Ⅰ.黒百合の姉妹と赤髪の魔女

プロローグ

 自転車のペダルを懸命に回しながら、黒森くろもり桜果おうかは泣きすがるような悲鳴をあげた。


「お姉ちゃああぁん、助けてえええぇ」


 満天の星々の下。ひときわ明るい満月が、荒涼としたその世界を照らし出している。

 草も木もまったく生えていない灰色の大地。鼻に溜まるよどんだ臭気。そして、少女を恐怖に陥れている奇怪な存在。

 背後から聞こえてくる地響きがいっそう大きくなり、桜果はハンドルに付けられたバックミラーでその姿を確かめた。


「き、来ちゃうううう!」


 それは額に螺旋らせん状の角を持つ、巨大なウサギの大群だった。一メートルはあろう巨体を揺るがしながら、両眼を血の色に輝かせて自転車の後尾に食らいついてくる。

 すると、落ちつき払った声が桜果の肩ごしに聞こえた。


「慌てることはないわ。このままアルミラージを引きつけて」


 桜果の肩をつかみ、後輪の車軸を足場にして、黒森百合乃ゆりのは立ち乗りをしていた。

 切り揃えられたショートカットと、あどけなさの残る顔に眼鏡をかけた妹、桜果。

 対して姉の百合乃は腰まで届く長髪の所有者であり、細い眉目は怜悧れいりで澄ました印象を与えてくる。

 ふたりとも黒いブレザーの制服を着ており、それに加えてつば広の三角帽子とマントといういでたちをしていた。

 言うなれば、魔女装束の女子学生だ。


「もう無理。追いつかれちゃうよ、お姉ちゃん」

「この程度で泣き言を漏らしてたら、魔女学校での三年間は耐えられないわよ?」


 うう、と桜果が後悔の色を浮かべる。


「やっぱり大好物のマンドラゴラを勝手に採ったから、アルミラージさんは怒ってるんだよね?」

「そうね、あの子たちの餌場だったんでしょ。ところで桜果、昨日勉強したことの復習よ」

「え、今ここで!?」

「魔力の単位量である一マギカルの定義を述べよ」

「ええと確か、一立方メートルの水を蒸発せしめるエネルギー、だったような」

「正解。それで、あなたはこの魔力戦車マギチャリを漕いで、どれだけの魔力を発生させたの?」


 桜果は視線を落とし、ハンドルに取りつけられた魔力計の針を見た。


「ちょうど五〇〇マギカルくらい」

「充分ね。追われっぱなしもなんだから、そろそろ一発ぶちかますわ」


 百合乃の股の下で回転する後輪のホイールには、六芒星ペンダグラムの紋様が光の残像となって浮かび上がっている。

 それは人の労力を魔力に変換する魔力発生装置ジェネレータだった。

 百合乃は身をひるがえすと、右手を拳銃に見立てて人さし指を伸ばし、アルミラージの群れに狙いを定めた。後輪の六芒星が収束して光の塊となり、まばゆい輝きを放って消える。すると、マギチャリの周囲にこぶし大の火球がぼつぼつといくつも出現した。


 ——火栗鼠の突進エキュロイユ・シャルジュ——


 アルミラージの大群めがけて、一斉に火球が撃ち込まれた。

 一発あたりの爆散は凄まじく、土煙が立ちのぼり、豚にも似た悲鳴が重なる。


「すごい!」

「昔、このあたりに火精霊王サラマンデルが出現したせいね。炎の精霊がよく働いてくれたわ。まさかここまで威力が出るとは思わなかった」

火精霊王サラマンデルって、ものすっごい大きな燃える竜だっけ?」

「ええ。彼だけじゃない、風精霊王シルフィード水精霊王ウンディーネ土精霊王ベヒモスも、それまで人類が遭遇したことのない巨大な存在だったのよ。だからこうしていくつもの都市が消滅して——」


