第13列車 時の流れと流れる車窓

 列車に乗っていて車窓見るのは私にとっては日常茶飯事であることだ。そんな流れる車窓を見ていても思い浮かべるのは山ほどある。例をあげるならば「あの人は元気してるだろうか」「この先の人生大丈夫なんだろうか」そういうくだらないことだ。列車は定刻通りに各駅を通過、駅を発着してゆく。そして多くの人はスマートフォンやパソコンでなんならかの画面を見るが、景色を眺めている人も居る。時代は進むごとに街の再開発や建物の解体などか様々な点で所々変わってゆく。

 あるいは、時が進むごとに大人の膝ぐらいまでの小さな子供が大人の頭と同じ身長になる、身長を超える。その子供はやがて恋人という赤い糸で結ばれ、時にはその糸がほどけそうになり、2つの糸になってしまいそうな場面や壁に遭遇するが結婚という赤い糸の結びが生まれる。その夫婦には子供が授かり、その子どもの成長を育て、見守り、その子供が親である夫婦との喧嘩、気持ちのぶつかり合い、人間関係などにもがき苦しみながらも、受験という子供にとっての最大の人生の分岐点、チャンスとなる鍵が訪れる。その子供は恋をし、片想い、失恋をしてしまうがそれでもくじけず、恋人と結婚し、子供が授かる・・・人生とはこのうまくいけばこの繰り返しである。

 では先程のような例を鉄道に置き換えてみるとどうだろうか。ある時代に新しい車両が登場し、出発式という晴れ舞台に主役となる。その後の20年から数十年、その車両が故障しようとも修繕し、ダメになるまで走り続ける。最期にはラストランという最後の沿線住民や鉄道ファンなどに終着駅まで走る雄姿ゆうしを見届けられながら走る。その車両は廃車という車両そのものがなくなる。

 私はこう考える「時の流れは残酷な物でもあるが、視点を変えてみることで時の流れは善となるモノになるだろう」「時の流れと流れる車窓は数学的視点や化学的視点からみれば比例するだろう」と。私達は立派なタイムマシンが開発、実用化されない限り「とき」という時代や時間の流れには逆らえない。だからこそ、「今」というものを生きていくしかない、「昔」というものを懐かしむしかない。人生の終着駅とあの世への出発駅は突然に。車窓というものは色々なものを思い浮かべさせてくれるようだ。普段スマホを見ているならば、たまには車窓を見てアイディアや思い出などを浮かべるのも悪くないだろうか。鉄道とはただお客様を目的地まで運んでいるだけではないだろう。

 








 

 


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