物語の先へ

 マイクを握りしめる手に、じっとりと汗がにじむ。劇場内には、静かな絶叫が満ちている。


 私は額の汗を拭うと、舞台の上に立つリノア――女優S氏を睨むように見つめた。


『類人猿は今まさに!絢爛たる舞踏会のその中心で、彼女をわしづかみ、塔へと昇っていく!荒れ狂うその四肢は彼女以外のすべてを破壊し!最後の人面獣たる裏切り者を壁の染みに変えたァ!』


 私が即興アドリブでそう叫ぶと、ゴリラの着ぐるみを着た若き劇団員は慌てて荒れ狂う演技をする。類人猿が舞台に現れた瞬間、機械のようにフリーズしていたS氏も、どこかぎこちないながら演技を再開した。


 「金剛石の薔薇」について。私には昔からある仮説があった。それは、世間一般ではあまり知られていない情報……舞台ではない、「原作小説版」にまつわる、もう一つの都市伝説がもたらしたものだ。


 結論から言おう。それは、薔薇の呪いは主人公リノアによるもの「ではない」、というものだ。


 「原作小説版」に関する都市伝説について、簡潔に話すならば以下のようになる。


 それは、この小説の作者こそ、元となった実話における「少年エディ」なのではないか、というものだ。

 この小説が世に発表されたのは、彼が老衰で一人亡くなった後のことだ。彼音部屋には、夥しいほどの「改稿」の痕跡が残されていた。

 物語がクライマックスへと収束していく最中に、その痕跡は多く見られた。彼は何度も、何度もこの物語を繰り返し……おそらくは、「結末を変えようとしていた」。まるで、後悔の中へ沈み、その全てを取り戻したいと願うように。

 この物語の中で、それを願うものがいるとするならば。それはきっと、エディだろう。誰よりもリノアの側に居て、彼女のことを真に想う事の出来た少年。これはそんな、感傷センチメンタリスムに満ちた都市伝説だ。


 しかしながら。E氏の話を聞いて、私の中に確信めいたものが生まれた。何度も物語の中へ身を投じるS氏の姿。それはまるで、悲劇の結末を変えようともがき続けた、作者の姿そのものではないか、と。


 故に、私は彼ら劇団に対して、この「再演」を提案した。

 ――この悲劇全てを、ぶち壊しにしてやるために。


『彼女を片手に抱え、類人猿は塔を上り続ける!!しかしながら、その姿を追う影がたった一つ!!それはだれあろう、少年エディだァ!!!』


 私がそう叫ぶよりも早く、舞台の上のエディ……舞台俳優E氏は駆け出していた。


 そう、この「再演」は。リノアを救うためのものではない。作者の無念に報いるためでもない。


 「物語」とは。空に見える、星の光のようなものだ。我々が目に出来るのは、遠い過去の光でしかない。本のページをめくる度、語られる言葉を聞くたび、動画の再生ボタンを押すたびに。そこにあった未来は、過去のものになっている。決して、星に手は届かない。


 ――我々に、「物語」を救うことは、できない。


「リノア、手を伸ばして!」


 エディが叫ぶ。物語の中で彼女が命を落としたその塔の上で。


 ――我々にできるのは。今を生きる、S氏を救う事だけだ。


 我々に必要だったのは、巨大なエネルギーだ。決まってしまった結末、予定調和の収束へと向かう物語を、白紙ブランクへと引き戻す、強い強い力。

 彼ら劇団のホームグラウンドに、ゴリラの着ぐるみが保管されていたのは、まさに偶然だった。


「あきらめないで、リノア!僕と、ともに生きよう!」


 そう叫ぶ声が、エディのものであるのか。それとも、E氏自身のものなのか。それはきっと、誰にも分らないのだろう。劇場にいる全員が、かたずをのんで見守る。その中には、かつて劇団を去って行った者たちもいる。


 目に見えないものとの対話。この劇場に渦巻く静かなエネルギーこそが、その本質であるのだろう。その力に、背を押されるように、二人は手を伸ばし、声を枯らし。


 ――そして今、その手は届いた。


 不意に、何かの砕ける音がして。

 劇場内に、本当の沈黙が訪れた。


 それは、リノアの……S氏の手を離れた「金剛石の薔薇」が、地面にたたきつけられた、まさにその断末魔だ。

 筋書きのない終幕は、今まさに、本当の終わりを迎えた。


「リノア!」


 エディ……E氏の不意の叫びに、劇場にいる全員がふと我に返った。未だゴリラの着ぐるみに担がれたままのS氏が、ぐったりとその力を抜いている。ゴリラ氏が慌てて彼女を床に下すと、全員が彼女に駆け寄っていった。


 ――静かに彼女が目を開く。


「汗、拭かなきゃ。衣装、汚れちゃう、わね。」


 今度こそは、声ある歓喜の叫びが、劇場にこだました。

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都市伝説再演File.「金剛石の薔薇」 加湿器 @the_TFM-siva

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