた。


「うん、結構弱い。耳だけじゃなくて首筋とかも……。くすぐられるのとか、耐えらんないっ」


「そ、そうなんだ」


 敏感、なのかな。


「うん」


 ほーう。


 小学生の俺には、いたずら心が芽生えた。


 俺は綿棒を一度引き抜いて、彼女の耳に、ふっ、と息を吹きかける。


「ふゃぁぁ!!」


 彼女は咄嗟に変な声を上げて耳を抑えた。


「な、なにぃっ!!」


「あははっ、ごめんごめんっ。ちょっと悪戯したかっただけ」


「も、もぉ……。は、恥ずかしい……」


 彼女は顔を真っ赤にして俺のお腹に顔を押し付けた。彼女の熱がお腹を伝ってやってくる。


「でも、なんか恋人っぽいなっ」


 彼女は顔を離して起き上がった。俺の目を真っすぐ見る。それから少し恥じらいながら、俺の手を取った。


「今まで、拓哉君がこうやって私とおしゃべりしてくれるなんてなかったしさ。ほんとに、彼女になったみたいで……」



「好きだよ」



「ふぁっ!?」


 俺はその手を握り返す。そして、彼女の背中に手を回して、ぎゅっと抱き寄せた。もちろん心臓はドッキドキだけど、そんなことより気持ちが先にあふれ出る。


「雫が俺のことを好きって言ってくれるなんて全然信じられないことで、今でも夢なんじゃないかなって思うけどさ、こうやって一緒に過ごしていろんなことに気付いたんだ」


 告白されたのはほんの一時間半くらい前。


「何よりも雫といる時間がすごく楽しいって思った。俺も雫が好きだってことに気付いた。それはすごく身勝手でその場限りの考えなのかもしれないけど、俺は今、もっと雫のことを知りたいって思うし、もっと一緒にいたいなって思ってる」


「ぇ……」


「俺の彼女になってくれないかな、雫」


 好きな人の前だし、カッコいいこと言おうとしてるけど、緊張で声は震えている。それもなんかダサいけど、そんな俺でも彼女が好きでいてくれるなら。


 彼女からの返事はなかなかやってこなかった。


「あれ、雫?」


 俺は抱き寄せた彼女の身体を離して、彼女の顔を覗いた。


「えっ」


 彼女はリンゴみたいに顔を真っ赤に染めながら、固まっていた。完全に電源が落ちてしまったようだ。


「ちょ、ちょっと雫? え、えぇ……っとぉ……」

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