第3話
「ねぇ神様。少しだけ、お話をして構いませんか?」
緑がいよいよ深さを増し、セミがやかましく鳴き始める頃。涼を取るために訪れた沢を前にして、ツツジは山の女神を振り返った。
「そりゃあいいが……また田吾作の話か? 飛ばした竹トンボが返ってきて、鼻の穴に入り取れなくなった話」
「あ、そのお話はそこで終わりです」
「そうか。ならあれか? 田吾作と二人でこっそり人の家の納屋に忍び込み、見つかりそうになってネズミの鳴き真似をした時の話」
「それは田吾作さんだけ見つかりました」
「田吾作ぅ」
「でも、此度は田吾作さんじゃなく私の話なのです」
ふかふかとした苔の上に腰を下ろし、水に足先を遊ばせながらツツジは言う。
「私が小さかった頃」
ぱしゃり、と彼女の足が水を跳ね上げる。
「村で、疫病が流行ったんです」
「疫病?」
ツツジの大きな目は、太陽に照らされてキラキラとする水辺を見つめていた。
「はい。それは、村の人数が半分になってしまうぐらいの酷いものでした。私の父や母、弟もその病で死んでしまったぐらいに」
「……まさか、あの時のことか」
「ご存知ですか?」
「ああ。大変なものが山に入ってきたと思ったのをよく覚えている。……そうか。君はよく無事でいたものだな」
「……」
彼女は黙って、自分の着物の裾をめくる。それを何気なく見やった神は、仰天した。
膝上からその先、小さな窪みがびっしりとツツジの皮膚を覆っていたのである。
「これは……」
「疫病の名残りです。この忌々しい痕は、私の胸辺りにまで広がっています」
「……だとしたら、君も」
「はい。……私も、皆と同じ疫病にかかりました。三日三晩高熱でうなされて、全身に水疱ができて、それが潰れて、そこらじゅうに嫌な匂いのする膿が垂れて。……それでも何故か、私は持ち直したんです」
助かったというのに、それを話すツツジの声は暗く沈んでいる。まるで自分を責めているかのように。
「けれど、そうやって生き残ったのは私だけでした。村の人は最初こそ、私が助かったのを喜んでくれましたが……この痕を見ると、どうしても病のことを思い出すようで。次第に、私に関わろうとする人もいなくなりました」
「……」
「田吾作さん以外」
「田吾作ぅ!」
彼女の話に田吾作が頻出した理由はそれだったのである。ツツジが世話になった礼に後で山菜でも持っていってやろうかと、案外律儀な神は考えた。
「なので、元々あの村で私をお嫁さんに貰ってくれる人などいなかったのです。こんな……忌々しい見た目をしている私なんて」
「……そうだったんだな」
「ええ。だから私、田吾作さんに山の神様のお嫁さんになれって言われた時、すっごく嬉しかったんですよ?」
「え?」
ツツジはパッと花の咲いたような笑顔を神に向ける。それがあまりに眩しく見えて、神は目を細めた。
「だって、ようやく私のことで村の人が喜んでくれたんです。それまでずっと、私はみんなを苦しませてしまってたのに」
「……」
「生き長らえてしまって、でも死ぬこともできないで。それでもやっと、みんなの役に立てる日が来た。しかもそれは、山の神様のお嫁さんという大役だったんです」
胸の辺りでグッと握り拳を作る。ツツジは、強い目をまっすぐ空に向けた。
「故に私は、立派な神様のお嫁さんにならなければならないのです! その為なら、どんな修行でもこなしてみせます!」
「いや、嫁も何も君は女の子で……ん、あれ? ならいいのか。女の子はお嫁さんになるもんだから」
「はい!」
「でもアタシも女だが……」
「何か問題でも?」
「そりゃ問題は……え、無いのか? 人間は女同士でも夫婦になってもいいものなのか?」
「前例はありませんが、何事にも始まりはつきものですから!」
「まあ、それもそうか……」
あまりにも強烈なツツジの押しに、自分が欲していたのは夫であるということを完全に失念した神である。この返事に、ツツジは嬉しそうにまたにっこりと笑った。