 百合乃は何かを察知したように振り返り、目を凝らした。

 はるか後方から、ふたたび地響きが聞こえてくる。それは次第に大きくなり、


「……桜果。意外と根性があるみたいよ、あの子たち」


 またしても夜闇がアルミラージの赤い眼で埋め尽くされた。


「嫌ああああ!」


 桜果は前のめりになり、焦燥に駆られるがままペダルを回した。

 先の火球による攻撃で激昂したのか、追ってくるアルミラージたちの目は赤みを増している。追いつかれたが最後、角で串刺しにされるのは確実だろう。

 だが、視界の先にそれを見つけた桜果は、思わずペダルを回す脚を止めた。


「お姉ちゃん、前、前!」


 進行方向にあったのは、幅と深さを持つ大地の裂け目だった。冥府につながっているかのような暗黒の地底から、亡者の声ともしれない強風が吹き上げている。


「とってもとっても大きな穴だよ!」


 桜果は停車させようとブレーキレバーに指をかけたが、


「止まらず走って」

「ええっ!?」

「前進あるのみ。そしてノーブレーキのまま飛び立つのよ」

「無茶だよ、あんなの飛び越えられない」

「とにかく後輪を回して、魔力を溜め続けなさい。そのためのマギチャリなんだから。あ、そういえば『とにかく』って兎に角って書くのよね。アルミラージが語源だったのかしら」

「うう、のんきすぎるぅ……」


 半泣きになりながら、桜果はペダルを踏んで再加速した。


「前門の崖、後門のアルミラージ、まさに絶体絶命ね。でも桜果、これから先どんな窮地に陥っても、このことは決して忘れないで」

「何を?」

「わたしたちが偉大な大魔女グランウィッチの血を継いでる、最強の姉妹ってことを」


 百合乃はまっすぐ前を指さした。その顔にあるのは恐怖や迷いなどではない。

 未踏の危地に挑む冒険者のような、自信と決意の表情だった。

 ふたりが乗るマギチャリは断崖をめざして突進し——そして大地と空中の境界を越えた。

 美しい放物線を描きながら、奈落の底へと落下していく。


「落ちちゃうううう!」


 なおも桜果はペダルを回し、後輪をひたすら空転させる。叫ぶ妹の背中にのしかかると、百合乃はハンドルにある真鍮製のベルに手を伸ばした。


「見てなさい。フライホイールはこうやって使うの」


 ベルが打ち鳴らされ、長く、甲高い金属音が虚空に響いた。

 すると、前輪のホイールにも六芒星の光が生まれ、マギチャリは落下を止めた。

 見えない糸で吊り上げられるように、夜空に向かってゆっくりと飛翔をはじめる。


「飛んでる……」


 驚きのあまり桜果がペダルを緩めると、上昇気流でまくれるスカートを抑えながら百合乃は言った。


「脚を止めちゃダメよ。ジェネレータからの魔力で飛んでるんだから」

「わ、わかった」


 桜果は汗ばんだ手でハンドルを握りなおした。おそるおそる地表を見下ろすと、さっきまで自分たちを追いかけていたアルミラージの大群が次々と崖から転落している。突進の勢いを止めることができなかったか、後続する同胞に突き落とされる形で。


「ごめんなさい、アルミラージさん。次からは見つからないように、こっそりマンドラゴラをもらいます」


 申し訳なさそうに桜果が謝る。百合乃は小さく息を吐いた。


「それにしても、ここが百年前まで国の首都だったとはね。もとに戻って人が住めるようになる日が、いつか来るのかしら……」


 灰色のその大地は、かつて関東平野と呼ばれた場所だった。

 百年前に起きた未曾有の厄災と、それに伴う魔獣や妖精の出現により、幾多の都市あるいは国家そのものが消失して『呪界』と化した。つちわれてきた科学技術は発展から喪失へと代わり、世界は『有史以来の巻き戻しリセッション』と呼ばれる文明衰退を余儀なくされる。

 広くはない可住地域に蝋燭ろうそくを灯して夜を過ごすこととなった人類は、マギチャリを漕ぐことで超常的な力を操る『魔女』と、そのギルド組織である『魔女教団』の庇護を受けながら、文明と社会の命脈を保っていたのだった。



 西暦二〇四五年、春。

 日本の首都たる京都には、魔女の育成機関である魔女学校が存在していた。

 百合乃と桜果がそこへ入学するところから、この物語ははじまる。

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