第9話

 それは想像を絶する素晴らしきものだった。裕一郎とはこんな感覚に陥ったこと無い! いや、裕一郎だけじゃない、今まで付き合った誰ともこんな感覚無かった! とろけた! さっき食べたソフトクリームですら、そのトロけ具合は敵わない! 何と言う事だ! 真宙め、いつの間にこんなにテクニシャンになったのだ? 山に籠ってキス仙人の元で修行でもしてきたのかっ? ああああ、動悸息切れが止まらない! どうしてくれんだ! 


 真宙は顔を上げ、じっと私の目を見た。そしてまた元の位置に戻って仰向けになって寝転んだ。

「なるほどな。」

真宙は呟いた。キスした後のなるほどなって、どういう意味? 真宙は何事も無かったかのように「そろそろ帰ろっか?」と言って起き上がり、私に手を差し出した。私はその手を取って起き上がった。そこでまた何か劇的な事が起こるのかと思いきや、何も無かった。


 普通に駐車場へ行き、エンジンをかけ、車を発進した。今まで散々私を煽ったナビは何も言わなかった。真宙のマンションへ着くと、彼は車から降りて、運転席の私の方へ回ってきた。私は窓を開けた。てっきり「俺んち寄ってくか?」と言われるのかと思い、ドキドキしながら下着の上下が同じであるか思い出そうとした。そうだ今日は裕一郎と温泉に行くはずだった。抜かりはない。


「じゃな。」

真宙はそう言って手を振るとサッサとマンションの中へ入って行った。あっけなーーーーー! 何だその態度は! あんな濃厚なキスまでしといて…。私は窓を閉め、自分のマンションへ向かって走った。アップテンポでハイテンションの曲ばかり選んで大音量でかけた。平常心を保とうとした。頭はそれに順応した。しかし胸が…さっきから胸にナイフが刺さるような痛みが走っている。涙まで伝って来た。もうなんでよー! そうだ、私は傷ついたのだ。私にとっての至極のキスは、真宙にとってはクソつまんないもんだったのだろう。あーあ、いい気持ちになんてなってやるんじゃなかった! 真宙のクソ野郎! 今日は人生初、一日で二人にフラれてしまった記念日だ! なんて日だ!





 あれから1か月。ナビは真宙と遊園地で別れてから全く現れなくなった。ナビゲーション機能を使っても、普通のナビが起動するだけだ。あれは幻だったのだろうか? そして真宙からは何の連絡も無い。私は何度も真宙に連絡しようかと思ったが、あのキスの後の「なるほどな」が胸をえぐって連絡出来なかった。嫌われたんだ。諦めよう…って、私いつの間に真宙に恋する女になっとんじゃ! そうだ、そうだ! あの時私は裕一郎の裏切りで気が動転してたんだ! 弱っている時にあんな事されたら、そりゃ誰でも心が揺れるわっ! 真宙~、おのれ、弱ってる女を食い物にするクソ野郎だったんだな! キサマのようなヤツはこっちから忘れてやるわー! ナビめ、希望ルートなんて言いながら、希望なんてまるで無い。絶望ルートの間違いなんじゃなかったのか?


 私はこの一ヶ月、仕事以外の時間は家に籠ってただひたすらケータイをガン見し、真宙からの連絡を待ち続ける毎日だったので、頭はカラーリングした髪が伸びてしまってプリン状態になってるし、肌もガサガサ。まったくオシャレもしていない。止めよう、こんな生活! 元のキラキラ女子に戻るのだ! ってアタシ、キラキラ女子だったっけ? ま、いいや、とりあえずオシャレすっか。


 私はクローゼットを開け、レモン色のワンピースを出した。この服は、裕一郎と温泉に行く為に何着か買ったものの一枚だった。ちっ、忌々しい。あんなクソ野郎の為にこんな高い服を買っちまった…。でもいいや、この服すごく気に入ってるから。明るい色の服を着ると気分まで上がってくる。そして久しぶりに念入りにメイクをした。私ときたら、ここ最近は会社に行く時ですらメイクをするのが面倒になって、力士の気合入れの如く化粧水と乳液を顔面に叩き、BBクリームを塗りつけて終り、という女子力崩壊ぶりだった。あぁ危険、危険、このまま落ちるとこまで落ちるところだった、ヤベッ。バッグを引っ提げて表に飛び出した。光が眩し~! 暗闇から外に出たもやしって、こんな気分だったんだね! って、それじゃこの後、焼きそばの具材にされるだけじゃねーかっ! もうそんな妄想はどうでもいい! 美容院行くぞ! 

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