「では、早速お嫁さんの修行をして参りますね! やっぱりお嫁さんといえば、いつも元気いっぱいでいること! なので未来のご飯を作る為に、農作業をしてきます!」
「お、おう。あー、あまり走るなよ。転んだら大変だ」
「はい! 気をつけて走ります!」
身軽にひょいひょいと走っていくツツジに、神は小さくため息をつく。そうして一瞬迷ったあと、彼女は立ち上がり少女を追うために地を蹴った。
土を耕し、時々手を休めては汗を拭う。少し離れた木の枝の上では、神が少女を見下ろしていた。
「……神様は、山を見回らなくても良いのですか?」
ふと気になり、ツツジは口を開く。この問いに、神は首を横に振った。
「人間が神を案ずるな。不敬であるぞ」
「ですが、神様は私が怪我をしないよう見守っていてくださっているのでしょう? 神様のお仕事を邪魔してしまったとあっては、お嫁さんの意味がありません」
「おいおい、誰がお嫁さんだ。言ったろ、アタシが望んでいるのは婿殿だ。それは変わらん」
「むむう」
だいぶ伸びた真っ黒な髪を指先でいじるツツジに、女神は答えた。
「……それに、回らずとも山は見える」
そうして目を閉じ、木の幹に体を預ける。
沢に落ちた陽の光。鳥の鳴き声。地を這う虫の向かう先。緑の葉、土の匂い。女神の意識は、少しずつそれらと同化していく。
こうすれば、山の隅々まで自分の指先のように感じることができるのである。
血管のように巡らされた根。蓄えられた雨水の流れる感覚。枯れかけた木。……あれはもう寿命だな、後で労いに行ってやらねば。草を食む兎。その少し向こうでは鹿が木の幹を剥がしている。
呼吸をしている。命が動いている。死は土に還り、また新たな生を芽吹かせる。全てが自分で、自分は全てであった。
「神様!」
だがツツジの声に、バチンと意識を引き戻される。目の前には、真っ青になった少女の顔。
「あ、あ、すいません……!」
ツツジは、木の上まで登ってきていた。小さな手には、所々引っ掻き傷ができている。
「眠ってらっしゃると思っていたのですが……。翌朝になっても、陽が高くなっても、まだ目を閉じていらっしゃるので、私とても不安になってしまって……!」
「何?」
その言葉に、身を起こす。見上げた空の色は、確かに自分が目を閉じる前とは全く違っていた。
……ああ、しくじったのだ。
「……すまない。人間の時間と神の時間は、平等ではないのだったな」
「な、なんのことですか?」
「いや、なんでもない。それより、起こしてくれて助かった。この姿はアタシが人の形をと願ってできた仮初の姿だ。山と意識を同化させ過ぎれば、あっさり瓦解してしまう」
「……? え、えっと……?」
「君には寂しい夜を過ごさせてしまったということだ。金輪際、このようなことはしないと誓おう」
「ああ、いえ! 事前に仰ってくだされば、ツツジはいつまでも神様のお目覚めを待ちます!」
慌てて両手を自分の顔の前で振るツツジの手を止める為、掴む。女神は、美しく微笑んだ。
「何を言う。一人で生きるのは寂しいのだろう?」
「あ、え……」
「人の時間は短い。それを共に過ごすぐらい、膨大な時間を持つアタシにとっては訳ないことだ」
「……!」
「遠慮なく起こせ。声をかけろ。アタシはもう、君に寂しい思いをさせたくない」
この言葉に、ツツジの顔がみるみる紅潮する。火照った頬を支え、彼女はえへへと笑った。
「私、神様のお嫁さんになって本当に良かったです……!」
「だから嫁じゃないと言うておるのに」
それでもツツジは、笑うのをやめない。なんとなくつられて神も笑い、ごまかすためにツツジの髪をくしゃりと撫でるのであった。
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