『三幕』

 ドア越しに、閣下、と鈴を転がすような声が聞こえる。わずかに大人への成長をにおわせる、ハスキーなボウイ・ソプラノが。

 リノアは、血に染まった薔薇を手早く抽斗にしまうと、声の主を招き入れた。重い黒檀の扉の陰から、空色の瞳がのぞく。


 少年の名は、エディという。彼は、つい最近にリノアが雇った下働きである。幼い身空ながら、病に臥せる母に代わって幼い弟妹を養うため、彼はこの屋敷にやってきた。年は十五と聞いてはいるものの、いくらか……二、三年ほどの誤魔化しがあることは、リノアの眼から見ても明らかである。


 しかしながら、未だ世俗に染まらぬ少年であることが、リノアにとって都合の良い点である。


金で買った籍。死に物狂いで身に着けた礼儀作法。五年の年月を掛けて塗り固めた、「伯爵夫人」という仮面persona。しかしながら、どのようなものであれこの世に完璧というものは存在しない。偽りの貴婦人を演ずる彼女にとって、彼と二人きりで過ごす時間だけがその仮面の帯を緩ますことのできる、わずかな安らぎの時であった。


「紅茶の準備ができております、閣下。」


 ぎこちないながらも精一杯に礼を尽くすエディに、年若き淑女は微笑みを返す。エディはぽっ、と顔を赤らめると、いそいそと黒檀の扉の向こうへ消えた。


 初々しい少年にふっと毒気を抜かれながら、リノアはそっと目線を戻した。彼女の手元には、今朝届いたばかりの新聞が、無造作に広げられている。


『舞踏会血ニ染マル!死シタ海運王ニ黒イ噂アリ』


 彼女はそっと、柄の彫り込まれた銀のナイフを手繰り寄せる。

 ――それこそが、かの海運王……人面獣たる裏切り者の胸に打ち込まれた、まさしく銀の弾丸であった。

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